1「転校生②

 

 一時間目の始業チャイムの音で、ようやく人の檻から解放された転校生は指定された座席につくことができた。

 幸い、教科担当の教師はまだ来ていない。

 

「お疲れ様」

 

 軽くため息をつく隣の座席の転校生に体を向けて、雪菜が話しかけた。転校生は視界の中央に雪菜を捉えた途端、目を見開いて浅く息を呑んだように見えた。黒板の前での泰然と構えた態度はどこへやら、今度は転校生がわずかながら動揺をした様子だった。しかしそれはほんの束の間のできごとで、既に先刻までの澄まし顔がそこにある。

 

 転校生は短く「どうも」と返事をした。特に声がうわずった様子もない。

 当の雪菜は転校生の動揺を誘った原因に見当もつかず、少し不思議に思いながら改めて話しかけた。

 

「はじめまして。私、赤星っていうんだ。赤星雪菜。よろしくね、水無月さん」

 

 雪菜がはじめましてと共に差し出した右手を受け取ることなく、転校生は「よろしく、赤星さん」と返した。

 

「わからないことがあれば何でも聞いてよ」

 

 そう言いながら、掴むもののいない手を恥ずかしさを悟られないようにゆっくりと、さも自然に腕を下ろすかのように引っ込めた。残念ながらファーストタッチは玉砕だった。

 しかし捨て台詞の効果か、一時間目の国語の授業が始まる前に、すぐに転校生から雪菜に話しかけてきた。

 

「あぁ、そうだった赤星さん。実はね、この学校で使われている教科書をまだ貰っていないんだ。だから赤星さんの教科書を見せてはくれないかな」

 

 短い言葉でも分かる、妙に堅苦しいような、少し古風な言い回しだ。こんな喋り方を聞くのは、数十年前に放映されたらしいザラついた音質の映画の中でくらいだろう。省略しがちな最近の若者の言葉遣いよりも丁寧な、一語一語がハッキリとした言い方だ。雪菜の周りでこういう喋り方をする人間は大人ですらいないかもしれない。

 

「あ、そっか。それならお安い御用だよ」

 

 自分の机を浮かせ、転校生の机とぴったりと並べると、雪菜は教科書をつなぎ目の中央に置いた。 

 

「少し見てもいいかな」

 

 転校生からの断りへ、了承とともに教科書へと落とした視線の端。バラバラと素早くめくれていく紙束を押さえた指先、その根本。セーラー服の裾から、転校生のか細い手首が覗く。無駄な肉はおろか、必要な肉すらもついていないように見える。思えば、この子の脚もこの手首の様に細かった気がした。

 

「ふぅん、こういう事をやっているんだね」

 

 転校生の声が聞こえて、雪菜はふと我に返った。他人の体型のことを気にするなんて失礼だった、と自分に一喝をする。

 今度は雪菜が教科書を手に取って、先日の授業で扱っていたページを広げた。開きながら、直前までの内容を知らないのに授業を聞いてもわからないだろう、とすぐさま思い至る。

 

「そうだ、授業ノートとか貸した方がいいかな」

「赤星さんが貸してくれると言うのなら、是非お借りしたいね」

「わかった。とりあえず今日持ってきている分は全部貸すね」

 

 いや、しかし荷物を重くしてしまうだろうか。それよりもコピーして渡した方がずっと見られるのではないか。そんな気を回している内に、教壇に担当教師が到着したようだ。上手く説明が出来なかったな、と雪菜はやきもきしながら日直の号令で起立をした。

 

 

 授業中、真横の転校生は三度に渡り雪菜の顔をじっと見つめた。一度二度では声をかけるまでではないと思っていたが、さすがに三度目ともなればよほど気になる何かがあるのではないか。雪菜は思い切って、けれども教師に注意されないよう小声で、転校生にたずねる。

 

「もしかして顔に何か付いてたりする?」

 

 すぐさま「いいや」と否定する転校生の声も、雪菜だけに聞こえるようなわずかな音量だった。

 

「不快だったなら謝るよ。君が少しばかり知り合いに似ている気がして、つい見てしまった」

「さっき驚いていたのもそれのせい?」

「……そうだよ」

 

 返答を少し渋ったのか、転校生は一拍遅れて肯定をした。クラスメートへの曖昧な回答と比較すれば、謝意からか的確な返事をしてくれたようだ。しかし同時に、答えたのだからあまり詳しくは聞かないでくれ、とでも含ませたような間だと雪菜には思えた。

 授業中に話を膨らませ初日から教師の注意を受けるのは避けたい。この落ち着いた子が驚くほどに、自分が誰かに似ているなんて。とてつもなく興味深い話題ではあるが、雪菜は好奇心を胸の中に抑えつけた。

 

 それきり、二人の間では授業内容以外の私的な会話はなく、授業は滞りなく進んでいった。

 

 

 授業と授業の間で雪菜たちの窓際最後列の周りには入れ代わり立ち代わりでクラスメートが集まっていた。二時間目以降の授業についても同様に教科書がないため、繋げられたままの二つの机を囲うようにまたしても人間の檻ができあがっていた。今度は雪菜も渦中だ。折角なので真横の転校生の顔を眺め返してやっていた。

 

 やはり最初に目に飛び込んでくるのは、わずかに青の光沢を持った見事な黒髪。烏の濡れ羽色というものだろうか。目の形は猫を彷彿とさせるような、ぱっちりとしたアーモンド型。気まぐれに人を眺めて、近づいてこないように線を引くのはカラスと猫のどちらが近いだろうか。

 

 はじめこそ転校生はクラスメート達からの質問に受け答えはしていたものの、どうやら少し面倒になってきたようだった。曖昧にすることすらせず、さぁ、どうだろう、と答えるのは最早返答自体を放棄したようだ。

 

 猫ならば、この場からするりといなくなっていただろうに。その細い身体で、信じられないような狭い隙間へも入っていくのだろうか。

 雪菜がそんな風に考えたところで、結局横の女子生徒はヒトの形をしている。

 

 授業時間の開始を告げるチャイムが鳴れば、再び人だかりが消えていく。

 幸いにも、短い休憩時間の中ではまだ別のクラスの生徒達は話しかけてくることがなかった。

 

 四時間目が終わり昼食の時間がくると、今度は対面で机を並べた転校生から話しかけられた。

 

「ねぇ、赤星さん。もし良かったら昼休みに校舎を案内して貰えないかな」

 

 引く手数多の現状で雪菜に案内を頼んだのは、ただ単に隣の席という理由が主だろう。しかし、もしかすると授業中の反応を見て、雪菜なら自分が疲れるほどの質問攻めをしてこないと踏んだからかもしれない。

 仲良くなれる機会かもしれない。転校生からの頼みに期待を膨らませつつ、雪菜は快く応じた。

 

 給食を食べ終えると、四階建ての校舎の二階の現在地から案内が始められた。

 

 授業で使う教室は一階、二階、三階にほぼ集約されている。

 一階にはオーソドックスな職員室や保健室、図書室はもちろんのこと特殊な備品が多い放送室や技術室、パソコン室が置かれている。特筆すべきは音楽室がこの階層にあることだろうか。体育館と校舎とを繋ぐ通路も一階にしかない。

 視聴覚室や理科実験室などは二階、美術室や家庭科室は三階に置かれていた。

 学年の教室は二階と三階に置かれていた。第一学年の教室は三階にあるが、第二、第三学年の教室は二階にある。各学年が三学級ずつ。昔は四階まで学年の教室に使っていたようだが、少子化の影響で現在では空き教室を複数持て余しているようだった。

 事実、雪菜が属する第二学年も一学年が八十人をほんの少し上回っただけなのだ。国に定められた一学級の上限人数の中で、ギリギリ三学級を作ることのできる数値だ。今年入った一年生の方が全体の人数が多かったが、来年もそうなるとは限らない。

 

 開校以来六十年の時が経った我らが時森第一中学校は、二十年前の建て替えの際に、学区域が近く生徒数が減少していた時森第三中学校との合併が決まり、従来と同じ土地にこの新校舎が建った。そのため旧校舎もなければ増設したような別棟もない。グラウンドだって一トラックが二百メートルもない比較的規模の小さい学校だ。

 

 昼休み中に全ての教室を回ることは可能ではあったが、何分目新しい転校生、行く先行く先で足止めをくらっていた。

 雪菜を切り口に呼び止められることも数度。更に似たような質問を繰り返される。転校生からうんざりとした雰囲気が漏れ出ているのを察した雪菜は、まだ全てを見回れていないものの早めに教室へ戻ることにした。

 

 初日に見回った方が不都合がないだろう、と残りの案内は放課後にする提案を雪菜が出した。しかし転校生には担任教師と放課後に面談をする約束があるらしく、その後に案内をしてもらいたいと申し出があった。

 転校生にとってはまだ慣れない環境だ。特に夕方であれば、知っている人間が横にいるだけでも安心感を与えられるのではないだろうか。本日は部活動も家の家事当番もない日だったため、雪菜はその条件に応じた。

 

 雪菜個人としては、四階は日の高いのうちに回りたかったのだが、現実はうまくは進まないようだ。本日の授業に四階への移動がなかったため、四階の案内は放課後にすることになったのだった。

 

 

 午後の授業と帰りのホームルームが終わり、生徒たちの机が一斉に後方に下げられ掃除の時間が始まる。

 出席番号順の班分けの中で、本日から一番番号が大きい転校生は番号通りに最後の班へと入れられた。今週は一階の昇降口前の掃除を担当しているため、終わったらその足で職員室へ向かうらしい。

 掃除場所への案内は転校生と同じ班員に任せ、雪菜は自身の班が今週担当する自教室の掃除に勤しんだ。

 班員から転校生について聞かれたものの、まだよく分からないとだけ答えた。クラスメートに対して余計な先入観を与えたくはなかったからだ。それに皆が転校生と話したがるので、雪菜もまだ何も聞くことができていないのは本当のことだ。

 

 つつがなく放課後を迎えた雪菜が一階で野暮用を済ませ終わったとき、丁度転校生の後ろ姿が見えた。これから面談に向かうらしい。

 教室に戻った雪菜は転校生を待ちがてら、今日指定されたばかりの宿題に取り掛かっていた。数学からの課題は、本日扱った授業範囲の練習問題を解くというものだ。提出の義務はないが、次回授業時に生徒を当てて黒板へ答案を書かせるなどという厄介な催しが待っている。忘れる前に真っ先に終わらせておきたい宿題だ。

 

 最後の問題を解いている最中、転校生が戻ってきた。

 顔を上げ、教室の壁掛け時計に目を向けると、時刻は午後四時十五分頃を指していた。転校生の方も個人面談にしては少し長めに教師と話していたらしい。担任は熱心な若い教師だ、もしかすると最初の自己紹介を見て言いたいことが多かったのかもしれない。

 雪菜にはそちらの話題も興味があったが、あまり帰宅時間が遅くなっても転校生に悪い。ノートを閉じて、案内を始めるべく立ち上がった。

 

 残る四階は選択教室やクラブ活動に使用される部室が主であった。正確に言うならば、四階は現選択教室と旧選択教室とが集約されている。

 旧選択教室は、前後に黒板を備えた作りの教室を仕切り板で区切った半分部屋であり、クラスの生徒を少人数に分ける授業時に活躍していたようだ。一学級に四十人が満ちていた時代の話ではあるが。持て余した半教室が今ではこぢんまりとしたクラブ活動室となっているのだ。少子化というのも、部室を与えられた文化部にとっては不謹慎ながら喜ばしく思うことであった。

 そして、現選択教室こそが旧学年教室として使われていた教室だったらしい。現在使われている三階以下の学年教室と同じ作りの教室で、よく放課後に補習で使われている。

 残りはスペースの大半が備品の詰まった物置としての役割を担った予備教室となっている。本日増えた転校生の机と椅子も、この予備教室から運び出されたものに違いない。部室以外は下校時間まで施錠されないため、同階で部活動に励む生徒たちも許可のもと備品を持ち出している。

 

 説明だけであれば、四階は現代の社会問題に晒されているだけの何の変哲もない階層だ。

 雪菜がこの階の案内を早い時間に終えたかった理由は、目に見えるところとは別にあった。

 

 この階層は曰く付きなのだ。

 

 五月初旬、飛び石の連休期間が明けたばかりの憂鬱な季節。始まりは複数の生徒が体調不良を訴えたことだった。選択教室で授業や補習を受けた生徒が悪寒や倦怠感を訴えるようになっていた。

 それから数日も経たずに、四階での授業や部活動をした生徒が保健室に担ぎ込まれる事態が起きてしまったのだ。

 

 四階にいると気分が悪くなる。

 四階で人が倒れた。

 どうやら化学物質が出ているようだ。

 お祓いをしたみたいだ。

 

 様々な事実と憶測が飛び交った。事態を引き起こした直接の原因は未だに不明のままとされているが、何が悪いのかについて雪菜は知っていた。否、視えていた。

 

 生まれつき、視えた。他人の目には見えないもの。件の四階にて〝よくないもの〟が足元から立ち込めてくるのが雪菜には最初から視えていた。

 

 それは薄く黒ずんだ煙のようなものだった。足元に留まったままのそれは、きっと空気よりも重いものなのか、それとも重たい空気そのものか。雪菜はそれが夕方になるにつれて色濃くなることを視て、知った。それが何をもたらすのかは現状を見て、学んだ。

 可能であるならば、四階には日の高い内に来るべきなのだと考えていた。

 夏至が近づくにつれ、日の長さは延びてきている。しかし煙の色は初めて目視した時よりも日が経つに連れて色付いているように視受けられていた。

 

 

 階段を上る前に、雪菜は転校生に自分の体質は伏せ、まず四階であまり良くないことが起こっていることを説明した。

 なぜかは分からないけれど、夕方になるにつれて気分が悪くなりやすい。といった具合に自分の知る限りの情報を含ませた。どのような機構で身体に不調が出ているのか分からないのも事実だ。

 その上で、確かめる。

 

「いつもならこの時間はまだ、部活している子たちが結構いるんだけど。それのせいで一般教室で部活動をしているところが多いみたい。気分が悪くなるかもしれないけど、今日見ておく?」

 

 話を聞いた転校生は少し考えてから、言葉を紡いだ。

 

「赤星さんは付いて来てくれるの」

「水無月さんが今日見たいなら、もちろん。短く済ませれば多分平気だし。二人で行けば、どちらかがダメでも介抱できるし」

「そう。どうせなら夕方に見ておくことにするかな」

 

 あえて選んだならば、この子は意外と野次馬気質なのかもしれない。とは思っても、雪菜もこのことを深く警戒している訳ではない。

 保健室送りになった生徒はほんの一人二人であるし、いずれも一時間以上四階に滞在していた生徒だった。雪菜としてもほんの十数分で案内自体は終わると踏んでいた。気分が悪くなることは、よほどこの子が過敏でない限りは低い可能性だろうと。

 

 雪菜の軽薄な危機感をよそに、四階へと続く階段を見つめる転校生の瞳には冷たい光が宿っていた。

 

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