1「転校生④」

 五月下旬。午後五時過ぎ、校舎四階。

 雪菜は焦っていた。出入り口は内側からも鍵の開閉が可能なものだ。開いていないはずがなかった。鍵は確実に開いているのを見て、確認している。しかし現に戸が開かないのだ。

 

「建付けって、こんな急に悪くなるっけ」

「向こう側から引き戸を押さえ付けられている、という場合はどうかな」

「まさか。そんなことして誰が喜ぶのさ」

「可能性が完全に無い訳じゃないだろう」

「そりゃぁ、そうだけど……」

 

 ここは四階だ。一階ならまだしも、窓から出ることも叶わない。突然のことに頭が上手く回らず、解決策が浮かばない。転校生の溜め息を一つに更なる焦りが生まれてくる。

 五月下旬の空も、五時過ぎともなると段々と暗くなってくる。夜に近くなるのは雪菜にとって非常に都合が悪かった。

〝よくないもの〟が色濃くなって、〝更によくないもの〟に変わってしまう前に早く四階から去らねばならなかった。

 

「ごめんね、水無月さん。私が部室に入れちゃったばっかりに……」

 

 徐々に赤くなる空に、雪菜はひどく申し訳ない気持ちになり、転校生への謝罪を口にした。体調不良になるどころか、まさか閉じ込められることになるなんて予想だにしていなかった。欲を張ってしまったせいだろうか、親交を深めようとしていたのにトラブルに巻き込んでしまうだなんて。

 

「悪いのは開かない戸の方だろう、赤星さんが気に病む必要はないよ。とりあえず座ろうか。ゆっくり落ち着いて対策を立てよう。それに、時間が経てば開くかもしれないよ」

 

 出入り口の戸を押さえつけている何かが時間でなくなると言いたいのか、本当にそんな妙なことがあるのだろうか。そう思いながらも、転校生に諭された雪菜は再び向かい合うようにしておずおずと椅子に腰掛ける。

 それこそ気を遣ってもらっているのか、転校生から話しかけられた。

 

「先程は聞かなかったけれど、赤星さんはどう思っているんだい。この階の『良くない事』について」

「私は、その、……霊的なものだと思っているよ。だから今扉が開かないのも、それが原因じゃないかと少しだけ、思ってる」

 

転校生からの問いかけに、雪菜は自分の意見を正直に相手の目を見て述べた。

 

「私もそう考えたよ。開かない戸の原因も少しは関係していると思う」

 

 転校生も同様の見解のようだ。あまりに突拍子のないものだと一蹴されてしまうかとも危惧していたが、転校生の淡々とした口調に雪菜の方が驚いてしまった。

 

「赤星さん、忠告しておくよ。この四階にある君が嫌悪しているものが呼び水になって、これからより良くない事が起きるかもしれない。だからこれからも身の安全には気を配った方が良い」

「なんで、嫌悪って……」

「廊下を歩く度に顔を顰めていたよ。君がそんな顔をしたのはこの階だけだ」

 

 そんなに顔に出てしまっていただろうか、咄嗟に手を頬にやる雪菜には、次にくる言葉もおおよそ想像がついた。決定的な言葉に備えるように身構えた。

 

「こんな状況だから聞いてしまうけれど、君には視えているんだろう。普通、目には見えないもの達が。だから足元を視て、あんな顔をしたんだろう」

 

 雪菜が伏せていた体質のことは、ほんの数分後には今日はじめて言葉を交わした転校生にあっさりと見抜かれていたようだ。しかし同時に、胸の奥から期待が滲んできた。

 

「水無月さんも普通なら、足元を見ながら変な顔をしてただけで〝視える〟だなんて言わないよね」

「そうだね」

「私が想像するに、もしかして水無月さんも視えているんじゃないの?」

「『も』、とは君が視えている事を認めるんだね」

 

 雪菜がゆっくりと頷くと、転校生もすぐに自分も同じだと肯定した。

 こんな危機的な状況ではあったが、雪菜は一人歓喜に打ち震えていた。新しく自分のクラスにやってきた転校生が、自分と同じ体質だった。自分の視える世界を同様に観測できると肯定してくれた。

 雪菜にとって今までの視える知り合いは二つ年上が一人、最近できた視える知り合いも年下であった。血縁にも同じ体質の人は母方の祖母しかいない。同じ学年で、同じクラスで、しかも隣の席に自分と同じものが視える人がやってきたことに大きな喜びを感じていた。

 

 喜びはその顔に漏れ出ており、それを見た転校生は目をそらすようにして開かずの戸へ視線を移した。

 

「兎に角、今はここから出る事を考えよう」

「そう、だよね」

 

 今の状況下で不謹慎に浮かれていたことを恥じ、雪菜は少し縮こまった。

 

──ドンッ!

 瞬間、扉の向こう側でものが落ちたような、鈍く大きな音が鳴った。

 音に驚き視線を戸のある廊下側へと向ける雪菜と、驚くことなく冷たく鋭い視線を同じ場所へ送る転校生。

 

「なんの音、だ、誰かいるのかな? 助けを……」

「待って。様子を見よう」

「でもそんなことしたら、人が」

「いいから」

 

 腕を掴むほどの転校生の強引さに雪菜は従うことにした。きっと、よほどのことがあるのだろう。

 戸を挟んだ向こう側からは足音すら聞こえなかった。例の体調不良問題があってから、遅くまで活動する部活も少ない。予備教室から机を運んでいる最中に床に落としてしまった音なら、とっくに階段を下りている頃合いだ。

 転校生の方へ雪菜が不安げな顔を向けると、この予断を許さない状況の中で目を瞑っていた。しかしそれは一瞬の間のことで、すぐに瞳を開き、ただ一言。

 

「もう扉は開くんじゃないかな」

 

 何をもってそんなことが言えるのだろうか。一体、何を待っていたのだろうか。

 困惑する雪菜がその言葉を確かめようと席を立つと、今度は転校生の制止はなかった。出入り口の前に立ち、手を掛け、いつも開けるくらいの軽い力で取っ手を引いた。

 

 戸は、カラカラと音を立ててレールの上を走った。

 

 安堵もつかの間。開いた扉からは夜になるにつれて色濃くなった〝よくないもの〟が流れ込んでくる。それを視た雪菜はすかさず扉を閉めた。

 

「水無月さん、開いたよ。早く帰ろう!」

 

 密室から解放された嬉しさで、今の雪菜には何故転校生の予想が当たったかなど、すっかり思考から外れていた。

 

「よし、行くよ」

 

 再び戸を開け、自分たちが部室からでた後に素早く閉め、鍵を掛ける。

 異様に暗い景色だった。まだ下校時刻になっていないのに、廊下の蛍光灯が消されていたのだ。廊下の窓から見える景色も、部室から見えていた明るかったはずの空よりもどこか暗く物悲しい。

 床には部室に入る前に視えていたものより色濃い〝よくないもの〟が立ち込めていた。白い上履きが黒ずんでしまいそうな黒煙だ。全ては煙が視せている錯覚なのだろうか。

 久々の光景にうろたえる雪菜をよそに、転校生の視線は真っ直ぐと、その奥のものを見つめていた。

 

「どうしたの、早く帰ろう」

「向こうから来るよ。君は隠れて」

「えっ」

 

 転校生の言葉と同時に突き飛ばされた。咄嗟に受け身を取ることが出来ず、バランスを崩した雪菜はそのまま横向きで黒煙の中に飛び込んでしまった。床にそのままぶつけた腕や太ももに鈍い痛みが走る。一体何がどうなっているのか、雪菜には状況が全く把握できていなかった。

 黒煙の中で、思わず呼吸を止めた。黒がかった視界は悪く、上半身を起こして煙の上の生温い空気を吸い込んだ。暗い世界の中で、雪菜の瞳は真っ黒な転校生の後ろ姿を捉えていた。

 

 転校生より奥側には人影があった。先ほどもそれを見つめていたのだろうか。目を凝らして視れば、ただの人影ではなかった。

 それは妙に背が高い影だった。近づいてくるのに、足音が聞こえない。上下にふわふわと揺れているのは歩いているからではなさそうだ。人と呼ぶにはあまりに細い腕、細い足、そして何よりも、体側から翼が生えていた。

 暗がりに静かに佇む人の形をしたものとはまた別種の、異様な気配をまとったそれは、最早〝人ならざるモノ〟と言う他にない。

 桜散る頃の記憶が雪菜の脳裏を駆け巡る。

 細長い影がこちらへ近づいてくる度に、心臓の音がいやに大きくなっていく。息が詰まりそうだった。

 

「水無月さ──」

「君は黙って、その中に隠れていて。何とかするから」

 

 人影から視線をそらさずに転校生は小さめの声で返事をする。どんどんと近づいてくる人影は、とうとう色を識別できる距離にまで姿を現す。 細く黒い手足は枝のように細く、人の四肢と同じ形をしたそれはまるで骨だけが剥き出しになっているかのようだ。顔から視える肌は白を通り越して青色をしていた。

 テレビゲームのクリーチャーが等身大で出現したかのようだ。視るからに、紛れもなく異形と呼ぶのがふさわしい。

 

『あららららー何かしら? 何かしら?』

 

 雪菜のでも転校生のでもない、少女の声のような音が鼓膜を震わせる。

 音の出所はまさしく転校生の真正面から、廊下の空洞を震わせることのない音が、意味を持って耳に届く。

 転校生を覗き込むように、異形の頭の位置が下がった。物がぶつかる軽く高い音がしたかと思えば、黒煙が異形を中心に舞い上がる。

 今度は足音を立てて距離を詰めてきた。転校生は動かない。

 

『ねぇアナタ、そこのアナタよ。そんなに見つめないでよぉ、照れちゃうじゃない』

 

 視界が悪いせいか、異形にはどうやら目の前の転校生しか見えていないようだった。その奥にいる雪菜にはまだ気づいていない様子だ。

 異形の悠然とした動作からは真意が見えてこない。出会い頭に襲ってこないなら、敵意がないのなら、もしかしたら上手いこと逃げられるのではないか。

 雪菜がそんなことを考えていた矢先。

 

「手短に言うよ」

『あらぁ、何かしら? 何かしら?』

「君の姿はひどく不愉快だ。その喋り方もね。早く僕の目の前から消えて貰いたいのだけど」

 

 転校生は口早に、あろうことか見上げるような異形に向けて挑発したのだ。

 

『あ……? 何ですって? 何ですってぇ?』

「消えて貰おうか、今直ぐに」

「水無月さん……!」 

 

 恐怖心からか、雪菜の声はかすれ、転校生にも異形の耳にも届かなかったようだった。

 見た目をけなされたせいか、喋り方を否定されたせいか、恐らくどちらもだろうが、異形はひどく憤慨している様子だ。

 

「この程度で苛立つかい。余程沸点が低いようだね」

『何ですって? 何ですって? 何ですって? 何ですってぇ! アナタのこと嫌いよぉ!』

「おぉ、怖い怖い」

『殺してあげる』

 

 異形はまるで威嚇する猫のように大きく前へ屈み、腕を床につけた。さらに体を丸め込むメキメキと軋んだ音が異形の体から漏れ聞こえる。脇腹のあたりから細い胴を突き破って、細く黒い枝が生えてきた。雪菜の視界には転校生越しに、おぞましいシルエットだけが視えていた。もぞもぞと黒い体を歪ませて枝のような脚が太く鋭く成長していく。

 瞬く間に、黒く巨大な蜘蛛が現れた。八本の脚と、無数の目玉がこちらを向く。しかしすべての焦点が雪菜より手前に合っているようだ。

 大蜘蛛は目と口を最大限まで開き、超音波のような甲高い声が耳をつんざく。思わず耳を塞いで動いてしまったが、敵の照準は転校生に合ったままだ。

 

 微動だにしない転校生。雪菜は恐怖心からか、倒れていても足がすくんでいるのがわかった。

 なぜ、水無月さんは眺めたままなのだろうか。自分がいるから動かないのだろうか。自分がいるから、わざと相手を怒らせることを言って注意を削いでくれたんだ。

 

──こんなところで、黙って視てるだけじゃいられない。ただ何もせずに失うだなんて、絶対に嫌だ。

 

 化け蜘蛛が転校生へと飛びかかろうとした瞬間。雪菜の身体が、とっさに動いた。

 黒煙の中から飛び出した雪菜が転校生を押し倒す。驚いた表情で横向きに倒れた転校生に覆いかぶさり、床に伏せた。頭の上方を重たく風が通り抜けていく。どうやら大蜘蛛からの体当たりを避けられたようだった。

 

「何をっ………!」

 

 甲高い咆哮を上げながら、大蜘蛛は直ぐに次の攻撃に移り、再び二人目掛けて飛んでくる。

 真下の転校生が雪菜の身体を押しのけて、空に向かって腕を伸ばしているのが見えた。

 その刹那。

 

『ぃぎゃぁああぁああぁ!』 

 

 この世のものとは思えない金切り声が聞こえた。その間にドンッと遠方に物が落ちる音が耳に入る。上体を起こして視れば、先程まで暴れていた大蜘蛛が脚を上にしてバタつかせていた。しかしそれも鈍い動作だった。すべての足が上方を向いて絡まった後、大蜘蛛はピクリとも動かなくなった。

 

 うるさく鳴る心臓の音を手で押さえながら、雪菜はホッと溜め息を漏らした。

 

「助かった……の、かな」

 

 突然真横から肩を掴まれ、ビクリと身体が跳ねる。手の主は同じく起き上がっていた転校生だ。おずおずと振り返って顔色を覗うと、そこに安堵の表情はなかった。怒りとも悲しみとも言えない強張ったその表情は、焦りや緊迫と言うのが最も相応しい顔つきであった。

 

「どうして飛び出してきたんだ!」

「助かったんだから、いいじゃ──」

「ちっとも良くない! 怪我程度じゃ済まなかったかもしれないんだぞ!」

 

 異形相手に涼しい顔で挑発行為までしていた転校生が切羽詰まった顔で声を荒げている。雪菜は何故自分が怒鳴りつけられているのかが理解出来なかった。自分も似たような危険を冒したくせに、折角危機を脱したのに、こんな理不尽なことがあるのだろうか。とにかく、相手をなだめなくては。

 頭とは裏腹に、緊張の糸が解けてきていた。雪菜の意志とは関係なく、目の前に勝手に涙の膜が出来上がってしまっていた。

 

「み、水無月さんが守ろうとしてくれたから、私も何とかしなきゃと思って、そしたら、体が勝手に動いてて……」

「君がそうまでして助ける価値なんて僕にはないだろう!」

「そんなことない!」

 

 転校生の言葉を、雪菜は即座に否定した。声を張ったせいか、顔が瞬時に熱くなった。涙を蓄えた目頭がさらに熱くなる。

 

「だってクラスメートだよ? 隣の席で、それで、水無月さんは私にとって、初めての同い年の視える人だったから……」

 

 涙混じりの少し潰れた声で、雪菜は転校生に語りかける。表面張力が保てる涙も最大値に達している。ぼやけた視界では転校生がどんな表情をしているのかなど、汲み取る余地もなかった。

 

「だから、絶対仲良くなりたいと思ったよ。だから、怪我して欲しくなかったんだよ」

「それだけ? たったそれだけで君は命を張ったのかい?」

「私にとってはそれだけ大事だってことだよ」

 

 雪菜の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。涙の膜が流れ落ち、ようやく視界が鮮明になる。

 雪菜の言葉を聞いた転校生は唇を震わせて何かを言いかけたが、声に出す前に押し殺したようだ。強く口をつぐんだ転校生。雪菜の見間違いでなければ目も若干潤んでいた。

 転校生が瞳を閉じて、深くため息を吐いた。

 

「そろそろ帰ろうか、ここも体には良くはないし」

「そう、だね。……あれ?」

「どうしたの?」

「ごめん、腰が抜けて立てないみたい」

 

 自ら立ち上がった転校生が視線を落とすと、今になって震えがきたのか、そこには勇気を振り絞ったあとの少女の脚があった。

 

「手を貸すよ」

「あ、ありがとう水無月さん」

「……雨音で構わないよ」

「私も、雪菜って呼んでよ」

 

 雨音の手を掴み、引き上げられる力に乗って立ち上がる。まだ目に溜まったままの涙を制服の袖で雑に拭うと、ヒリヒリとした痛みが目の周りに残った。

 心配したのか顔を覗き込んできた雨音に笑いかけると、雪菜は再び雨音に手を差し出した。朝と同じ右手だ。

 

「改めて。よろしく、雨音」

「こちらこそよろしく、雪菜」

 

 雨音は差し出された手を受け取り、二人は固い握手を交わしたのだった。

 

第一話「転校生」おわり

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