10「夢から出ずる影(後編)①」

※若干の暴力的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 

 帰り道で大好きな星羅せいらお姉ちゃんと会った。

お姉ちゃんはわたしに気がつくと、手をふりながらかけ寄って来てくれた。高校生のお姉ちゃんのキレイな長い黒かみはいつもの三つ編みだけど、今日のかみかざりはいつもとは違う。

 お姉ちゃんは気さくな笑顔をわたしに向ける。

 

「つけてくれたんだ」

「うん! すごく嬉しかったから」

 

 お姉ちゃんの手が結び目に付けた青色のシュシュにふれる。昨日あげたばかりなのに、もう今日使ってくれている。小学校の家庭科の時間にわたしが作ったものだ。市販のものに比べてかなり不格好だけれど、お姉ちゃんが気に入ってくれて使ってくれている。キラキラとした笑顔に照らされて心が弾んだ。

 

 あの日、わたしを暗い部屋から引きずり出してくれた手が、優しく頭に添えられる。

 

「学校、大丈夫? 心配事があったら言いなよ」

「うん。もう、大丈夫だよ」

 

 私が中学に上がった後もずっと気にかけてくれている。憧れの、優しいお姉ちゃん。

 受験の前に学業で有名な神社の合格祈願の御守りをくれた。成長を一番に見て欲しくて、お父さんよりも早く制服を見せた。夏休みに大きなショッピングモールに連れて行ってくれた。初詣も一緒に行った。学校が違っても学年が違っても、ずっと遊んでくれた。バレンタインもハロウィンもお菓子を渡しあって、ゲームの通信とか理由をつけて会いに行った。会いに来てくれた。

 

 

 だけど大学受験が始まってからだね。勉強が忙しくなって、あんまり会わなくなっちゃった。御守りは渡せたけど、そのまま春になって、忙しい大学生とは遊べなくなっていた。

 楽しいことがいっぱいだったんだろうね。それでも、心配事はなかったのかな。

 

 六月。天井に宙吊りになったお姉ちゃんの手首には、真下のおびただしい傷跡を覆い隠すようにして私があげたシュシュがついていた。

 

『おい、よく聞けよ。人間。お前にとっても悪くない話だ』

 

 目下には揺れる影がひとつ、ふたつ。私が作る蠢く影の中に落ちていく。いつの間にかいた知らない教室の窓からは、禍々しいほどに真っ赤に染まった空が見えた。

 

『俺の声が聞こえたということは、お前はそれなりだ。それなりなお前にはそれなりの願いを叶えてやろう』

 

 髪から服からポタポタと滴り落ちる音が鼓膜を揺らす。網膜が映す何もかもが赤く染まっている。教室は血で塗れたような錆びた赤色をしていた。

 私の眼も、身体を伝って落ちる生温かい雫も、きっとこんな色をしているのだろう。

 

『ふん。まぁ理解出来なくても構わん。とにかく叶えたい願いを言え。それをこの俺が叶えてやると言っているんだよ』

 

 身体が熱い。胸の内から燃え盛る、どこにも矛先を向けられない憎悪の炎が喉元まで迫り上がってきていた。熱に浮かされた思考の中で、猜疑心はとうに蒸発してしまったらしい。

 私は赤い雨に浸されたずぶ濡れの手を、鎖の悪魔に向けて差し出した。

 対価なら、この魂で払いましょう。

 

「どうか私に、復讐を遂げる力を」

 

 途端、黒い稲妻にも似た闇が視界を走る。影に落ちていく意識の遠くで、鎖の落ちる音が聞こえていた。

 

 目を覚ました時に耳に入っていたのは、ギュインギュインとけたたましく鳴る緊急地震速報の音だった。

 暗闇の中で青白く光るスマートフォンの画面を覗いた。数秒後に大きな地震が来るかもしれないらしい、と構えてみればすぐさま波が到達したようで、ベッドの上で揺れを感じていた。

 幸いにも一度目の揺れも、その後に来たであろう第二の揺れも自室への影響は大したことなかった。落ち着いて時刻を見れば、午前四時半の前を指しているではないか。

 遅れて出てきたニュース速報の通知ポップアップを指で払い除けながら、少女は深く息を吐いた。

 

 少女、月白麻美の朝は未明に始まった。

 五時半にセットしていたアラームをあらかじめ解除すると、大きく伸びをしてから起き上がり勉強机に向かう。

 これから朝八時半に待ち受ける期末考査のために、最後の悪あがきをするのだ。

 

 睡眠不足の割には妙に冴えわたった頭で、数学の問題集と向かい合う。

 閉め切ったカーテンに朝日が透ける頃には、眠気はすっかりと消え失せて顔を出す様子もなくなっていた。

 デスクライトが照らす薄暗い部屋の中では、シャープペンシルが紙を滑る音だけが響いていた。

 

 麻美が母に見送られながら家を出たのは、いつもよりも遅い七時前のことだった。テスト一週間前から部活動が停止されたので、八時十分に始まるホームルームの前に教室に到着できる時間に家を出た。所属する陸上部の朝練習に間に合うように行くならば、あと一時間は早く出る必要がある。

 

 地震による電車の運行遅延は全くなかった。平日だとラッシュアワーに相当する時間ではあったが、土曜の早朝からの人出は目視で数え切れるほどに少ない。ホームに入ってきた電車に乗り込むと、麻美はいつもの特等席に座って今日のテスト範囲の復習を進めていた。

 乗り換え駅で郊外へと向かう電車に乗り換えると、余裕のある空間では既に着席している同じ制服の女子学生たちが皆同じようにノートや単語帳とにらめっこをしていた。麻美も再び座りながら確認作業を続ける。

 そうこうしているうちに道中滞りなく目的地へと運ばれていた。

 

 朝の香栄野駅をお揃いの制服が埋め尽くす。駅構内から女学生たちの友達を見つけて話し合う声が聞こえてきていた。今日に限っては、そのおおよそが未明の地震への不安と、通常通りに開催されるテストを嘆く黄色い声であったが。

 

 麻美も少女の大群の波に乗って徒歩数分。無事に校門まで辿り着く。校門に一礼する此の花の模範的な生徒は少ないものの、守衛に挨拶をする生徒は大勢いた。

 多くの生徒が挨拶する中、麻美も混ざって挨拶をすると、守衛からも挨拶が帰ってくる。

 校内に入り、生徒用の昇降口を使いそのまま二階へ、下駄箱で上履きに履き替えて教室を目指す。

 三階にある高校一年生の教室に入ると、八時の予鈴前だというのにほぼクラスの生徒がそろっていた。

 一人で最後の追い込みをしている生徒。友達の机で一緒に最終確認をしている生徒。やっていることに多少の違いはあったが、皆テスト勉強をしていることには変わりがなかった。麻美も自席に着くと、すぐに鞄を広げてラストスパートをかけた。

 

 

 

──手応えとしてはまぁまぁであった。

 今朝解いたものに似た問題も多く出てきたし、計算ミスさえしてなければ平均くらいは取れている……はず。

 

 初日の三教科のうち、数学二教科という個人的な難関を通った麻美の心境は非常に軽やかなものであった。帰って勉強して、そうしたら明日も一日勉強できる。

 

 テスト終了と共に、一気に騒がしくなった教室から一人また一人と生徒が廊下へ抜けていく。皆一斉に参考書類の入れ替えのために生徒用ロッカーを開閉をするものだから、廊下では大混雑が起きていた。三階層分の少女たちの喧騒が吹き抜けを伝って校舎全体に重なり交わっていた。

 

「月ちゃーん、お疲れ!」

 

 ロッカーでの作業を終えた麻美の肩を叩いた声の主は、校則スレスレの華美な赤いカチューシャを着けたクラスメイト、百江千尋だった。千尋の色の薄いショートボブには単色の赤がよく似合っていた。

 彼女と麻美は所属する部活動は違うものの、中学二年生に一度同じクラスになり、高校一年生の現在も同じクラスとなれた気の合う友人の一人だ。

 

「お疲れ様。初日から疲れた……」

「それじゃ、さっさと帰って勉強でもしましょうかね」

 

 他の親しいクラスメイトにも週末の挨拶やお互いの武運を祈る激励をしつつ、麻美は千尋と共に教室を後にした。寄り道もせず、目指すは四時間ぶりの香栄野駅だ。

 正午前。夏の晴れた空はくっきりとした深い青色をしていた。南中した太陽が、ジリジリと肌を焼きながら黒にも似た深い紺色のジャンパースカートを照りつける。思わず手で日影を作ってしまうほどの強い光は、より濃い影を地面に写した。

 

「うげー。やっぱりあっついよねぇこの制服。熱を吸ってますね、絶対」

「最近はもう焦げてるんじゃないかって思う」

「わかるー」

 

 千尋は使用する駅は同じ香栄野駅なものの、乗る電車の路線が違っていた。時間さえ合えば、こうして学校から改札までのほんの数分を他愛のない話をしながら過ごしていた。

 

『麻美』

 

 友達と並んで談笑しながら歩く、日常の一コマに黒い亀裂が入ったように思えた。否、目を向けなかっただけで最初からずっと、影は麻美の足下に離れず付いてきていた。

 駅に着いた途端、少年のような高い声が耳に入ってきた。隣の千尋には届かないけれど、麻美には聞こえる声。いつもなら話しかけてこないこの昼の時間に、悪魔の声がしたのだ。

 

『雪菜だ。お前に会いに来たみたいだぞ』

 

 ユキナ──アカホシユキナ。昨日、公園から立ち去った時に麻美を追いかけてきた少女だ。学校がバレたのか。昨日は制服姿じゃなかったはずなのに、どうして分かったのだろう。「関わらないで」と告げたのに、なぜ彼女はのこのこ出向いてきてしまったのだろう。

 

『さぁ、麻美。お前は一体、何をどうするんだ? わかってるだろ。二度目はないぜ』

 

 ささやく悪魔の口調は弾んでいるようだった。彼にお膳立てされた思惑通りの状況なのかもしれない。

 要求に対して麻美が気乗りしていないことは昨日悪魔にも割れてしまったところだ。

 

──あぁ、どうして来てしまったの。見逃してあげていたのに……

 

 麻美の心の内を埋め尽くしていたのは追跡者に対する焦りや恐れではなく、ひとえに憐れみの情であった。

 

 去る六月、雨の中で無念に打ち震えていた麻美を足元からすくい上げたのは、鎖で覆われた悪魔だった。

 見知らぬ教室に浮かぶ悪魔から持ちかけられた願いを叶えるという信じがたい話を、麻美が二つ返事で飲み込んだのだ。

 悪魔との契約に己の魂を差し出すと提言した麻美に対して、悪魔からの回答は意外なものだった。

 

『結構な心意気だ。だが、今は要らん。願いを叶えさせること、それ自体が願いの対価となる』

 

 月白麻美が鏡の悪魔に願ったことは三つ。目的はただの一つだったのだが、具体的な望みでないと的確に叶えられないと、悪魔からの助言を受けて細分化した。

 そして、顔も知らぬ相手への仇討ちという途方もない無理難題を、悪魔は見事に叶えてみせたのだ。

 

 一つ目に、激情の矛先の素性を知ることを。

 二つ目に、報復を遂行するための冷徹な心を授けることを。

 三つ目に、非力な女が私刑を下すのに足る力を与えることを。

 

 六月の終わり。目的を遂げた麻美に悪魔が告げたのは恵んだ力の返却ではなく、その力を用いた協力の要請だった。

 この時、これまでも力によって副次的な作業をこなしてきていた麻美に反抗の意思は全く湧かなかった。

 しかし詳細を聞けば、理性のタガがこれを邪魔した。麻美自身も二つ目の願いで消え失せたと思っていたものだが、悪魔の願いを叶えるに当たっては麻美の願いの範疇から外れてしまっていたようだ。

 

 願いの重ねがけを頼んだものの、どうやら難しい望みだったらしい。結果、麻美は自らの意志を持って〝何の恨みもない他人〟を傷つけなくてはならなくなったのだ。

 既に犯した罪と、受けた恩恵はよく分かっている。多少の無理を通すのも易いものだと思っていた。

 だが本人を前にした。苛立たしい弱いものイジメをしていた子ども達とは違う、何ら罪のない少女を前にした時。

 

 麻美が咄嗟に選択したのは、尻尾を巻いて逃げることだった。

 

 麻美は自らの邪念の弱さに負けて悪魔の期待を裏切った。恩義に報いる忠臣とは程遠かった。だから後ろ向きに、二度と会いませんようにと、そう願っていたのが昨日の話だ。この世の願いを聞き届けるのは、やはり悪魔の役割なのだろう。

 

 改札を抜け、千尋と別れると麻美はいつもの下校と同じく乗り換えに最適な位置で電車を待っていた。

 背後の動向が都度悪魔に耳打ちされるが黙ったまま、到着した電車に乗ってすぐ空いてる座席に座った。一息つくや否や、鞄から音楽プレイヤー入りのポーチを取り出して耳にイヤフォンを着けた。プレイヤーを操作してお気に入りの音楽を耳に流し込んで、いたずらに上がり続ける心拍を鎮めるべく努めていた。

 瞳を閉じて、空にした頭の中を音楽だけで埋めていく。いつも励まされている景気のいいアップテンポなポップスも、今は歌詞の意味も追えずに流れていった。ぼんやりとした意識の中でいつの間にか違う音が聞こえてくる。曲の長さを頼りにした時間感覚も失われ、ブレーキの度に目を開けて現在位置を確認するはめになっていた。その短い確認の間に、幸いにも標的は視界に入ってこなかった。

 

 追跡者との位置関係は未だに変わらず。イヤフォンの中に入り込むような助言が耳に入る。

 車両から降りてもまだ付かず離れずに追いかけてくる様子は、間違いなく麻美の後を尾けているそうだ。麻美は深くため息をつくと、いつも通りの最短ルートを通って電車を乗り換える。

 

 耳へと流す音楽はそのままに。上手く移動してくれているのか、視界の端にも映り込まない少女と共に再び電車に揺られ始める。

 決心を固めることに苦心している様子の麻美を見かねたのか、黒のイヤフォンから悪魔のささやきが忍び込んできた。

 

『なぁ、お前。ひとつ考え方を改めたらどうだ?』

 

 いつも聴いている声色の中でも、一際穏やかに響いてきたのが逆に不自然なほどであった。

 悪魔から出された助け舟が見てくれのいいだけの泥舟だったとしても、麻美はそれに乗る決意をしなければならない。麻美が短い時間で頭を捻って、あの少女への加害と向き合うのを躊躇っている中では決して得られない悪魔的な発想が出てくるに違いないからだ。

 

『お前が折角穏便に済ませたというのに、アイツはお前の意に沿わず、お前を苦しめる為に追ってきているんだ』

 

 悪魔の声が、音波が直接脳を揺さぶっているようだった。音に連れられて、聞こえたものがそのまま自分の思考として解けていく。

 緊張していたはずの四肢からは徐々に力が抜けていっていた。悪魔の声色に合わせて、酷く悲観的な感情が湧いてきていた。

 

『可哀想な麻美。アイツが追ってこなければ、こんな忙しい時期に余計な心労を重ねることも無かった。アイツが現れなければ、御恩のある「悪魔様」の機嫌を損ねて信用を欠くこともなかっただろう。ならば──

 

 ここはひとつ、奴に報復をすべきではないか?』

 

 パチン と頭の中で何かがはまる音がした。

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