7「鏡像複体(前編)②

 春香の収集した情報によれば、四階の空き教室が「熱心に願いを叶えてほしい人が行く」場所らしかった。

 

 一月弱の見回りをしてきた記憶を辿ってみても、四階の教室には補習に使われる通常教室か、物置部屋のような予備教室、そして常に施錠の管理がされている文化部使用の部室しかない。

 下校時間まで施錠のされない予備教室は過去に学生の溜まり場となっていたこともあるが、現在の四階教室の長時間滞在は禁止されなくとも避けられている状態だ。不良生徒の持ち込み荷物も学生の姿自体も最近ではほぼ見られなくなっていた。

 同時に、教室内にも備え付けの鏡があるとは到底思えず、雪菜と雨音共に手持ちの鏡もなかったため、春香を帰しながらも彼女の持っていた折り畳み式の手鏡を借りてきた。

 

 二人は一旦荷物を取りに二年二組の教室に戻ってきていた。五時過ぎの中途半端な時間に運動部の生徒は戻ってきてはおらず、また夕方近くまでおしゃべりで時間を潰す生徒たちも既に帰った後のようだった。

 本当に今日これから試すのか、という雨音からの確認に対し、雪菜は肯定を示すように頷きながら答えた。

 

「まだ全然日も出てるし、善は急げって言うでしょ。それに雨音もついて来てくれるなら」

「勿論。離されないように気を付けるよ」

 

 日に日に瘴気が濃く色づいていく状況を鑑みても、現状解決のための行動を急いだ方がいいことは間違いがない。今回仕入れた「合言葉」が本物だったとして、その結果本当に願いを叶えるという鏡の悪魔が出てきたとして、雪菜ができる行動は「学校に巣食う魔の退散を願うこと」ただ一つしかないのだ。

 仮に、踏切で生徒を操っていた呪いが「悪魔様」によるものだったとしても、雨音から譲られた指輪のちからで解呪可能なことは経験している。

 

「流石に、空間を変化させるような強力な悪魔を消せる程の力はその指輪に無いよ」

「それで十分だよ。今、私にできることをやっておきたい」

「やっぱり本気で願いを叶えてもらう積もりかい。藪を突いたら蛇が出るかもしれないのに」

「……指輪って蛇からも守ってくれる?」

「蛇の程度によるね」

 

 雪菜にも全く恐怖心がないわけではない。遭遇を恐れてすらいた異形を、自らの手で喚び出すのだ。でも、隣には。

 

「蛇が出ようが鬼が出ようが、僕が隣にいる限り君の事は必ず守るよ」

 

 夏至が迫る夏空は夕方にもかかわらず、昼間の明るさを保ったままだった。

 

 夕暮れの色が染み付いた空間は、赤く燃えているかのようだった。窓から覗く景色は闇に呑まれ、空間を閉ざすガラス窓は走る少女の姿を鏡のように反射している。

 

「なんで……! どうして……!」

 

 ポニーテールは優雅になびくこともなく、大きく左右に揺れていた。普段から運動なんて二の次の少女の息は激しく荒れ、疲れた脚が上がり切らずに重く下がる。

 

「なんっ……で誰もいないの?!」

 

 彼女の背後からは、上履きがペタペタと床を蹴る音が聞こえていた。

 

 

 四階へと続く階段からは相も変わらず瘴気が重たく降り注いでいた。日頃の見回りの時間よりも夜が深くなってしまった分、足元に絡みつく瘴気は既に五月終わりの、雨音が転校してきたあの日の夜のそれと比べても遜色ないほどにまでに濃くなっていた。

 

 呼吸を整えて、いざ扉の前へ。一度で成功しなければ、なんの捻りもなく四階の空き教室を虱潰しに試していく作戦だ。

 

 手始めに、階段最寄りの空き教室へと歩を進めていく。扉についたガラス窓から覗く教室は、消灯がされていて薄暗く、覗く雪菜の顔がぼんやりと映り込む。教室の奥にピントを合わせて注視しても他の生徒の姿や気にするようなものは見られない。

 

 扉へ手をかけて、一気に開く。躊躇いはなかった。真っ先に雪菜の目に飛び込んできたものがあった。それは直前に廊下から様子を伺った時には明らかになかったもの。

 鏡だ。扉を掴む己の鏡像と目が合った。

 

 木製の縁が囲むそれの大きさは、目測で雪菜の身の丈以上にあることがわかる。それほどまでの面積を持った鏡が、突如として目の前に現れたのだ。

 異常な光景に止まる雪菜の腕が掴まれ、扉を閉める方向に動き出した。真横の雨音がそう判断したのだ。

 閉まりゆく扉が視線を遮り、再びガラス窓からの教室が視界に戻る。

 鏡は、ない。

 

「……どうする。入るかい?」

 

 静かに頷き、今度はゆっくりと扉を開いた。やはり鏡は変わらずにそこに有り、緊張した面持ちの雪菜の姿を丸ごと映している。

 鼓動が早まる。背中に嫌な汗が伝う感覚がした。気持ちの悪い生暖かさをもった瘴気が体にまとわりつくのが、重さは感じないものの酷く気に障る。雪菜は無意識のうちに胸の上で拳を作っていた。

 

 鏡に歩み寄る雪菜のすぐ後ろを雨音が続いた。雪菜に合わせてゆっくりと移動する。

 

 鏡との距離はどんどん詰まってゆく。鏡の中の虚像がどんどん大きくなってゆく。そろそろ手を伸ばせば鏡に触れられそうだというときだ。雪菜がゆっくりと胸の前に置いてあった左手を伸ばす。その様子を背後の雨音が目を光らせて見守っていた。

 

 鏡の前に立つと、瘴気が保つような異様な熱が正面から発せられていることが分かった。

 鏡の方から出向いてくれるならば、持参しなくても条件が満たされるということか。固唾を飲んだまま、見つめる鏡像の雪菜が口を開いたのが見えた。

 

 

バタンッ!

 

 

 突然の背後から物がぶつかる音が鳴り、雪菜はとっさに振り向いた。見えたのは閉ざされた扉。開け放しにしておいたはずだった。

 

「しまっ──」

「消えてしまったね」

 

 雨音の言葉に反応して、雪菜が正面へと振り向いた時、そこに鏡は既になく、普段通りの重ねられた机と椅子だけが取り残されていた。

 大きな鏡が無くなった教室には、カーテン越しに赤色の斜陽が差し込んでいた。

 

「まだ何も言ってない……よね?」

「うん。だから、何も成立してはいないと思うよ」

「そう、だよね」

 

 はたして雨音の位置から鏡の中の雪菜が見えていたのだろうか。消える前、口元を動かしていたあの姿が雪菜の網膜に焼きついていた。あの瞬間、本当に自分は口を開いていたのか、いまいち自信がない。危険な局面から逃れた残り香が、雪菜の胸中を少しだけざわつかせていた。

 

「気を引き締めて。また面倒事だよ」

 

 雪菜が雨音の方を振り向くと、雨音は扉を指し示めしていた。ガラス窓から覗く景色は、消灯後のような闇を映し出していた。

 

「閉じ込められたね。また」

「マジかー」

 

 雪菜は「ははは……」と力なく笑い、大きくため息をついた。瘴気の侵入を心の何処かで恐れてか、ゆっくりと空気を取り込む。

 

「行こっか。ここで待ってても出られないだろうし」

 

 雨音が頷くのを見ると、雪菜も釣られて少し頷いてから扉に手をかけた。ゆっくりと開き、様子を伺いながら廊下へと出る。

 瘴気が沈着でもしたのか、スス汚れのように壁と床とが黒ずんでいた。暗闇を映す窓ガラスからは赤い光が射し込み、瘴気の黒と混ざり合った景色は赤黒く染まっていた。今にも錆のような臭いがしてきそうだ。

 

「うぇええ……なんとも気味の悪い……」

「!」

 

 何かに気がついたのか、雨音はピクリと動いた。

 

「どうしたの?」

「いや……今、声が聞こえた気がしてね」

 

 カチ、カチと音がする。開いた刀身がハンドルと一直線に固定される音。そしてそれを再度ハンドル内に仕舞い込む音。

 

 少女は走っていた。日頃の運動不足が祟ってか、息を切らした少女の速度は落ち切ってしまってた。背後からの追跡者との距離も、もう開くことはない。

 

『ほらぁ、もっと急いで逃げなきゃ。早くしないと追いついちゃうぞぉ』

 

 追跡者は少女にも聞こえるようにわざと大きな足音を立て、歩きながらゆっくりと少女との距離をじっとりと詰めていく。その手の中には、手のひらに収まるほどの柄が握られていた。

 

『それにしても笑えてきちゃうわよね。あーんなに校則に厳しかったあきちゃんが廊下を全力疾走するなんてさ。あはっ笑える』

「誰……か……っ!」

 

 少女の声を遮るように、床を踏みつける音が大きく鳴る。

 

『えーなになに? 全っ然聞こえないなぁ。ダメじゃない、助けを求めるならもっと声を張り上げなきゃ。本っ当に秋ちゃんはなんにも学ばないんだなぁ』

 

 追跡者は少女との距離を詰めつつ、力なく助けを求める少女の背中に罵声を浴びせる。手に握るハンドルから刀身を飛び出させ、広げてはカチリと音を立てさせた。

 

「……誰か助けてっ!」

 

 息も絶え絶えにも関わらず、少女は本日一番の大声で助けを求める。そんな逃げ様を見る追跡者の目は笑っていた。

 

『あはっやれば出来るじゃなーい。でも、よくできました、なんて言えないわね。うん、及第点』

 

 少女の脚も限界を迎えようとしていた。

 

 

「────誰か助けてっ!」

 

 下の階からだろうか、階段を伝って雪菜たちがいる廊下まで誰かの叫び声が反響して届いた。声を聞くや否や、雪菜はすぐに走り出す動作に入ったがその足はおよそ一歩踏み込んで止められた。雪菜の右腕を雨音が掴んで引いたのだ。

 

「不用意に飛び出さないで」

「でも声が!」

「罠かもしれない」

「他に人がいるかもしれない!」

 

 雨音は否定をしなかったものの、口元をきゅっと結び、握る手の力は増していく一方だった。言いたいことは言っている。後はお互いが相手の意見を飲み込むかどうかの拮抗したやり取りであった。だがそれも、もう一度の叫び声によって終わりを迎える。

 

「助けてぇ!」

 

 雪菜はもう一度声を聞くと、すぐに若干力の緩んだ雨音の手を振りほどき、そのままの勢いで雨音の細い手首を掴んだ。

 

「早くしないと! 行くよ!」

 

 雪菜はそのまま、不本意ながら観念した様子の雨音を引っ張って走りだした。

 

 

『あはっ、さっきよりも断然いいわぁ。合格点! まぁ秋ちゃんはやれば出来る子なんだから、このくらいは出来て当然よねぇ』

 

 少女と追跡者との距離はもう一メートルにも満たない。手を伸ばせば平気で捕まえられる距離で、尚も泳がせる。少女はほとんど歩いている様な速度で、それでもまだ走った。

 

『でもなぁ、やっぱり運動はダメみたいねぇ。体育は評価三だもんね』

「……さい」

『ねぇ、もう歩いた方が早いんじゃないの? それとも一休みしたらー?』

「……るさい」

『まぁいいのよ、秋ちゃんはお勉強さえ出来たらいいんだから』

「うるさい! ──あっ」

 

 その一言に力を使い果たしてしまったのか、少女は無様に足をもつれさせてその体は弧を描いて一気に床に叩きつけられた。

 もう少女には起き上がるだけの体力はない、這いつくばる少女の背後には追跡者。

 追跡者は足を止め、少女を見下ろしていた。

 

『あーあ、遂に追いつかれちゃったね』

 

 追跡者はうつ伏せの少女の背中に馬乗りになると、再び手元のナイフの開閉動作をし始めた。カチ、カチと音が鳴る。

 

『ねぇ、秋ちゃん。本当はコレもさ、護身用じゃなくて、みーんな刺してやりたくてパパから盗ったんだよね?』

 

 先ほどまでの追跡者は、ナイフをつまみんでぶら下げ、少女の頭の上から少女に見せつけると、不気味に小笑いした。

 

『ふふふ、それにさぁ、護身用だったら、とっくに私のこと刺してるかぁ』

 

 追跡者だった少女はぶら下げたナイフを振り子の様に揺らしながら笑い混じりで言い放つ。

 

『あぁでも意気地なしの秋ちゃんには無理な話か。だぁって秋ちゃんは好奇心でもだぁれも傷つけられない良い子ちゃんだもんねー。オトナの言いなりの、可愛い可愛いゆーとーせー』

 

 元追跡者の下の少女は口をつぐみ、ただただナイフの振り子に怯えるだけだった。それを不快に思ったのか、元追跡者はハンドルを持ち直してから少女の頬にひやりと冷たいナイフをあてがう。

 

「ひっ……!」

『ねぇ? 私の話聞いてる?』

 

 元追跡者はナイフの平坦な部分を少女の頬に当てて、刃を当てないようにしてそのまま軽く叩く。

 ぺちぺちぺちという軽い音は反響もしなかった。

 

『秋ちゃんさぁ、怖いっていうより本当は悔しいんでしょ。私にこぉんな事されちゃってさ。殺してやりたいでしょ。いいじゃん、殺っちゃいなよ。コレとおんなじ物、持ってるんだからさ。今こそ護身の時でしょ?』

「そ、そんなこと……」

 

 元追跡者からの問いかけに、少女は涙混じりの少し潰れた声で答えようとする。

 

『私には無理?』

 

 元追跡者はナイフで頬を叩くことを止めると、一度ナイフを体の前まで持ち上げてから閉まった。

 

『秋ちゃんはさぁ、自分が嫌いなんだよね、変わりたいんだよね。そんなんで本気で変わる気あんの?』

 

 黙ったままの少女に元追跡者は深くため息をつくと、再びナイフを開いた。

 

『あーあ、せっかくチャンスをあげようと思ったのになぁ、ほーんと残念。臆病者の変われない秋ちゃん』

 

 

 二回目の悲鳴が聞こえてから、まだ巻き込まれた生徒のいる現場に辿りつけていない。全速力で悲鳴の源を探しているが、前回閉じ込められた時と同じように、階段からは移動できず扉からという通常あり得ない移動手段になるのだ。しかも、必ずどこかしらの廊下に出るわけでもなく、教室同時が繋がるという新たな挙動も見せ始めた。

 早くしないと。雪菜の焦りは扉を開けるごとに増していた。心臓は高鳴る一方だ。

 

「早くしないと、早くしないと」

「雪菜、落ち着いて」

 

 名前を呼ばれ、反射的に振り返る。もちろん声の主は隣にいる雨音だった。

 

「でも、でも……」

「大丈夫さ、まだ次の悲鳴は聞こえてこない」

「でも……」

 

 聞こえないのは、悲鳴がもう出せないような状態にあるからではないのか。自分たちが声から遠のいているからではないのか。そう言いかける雪菜の手を雨音は両手で強く握った。

 

「大丈夫、僕を信じて」

「雨音……ごめん、ありがとう」

 

 雪菜は静かに焦りが引いていき、胸の鼓動が次第に緩やかになっていく感覚があった。

 

 落ち着きを取り戻した雪菜が扉を開けるとようやく再び廊下に出られた。悲鳴はまだ聞こえなかったが、明らかに異様な光景が目に入ってきていた。

 後ろ姿で距離もあり不鮮明ではあるが、長い髪の毛とセーラー服から女子生徒が女子生徒に馬乗りになって何かを話しているようだとわかった。

 二人は女子生徒たちに気づかれないようにゆっくりと背後から近づいていく。

 

『私が変わることの出来ない秋ちゃんの代わりをやってあげる』

「……! それってどういう……」

 

 距離が近づいてから、やっと女子生徒の姿がわかるようになってきた。

 雪菜は生徒に見覚えがあることに気がついた。この後ろ姿が二年二組の学級委員長・東宮とうみやあきであり、聞こえてくる声も彼女のものであると確信が持てた。

 しかしながら、雪菜の知っている東宮委員長は他の生徒に馬乗りになるような、攻撃的な性格の人物ではなかった。例えじゃれあいだろうと、廊下でこんなことをするほど常識がない人には思えない。

 

『そんなの決まってるじゃない』

 

 そして最も異質だったのは、秋の右手に握られた刀身剥き出しの小型ナイフ。

 

『アンタを殺して、私がアンタに成り代わるってこと!』

 

 秋が手に持ったナイフを高く突き上げるのを見て、雪菜はすかさず秋に飛びついた。ナイフを持つ腕を掴み上げながら、脇から斜めに体当たりが入った。

 

『ッ?!』

 

 女子生徒に馬乗りだった秋は雪菜の体がぶつかると斜めに突き飛ばされる。床に押し付けられながら、右手を雪菜に力強く握られると、その痛みでナイフを床に落とした。すかさず雨音が遠くへ蹴り飛ばす。

 

「東宮さん何やってんの?!」

 

 思わぬ邪魔に秋は状況が理解出来ていないようだった。秋の拘束を雪菜に任せ、雨音がうつ伏せの女子生徒に近づくと、また別の異変に気がついた。

 

「大丈夫かい? ……東宮さん」

 

 雨音の言葉に雪菜は違和感を持ち、倒れている女子生徒の方へと視線を向けた。雪菜もようやく此度の最大の異変に気付いた。

 そうして、自分が押さえ込む秋と倒れ込んでいる東宮と呼ばれた生徒とを見比べてみると──

 

「なんで、東宮さんが二人いるの……?」

第七話「鏡像複体(前編)」おわり

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