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1「転校生③」
階段を上り、踊り場から四階の方を見上げれば透明で薄黒い煙が幽かに揺らめいていた。初めて存在を意識した日よりも目に視えて暗い色をしていた。
足を踏み入れると押し出した空気が煙を割り、黒く歪なとぐろを巻いた。重たく地面を覆う煙。その挙動が似ているものとすれば、水をかけたドライアイスが吐く真っ白な煙か。しかし対照的な色合いが持つ温度もまた、白く冷えたものではなく黒く熱をこもらせていた。
例えるなら、色のついた湯気が天に昇ることなく地面に留まり続けているかのようだった。
サラサラと消えていくこともなく、じっとりと床一面を覆い続ける黒色。この階の空気だけ湿気をはらんでいるようだ。雨の日の少し蒸れたような臭いがする。それが視えることで脳が起こした錯覚かさえも、雪菜には分からないことだった。
歩く度、足元の〝よくないもの〟が重たく、しかし見た目は軽やかに上履きの上を撫でた。足首にまとわりつく不可解な温度に眉をひそめる雪菜の後ろを、転校生は凛とした様子で眉一つ動かさずについてくる。
転校生へ教室についての説明を手早く済ませると、四階の廊下のど真ん中、とある部室の戸の前へと誘導する。小さなガラス窓から、光が漏れ出しているのが分かる。引き戸の貼り紙には「壁新聞同好会」と書かれていた。
「どうやら新聞部のようだね。どうしてここに?」
「ちょっと見せたいものがあってさ」
雪菜が戸をノックすると、すぐに中から引き戸が開かれ、お団子頭の女子生徒が出迎える。
「ユキじゃん、珍しい。何の用?」
「あのさ、ハル。急で悪いんだけど、新聞の四月号を見せて欲しいなーと思って」
ハルと呼ばれた女子生徒は雪菜の後ろにいる転校生の姿に気が付いた。
「うぉっ! 二組の転校生さんじゃなーい! なるほどなるほど、それで過去の新聞を見せにきたのか。いい心がけね」
うんうん、と大きく頷いた女子生徒は二人を部室の中へ迎え入れた。
入り口の両端の床には、小皿に盛られた真っ白な山が設置されていた。その異質な出で立ちは、日常生活でも稀に見かけるものであった。
転校生の視線もそちらに向いたようだ。盛られたものを撒き散らさないよう、静かに戸を閉める。二つの山の影響なのか、部室内の床の空気は他の階の教室と変わらないものだった。
部室の中央には、二つの長机が対面に並べられた大きな作業台が置かれていた。その上には文字が書かれた模造紙が広げられている。鉛筆書きとマジックで書かれた文字が入り混じった模造紙だった。一番上には、既に清書された黒く太い手書き文字で「時森通信六月号」と書かれていた。
その六月号の上に、女子生徒が折り畳まれた模造紙を二つ、落とすようにして置いた。
「こっちが四月号で、こっちがその前の三月号ね」
「四月だけでよかったのに」
「ついでに見たいかなーと思って」
雪菜は四月号を手に取り机の上に広げる。
目に飛び込んでくる時森通信四月号の大きな見出しは、三つ。
「ようこそ新入生!」
「この学校の生徒として知っておきたいこと」
「部活動紹介」
四月号は新入生用に作られており、新入生を読者とした内容がほとんどだった。四月中には昇降口近くの掲示板に貼り出されていたものだが、今はこの壁新聞同好会にまで足を運ばないと見られないものだった。転校生もこの学校にとっては新しい生徒だ。目を通しておいても損はないだろうということで、雪菜はこれを見せにきたのだ。
「水無月さんにも役に立ちそうなものがあるといいんだけど」
「失礼な。うちの新聞はいつだって全部有用な情報でしょ」
「七不思議、ねぇ」
二人の会話をよそに、転校生が真っ先に興味を示したのは小さなスペースにある「学校七不思議」の記事だった。雪菜も共に記事を目で追いかける。
【学校七不思議】
こちらも新入生の皆さんに是非知ってもらいたい。我が部の四月号伝統の記事、七不思議紹介コーナーでございます!
一.夜に動き出す二宮金次郎
→こちらは残念ながら座っているものと交換に……
二.理科実験室の人体模型は夜中に動き出す
三.図書室には呪いの本が紛れている
四.鏡の中の悪魔は願い事を叶えてくれる
五.学校のどこかに開かずの扉がある
六.夜に誰もいない体育館で練習の音が聞こえる
七.七つ目は無し! あら不思議!
七つすべてを調べると何かが起きる……! らしい。
★
「そうそう、全部調べちゃダメだからねー。呪われちゃうから」
「全部ったって、七番目は調べようがないじゃん」
「だからここに書いているんじゃない」
女子生徒の答えに「だからか」と返す雪菜。転校生の方は少し呆れた顔をしていた。そもそも調べる、というのも不明瞭な表現だ。ただ見ても達成したことになってしまうのか、それもすべて投げ捨てるかのように七番目が据えられている。無いことの証明はできない。呪われようがないから、新聞にも七つ全てが掲載されているのだ。もっとも、呪われないことも保証はできないはずなのだが。
話題を移すように、転校生が女子生徒へ質問を投げた。
「君はいつもここで作業しているのかい?」
「うん。そうだよ」
「君は気分が悪くなったりはしていないのかな」
「あーそれか。うん。たまになるよ。先週あたりは結構ヤバかったけどさ、盛り塩するようになってからは大分改善されたよ。やっぱりコレって霊的現象だと思うのよねー」
入り口にあった二つの山、盛り塩は女子生徒が自分から始めたことだった。結果としては効果があったので他の部活も追随をして盛り塩を設置するようになっていた。しかしそれでも気分が悪くなることはなくなりはしなかった。
学校側からは部活動を一般教室で行うよう推奨されていたが、一般の学年教室は他所なのだ。部に関係のない他クラスの生徒全員が協力をしてくれる訳ではないし、いさかいが産まれるのも面倒であるため部室をそのまま使いたい部活動も多かった。
今では四階部室での活動を行う文化部は、活動時間を自主的に短縮して対応していた。
「霊的現象、ね……」
確認するかのように呟く転校生に、まだ新聞を読むかとたずねた。読みたいものは見終わったという返答があったので、女子生徒に新聞の礼を言って部室を後にする。
雪菜は今度はまた別の部室の前へと転校生を誘導していた。戸についた小さなガラス窓からの景色が暗く写る。
「写真同好会?」
「そう。ついでだからちょっと入ってって」
制服のポケットからプラスチックのタグのついた鍵を取り出した雪菜は、写真同好会と貼り紙された戸を開けた。
引き戸の側にはやはり他の部室と同様に盛り塩が置いてあった。先程までいた壁新聞同好会と同じく、床に広がる煙はない。煙が入ってこないよう、転校生を入れたら速やかに戸を閉める。
写真同好会は雪菜が所属している文化部だ。本日は活動日でないため、部室には誰もおらず鍵がかかっていた。鍵は掃除が終わった後に顧問の教師から借りてきたものだ。一応、転校生への部活紹介という体で借りてきた。
「とりあえずさ、座って座って。今日はちょうど人がいないけど、活動日以外にも人がいるときはあるからね」
「誰もいない部室に何の用だい?」
「私も水無月さんとお話しようかなって。ニ人きりで」
写真同好会では、一般教室と同じ一人用の机と椅子を並べて使っていた。給食の時に席を組むように、向かい合わせに列べられた机が部屋の中央に長く置かれていた。
転校生と向かい合うように椅子に座り、一息つくと雪菜は話を切り出す。
「その……どう? この階に来てみて。水無月さんは気分悪くなったりとかはしていない? 大丈夫?」
「気分に変化はないかな。案内ありがとう、お陰で大体分かったよ」
「そっか、それはどういたしまして」
転校生に体調不良は見られず、胸をなで下ろす。
それなら、今からでも少しだけなら話し込んでしまっても問題はないだろう、と椅子に深く座り直した。お待ちかねの雑談タイムだ。最初に切り出すこの質問は雪菜が見てきた限りではまだされていなかったはずだ。
「……水無月さんってさ、もしかしてオカルトとか好きだったりするの?」
壁新聞の七不思議記事に食いついたのだ。少なくとも、毛嫌いしているわけではないだろうと話題として投げてみる。
「好きという程ではないよ。ただ、興味があるだけさ。今起こっている事、これから起こる事にね」
転校生は今までと同様に素早くぼやけた返事をした。けれども興味があるという言葉は初めて口にしたかもしれない。
そして今度は転校生から話を切り出す。
「それで、一つ気になった事なのだけど。盛り塩は赤星さんが提案したのかな」
「違う……けど、どうしてそう思ったの?」
「ただ何となくだよ」
「もしかしてさ、私に似ている人がそういうことする人だったってこと?」
視線を逸らし沈黙する転校生。一時間目のできごとが途端に脳裏に浮かび上がる。しまったと思い直した雪菜が焦ってしどろもどろに紡ぐ「いや、その、答えるのが嫌だったら別に無理して答えなくとも」の言葉の途中。
「こんな事を言われても不快に思うかもしれないけれど、実は君と似ていると言った人が幽霊──というより普通は見えないものが視える人だったからなんだ」
あっさりと白状した転校生に、雪菜は面を食らっていた。
「急に話すなんて意外だったかな。こんな幽霊云々の話は教室ですると都合が悪いからね」
転校生は今度は真っ直ぐとこちらを見て言った。
心中を当てられ、ぎょっとした雪菜もすぐに新しい質問を投げかける。
「それで、私も幽霊が視えると思ったの?」
「そんな所かな」
「ははは、そんな知り合いがいるんだから水無月さんもそういうの視えるの?」
「それは君の想像に任せるよ」
転校生の言葉の残響が部室の空気に余すことなく吸い込まれ、一時の静寂が訪れた。
話すべきだろうか。信じてもらえるのだろうか。いや、確証が持てない。まだ一日目だ、距離を詰めすぎるな。思考が飛び交う脳内一人会議。沈黙も苦しく、手早く安直な決定案を出す。
「あ、案内も終わったし、そろそろ帰ろうか」
長居は無用だ。雪菜が提案すると、転校生もそれに乗り、帰宅する運びとなった。
雪菜が引き戸に手をかけ、入室時と同じ様に戸を開こうとした。
開かなかった。滑りが悪くて抵抗があるわけでもない。ガタリとも動く様子はない。隙間が埋められて固まっているかのようだ。
どんなに力を加えても解錠されているはずの引き戸が動かないのだ。まるで壁の溝に手をかけているかのようだ。 妙な唸り声を上げながら一向に出入り口を開けない雪菜を見て転校生がたずねる。
「赤星さん、何をしているの」
「えっ、あー、ごめんね水無月さん。扉が開かないんだ。鍵は掛かってないはずなんだけど、なんで……」
部室の時計は午後五時の時刻を示していた。
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