1「転校生①」
「ねぇ、知ってる? 『悪魔様』の合言葉」
オレンジ色の陽光が差し込む教室の中、女子生徒たちのひそめた笑い声が響く。
放課後の教室。閉ざされた扉に鍵をかけずとも、そこはもう少女たちだけの空間に成っていた。窓の外から微かに聞こえてくる掛け声や土を蹴る音も、少女たちの世界に水を差すことはない。
止めどない取り留めのない言葉の応酬、年相応の世間話だ。尽きぬ話題は転がる様に進んでいく、そして思いつきという小石にぶつかって地を離れ別の話題へと飛んでいく。同学年の学生の話から、今日の授業の教師の話、テレビドラマの話、インターネットで少し調べただけの都市伝説、そして流行りの噂話。
共有が出来れば、今を友人と楽しく過ごせれば話題なんてなんだっていいのだ。
この会話もその内の一つに過ぎない。
ただし、ないしょのはなしは自分たちだけに聞こえる小さな声で。
「この学校の、七不思議の四番目。願いを叶えてくれる悪魔がいるんだって。それを喚び出すための『合言葉』」
四階の空き教室で電気の消して中央に跪くの。そうして、こう唱えるの。
『悪魔様、悪魔様。どうか私の望みをお聞きください。悪魔様、悪魔様。どうか私の願いを叶えてください』
次に自分のお願いを声に出して言うの。
そうしたら、どこからともなく鏡の悪魔が現れて、そのお願いを叶えてくれるんだって──
★
午前五時三十分、携帯電話の目覚ましの音で少女は目を覚ます。
寝起きの少女はまどろみながら、携帯電話を開いてアラームを止めると、いつもの天井と目蓋の裏を交互に視界に入れていた。重たい目蓋と格闘しながら、瞬く間に五分後のアラームの音が聞こえてきて飛び起きる。少女はしっかりと開いたまなこで鳴り響くアラームを止め、大きく伸びをするとゆっくりと布団から起き上がる。少女は音を立ててカーテンを開き、まだ薄暗い窓の外に広がる新しい一日を迎え入れた。
少女の名は赤星雪菜。雪菜の朝はランニングから始まる。
雪菜は必要な身支度を終えると、肩につく程のショートヘアを首の後ろで一つに結き、朝食をとる前にコップ一杯の水を飲んでから家の外へと出ていく。
毎朝おおよそ五キロメートルの距離を三十分かけて走るのが雪菜の日課だ。体力を作るという名目で始めたこの運動習慣は、二年が経った現在では最初の日の五倍の距離を走れるほどになっている。
早朝の人通りの少ない道は雪菜にはお馴染みの景色だった。車通りも昼間に比べれば少ないが、全くのゼロではない。定刻通りに通り過ぎていく見慣れた色形の乗用車が赤信号に従い速度の緩んだ隙を見て、雪菜は歩道を駆け抜けた。右左右と、追い抜かした車を横目に横断歩道を走り抜ける。
五月下旬。日の出から一時間が経過した東の空は薄青色にすっかり明るくなっているものの、いまだ低い位置にある眩い熱の玉は鋭角に町を照らしつけていた。日向には徐々に熱がともり始めるが、大半の領土を占めていたのは建物から大きく伸びた日陰だ。風が吹けば、夜に冷やされた空気が涼しく頬を撫でた。あと一月もすればやってくる一番昼間が長い日に向けて、雪菜の見る朝の景色も徐々に日向が広がり、明るいものに変化していた。
毎朝見かける顔馴染みにすれ違いざまに挨拶をしながら、雪菜は軽快にアスファルトを蹴った。今日も、いつも通りの朝だ。
★
早朝の日課を終え、自宅の自室に戻ってきた雪菜は軽い汗の処理を終えると結いた髪をほどき、今年で二年目になる冬用のセーラー服に袖を通す。朝食をとるためにリビングへと向かえば、弁当を作るために起きてきた姉とちょうど行き合う時間だ。
「おはよう、ひかり」
「おはよう雪ちゃん。今日も早いね」
雪菜がいつも通りに朝の挨拶をすれば、二歳年上のひかりもいつも通りの言葉を返す。雪菜よりも少し小柄でおっとりとした性格のひかりだが、炊事洗濯をテキパキとこなすしっかり者の長女である。ひかりのふんわりと広がる柔らかなロングヘアーが束ねられ、一本の細い髪束が出来上がる。
あくびを漏らしながらキッチンに入ったひかりは、手慣れた手付きで壁にかけてあったエプロンをつけた。
今日のおかずについてカウンター越しにリビングにいる雪菜が問えば、昨日のうちに下ごしらえを済ませておいた唐揚げを作るんだ、とキッチンのひかりがはにかみながら返した。
「いいなぁ、私もお弁当がいいなぁ」
「雪ちゃんは給食食べるでしょ」
四月から高校生になったひかりは昼食の弁当を自分で用意するようになった。作る量は三人分。自分と、毎朝平日に働きに出る母親と、そして同じ学校に通う恋人の分。
大好きな母と愛しの彼のために弁当を作ることはひかりにとってまったく苦ではなかったし、元々料理が好きなひかりは毎朝楽しそうに調理をしていた。朝食の準備のために雪菜がコンロへ近寄れば、出来立てのおかずを口に入れてもらえる日もあった。
雪菜はキッチンにあるオーブントースターの中にいつもの八枚切りの食パンを二枚並べながら、フライパンからパチパチグツグツと鳴る音に耳を傾けていた。キッチンペーパーに上げられていく熱を帯びた香ばしい油の匂いが雪菜の鼻腔をくすぐる。トーストをのせる皿を取り出しつつ横目で盗み見る、こんがりキツネ色の魅惑的な衣の姿に思わず生唾を飲み込んだ。朝から何も食べていない雪菜には、毎朝のことではあるが刺激が強い光景だ。
弁当に入れるがために冷ましてしまうなんて少しもったいない、揚げたて熱々を味わえるのは今この場だけだ。そんな物欲しそうな視線に気づいたひかりが仕方ないなぁ、と満足げに笑う。雪菜が掲げる平皿へ、菜箸でちょこんと二つ唐揚げが盛り付けられた。
今日も、いつも通りの朝だ。
★
時刻は七時二十分。朝食を食べ終えて少し経ったら、寝起きの母親に見送られ、雪菜は自身が通う時森第一中学校へと向かう。
朝のホームルームが始まるのは一時間後。徒歩十五分の距離に住む学生が家を出るには早すぎる時間だが、雪菜のタイムスケジュールではきっかりの登校時間だった。
通学路には制服姿の学生がまばらに見られた。朝練習に参加するには遅すぎる時間帯にいるこの学生たちも雪菜と同じく、手に持っているのは指定のスクールバッグだけだ。学校に近くなると、運動部の掛け声がわずかに耳に入ってくる。
正門から敷地内に入ると、学校指定の体操着を着た生徒たちが列を成して真横を走り抜ける。雪菜は最後尾で大きく揺れるポニーテールを反射的に目で追いかけていた。
五月下旬、四月に入学した一年生も仮入部期間の甘い幻想からはとっくに覚めている頃だろう。それでも続けていくと決めた女生徒の背中を眺め、角へ消えていくまだ白い運動靴に雪菜は心の中で声援を送っていた。
上履きに履き替え、ようやく二階にある二年二組の教室に辿り着いた雪菜は、すぐにある異変に気がついた。
窓際の列の一番後ろの席に、机と椅子が一組多くなっている。席替えしたての雪菜の左隣の席は昨日まで座席自体が存在しなかったはずだった。
それが示す意味など、一目瞭然だった。
時間の経過と共に登校してくる生徒の数も増え、教室は徐々に新しい座席の話で持ちきりになっていた。ホームルーム五分前の予鈴が鳴り終わる頃には既に学年中に知れ渡ったのか、廊下からも新しい座席を覗きに来た生徒たちのざわめきが聞こえてくる。
「二組に転校生くるらしいぞ」
「男の子かな、女の子かな」
「私は女の子がいいなー」
「えー、男の子がいいな。イケメンの!」
「委員長何か聞いてないの?」
「先生から話は聞いてたけど、まだ見たことないんだ」
「変な時期だよね」
「朝礼ある日からとかじゃないんだな」
「おい、職員室に転校生いたぞ!」
「えっ! どうだった?!」
「多分女!」
「多分ってなんだよ」
「雪ちゃん隣の席だね、仲良くなれそうな子が来るといいね」
「うん。趣味とか合えば嬉しいかも」
本鈴が鳴っても止まることのなかった会話は、担任教師が教室に入ってくると徐々に消えていった。その静まり方はいつも以上に早く、クラス一同の期待が表れているかのようだった。
授業時間の始まりを告げる起立、礼、着席の一通りの所作を終えても、クラスは静けさを保ったままだ。
教師もそれに応える様に、本日の連絡事項を短く伝え終えた。最後に普段と同じく生徒側にも連絡事項がないかの確認を取った。誰もいないことを確認すると、声高に教師が告げたのは昨日までとは違いホームルームの終わりではなかった。
「さぁ、皆お待ちかねの転校生を紹介するぞ!」
教師の一言で歓声が湧く。おほん、と声に出した咳払いが聞こえると、生徒たちは次の言葉を待つように再び静まり返る。
「それじゃあ水無月さん、入ってきて」
教室の外で待機をさせていたのか、昨日まで教室の最奥にあった雪菜の席にまで、すぐに教室の戸を開ける音がカラカラと聞こえてきた。
廊下から入ってきたのは少し小柄で、なによりも線が細い体格の生徒だった。転校初日からすでにこの学校指定の制服を身にまとい、律儀に身体を向き直して入ってきた戸を閉めていた。外向きにはねた真っ黒な髪が歩く度に小さく揺れる。細い脚から覗く、髪の艷やかな黒とは対照的な血の気の薄い青白い素肌。暗い紺色のセーラー服の中で白い肌がひときわ浮いて見えた。
教卓の真横まで歩いてきた生徒は立ち止まり、新しいクラスメートの方角へと体を向けた。後ろ手を組み、まっすぐと背筋を伸ばした姿勢はどこかこなれていて、訓練を受けた兵士が待機姿勢を取っているかのようだ。その毅然とした態度は、膝丈スカートの演出する少女らしいシルエットとはアンバランスに映った。
短めの髪と、制服の上からでも分かる凹凸の無い身体。中性的な雰囲気をまとったその出で立ちは、確かに頭だけ見たら女子生徒だと断言できる根拠には乏しかったかもしれない。
「今日からこのクラスの一員になる、水無月雨音さんだ。えー、水無月さんはだな」
「お早うございます。水無月雨音といいます。一身上の都合で時森へ越してきました。三月までの短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
担任教師からの紹介を遮る平坦な声色が発せられ、雪菜の耳にまでその言葉は一音もしぼむことなくはっきりと届いた。
ずっと真正面を向いたままの首は動くことなく、一体、視線はどこを捉えていたのだろうか。少なくとも雪菜の目には転校生が緊張をしているようには見えず、それ以上に感情というものを感じられない機械的な振る舞いだった。
担任教師も、雪菜だけでなく他の生徒達も面を食らってしまっているようだった。クラスのお調子者ですら、野次を入れるタイミングを逃してしまったようだ。直前まで期待と興奮に沸いていた教室内に、一瞬にして本物の静寂が訪れていた。
「……あーっと、全部言われてしまったな。水無月さんの席は窓際の一番後ろになるから、周りの人は色々と助けてやるんだぞ。それじゃあ授業も始まってしまうし、今日はここまで!」
担任教師は少し困り顔で沈黙を破り、そのままいつも通りにホームルームを終わらせる。それを合図にいつも通りに日直の生徒から起立、礼、着席の号令がかかった。
まだ教卓の横にいる転校生は、その場で礼をしていたようだ。
号令が終わる頃には、教室全体から妙な緊張が少しは取れたようだ。転校生は自分の座席に着く前に、すぐさま数人の熱心なクラスメートに囲まれていた。生徒の波に巻き込まれながらも、「次の先生に迷惑をかけないように」とだけ注意をする担任教師は安心した顔を浮かべてそそくさと教室を後にした。
「水無月さん、よろしく!」
「一身上の都合って何?」
「水無月さん前はどこに住んでいたの?」
「今はどのあたりに住んでいるの?」
「いつからこの町に来たの?」
転校生を中心にした渦の中では、嵐のようにそこかしこから質問が押し寄せる。しかし、対する転校生の受け答えも早かった。
「よろしく」
「それは言わないように言われているんだ」
「東北の方だよ」
「親戚の知り合いの家に居候させてもらっているんだ」
「一週間程前からだよ」
今度は親しさを感じさせる砕けた言葉遣いだった。一つ一つの質問が正確に聞き取れていたのか、律儀に一つ一つ返答相手を見ながら適した答えを返す。しかし、その言葉のほとんどは意味の範囲を広く取って輪郭をぼかした表現がなされていた。
先ほどの自己紹介の際には全く動かなかった視線とは打って変わって、丁寧な受け答えのように見えた。
全員と目を合わせられないから、最初からどこにも目を合わせなかったのだろうか。教室の端からその様子を見守る雪菜は、そんな推察をぼんやりと立てていた。会話をしたクラスメートたちも同様に、冷たく無機質な印象は杞憂であったと段々と緊張が解れていた。
その影響もあってか、一人また一人と渦が人を取り込んで大きくなっていた。一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴るまで、黒板の前の人だかりが消えることがなかった。
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