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10「夢から出ずる影(後編)②

  直前まで感じていた息苦しさもジャンパースカートに阻まれて燻っていた体の熱も吸い込まれる、氷で満たされたグラスの水を一気に飲み干したかのような痛みにも似た清涼感がじわりと胸から溶け広がっていく。

 一体今まで何を躊躇っていたのか。胸のつかえが取れたようにスッキリとした心地であったが、車両のクーラーに当てられて冷え冷えとした頭の一部にだけ、生暖かいモヤがかかっているようだった。気持ちの悪い温度差には目を瞑る。目的のための冴えた思考ができるなら、それで構わない。

 ずっと耳元で流れていたはずの軽快な音の波が戻ってきたのを感じた時には、次の駅として定期券の有効範囲内最後の駅名がアナウンスされているところだった。

 

 どうせ素性はバレているようだし、土地勘もある最寄り駅で構わないだろう。

 麻美がホームに降り立つと、やはり背後には少女がいるらしい。最後の意思確認に沈黙で応えて、イヤフォンを耳から外すと、改札を出て地上へと続く階段を上る。

 

『一つ忠告しておくか。最初にもう一人と分断しろ』

 

 もう一人いたのか。標的の少女を目視することを避けていたため、気がつかなかった。初めて知る追加情報に少し戸惑いを見せた麻美だったが、すぐに気持ちが冷たい方へと切り替わる。

 

『お前に渡してある程度の力じゃあ、アイツへの拘束時間に期待は出来ない。まぁ、最悪雪菜を一発殴ってやるだけでいいさ』

 

 悪魔からの忠告を聞き、手順を考えながらいつもの歩行速度よりも速くつかつかと見知った街を歩く。思考時間を稼ぐために悠長に過ごすのは得策ではない。相手にも同じ時間を与えないように手早く移動する。

 どんどん人通りのない場所へ。土曜日の昼下がり、誰にも見られなさそうな思い当たる静かな場所へと自らの意志で歩を進めていく。やる気の有無は声に出さずとも、態度で示す。

 

 そろそろ頃合いだろう。早歩きの麻美はあえて見通しのいい住宅街を通ってから、予定通り人気のない裏路地まで来ることが出来た。距離は十分に稼げている。

 建ち並ぶ雑居ビルたちが陽を遮ってできた大きな陰の中へと脚を踏み入れていく。悲鳴でも上げなければわざわざ建物の中の人たちも顔を出したりしないだろう。

 ここまで追いかけてこなければ、それでもいいのだが。しかし聞こえてくる実況によれば二人とも素直に尾けてきたようだ。

 

『立ち止まった。さぁ、楽しませてくれよ』

 

 角を曲がった麻美が歩きながら鞄を放り投げ、指先で合図を送ると、足元の影が盛り上がり螺旋を描きながら麻美を包み込んだ。

 駆け寄ってくる足音を出迎えるために振り返る最中に、影は揺らめきながらローブ状へと変化を遂げていた。

 

「かまいたち?!」

 

 意外なことに、標的の少女の口からは間の抜けた声が出ていた。まさか。まるで今、昨日出遭っていたことに気がついたとでもいうのだろうか。

 胸の前に拳を作っているが、何かの予備動作だろうか。警戒をしておく。

 

「鎌鼬。へぇ、アレが」

 

 もう一方のおそらく少女は落ち着いた様子で麻美を眺めていた。足先から品定めをするように視線が動いている。今の麻美が不快に思うには十分だった。

 か細い手脚から見るに酷く脆そうではあるが、悪魔曰く、こちらの方が危険度が高いらしいからには、力の多くは足止めに割かねばならないだろう。

 

『関わらないでって、ちゃんと言ったじゃない』

 

 麻美が合図を送ると、影のローブは大きく形を変えた。頭の中でずっと練っていたイメージ通りの姿を再現する。練り上がった影の大蛇が大口開けて前方の少女二人に対して威嚇の動作を取ると、もう一人が標的を庇うようにして前に出てきた。

 

「鎌にも鼬にも見えないね」

 

 名乗ってもいない名前に縛られたりしない。言い訳のようにそんなことを伝える必要もない。日陰に溶かし込んだ影に気づかずに無防備に踏み入って来たならば、どの道その程度だ。

 足で踏み込むような合図すれば、二人の間を遮るように、地面から影の仕切りがそそり立った。道幅全てに渡り、ネズミ一匹通る隙間も与えずに影の壁が出来上がる。

 

 その、壁が出来るや否やの瞬間。不意をついた相手へとすかさずに大蛇を向かわせる。これで手前の少女を絞め上げられれば、山を越えられる。

 

 麻美の計画に反して、すぐさま正面に向き直った手前の少女は同時に駆け出していた。

 動揺したのは麻美の方であった。向かってきた少女が、四つ脚かと錯覚するほどの低姿勢で迫り来る蛇の腹の下を一直線に駆ける。死角に入り込まれたと同時に、膝の裏に蹴りを入れられて前方に倒れ込んだ。目視できていなかったが背後を取られた。影のローブがクッションとなって痛みはないものの、崩れた体勢を背後から押さえ込まれる。

 

 気がつけば、麻美は自分より二回りほど小さな身体に馬乗りになられて地面に伏していた。腰の位置にヒト一人分の重みを感じながら、ローブで隠れているはずの首と片腕とを的確に背後から掴まれている。反対の腕も器用に膝で押さえつけられて身動きが取れない。

 

「術を解いて。それとも折ろうか」

 

 有無を言わせるよりも前に、掴まれた腕を後ろに引っ張り上げられた。反射的に上げそうになったうめき声を噛み殺す。背に乗り上げた少女の顔が見えないが、直前に投げられた言葉とは全く違う冷徹な声色には本気の色が見える。

 しかし麻美には何よりも先に、遂行しなければならないことがある。避けられた大蛇がそのまま壁を伝って向こう岸へと届いた頃合いだ。

 要求の通りに壁を退けてやれば、丁度。

 

「雪──」

 

 標的の少女が影の蛇に呑まれる場面とご対面だ。

 麻美は相手の力が緩んだ隙に、腕を折られる前に纏っていたローブの影を少女ごと飛ばして距離を取った。すかさず日陰から影を補充して次の行動に備えつつ、飛ばした影に対して何重にも影の紐をつけて地面にくくりつけておいた。どの程度の手練かは知らないが、脱出には時間がかかるだろう。

 標的を捕らえた大蛇は球の形にしてそのまま留まらせた。

 

 影に標的を飲み込ませた際に、麻美はそれ以上の指示を重ねて出さなかった。影に触れることでなんらかの外的な損傷はあるかもしれないが、基本的にはただ暗いだけ、動ける空間を限定して拘束するだけだ。

 深刻な怪我をさせない程度に、出した時にぐったりとした状態なら麻美にとって都合がいいが、どの程度の時間をかければ適切かは考えていなかった。

 目的はおおよそ遂げられた。地面に縛り付けているもう一人を気にして撤退してしまってもいいが、麻美が離れた場合の影の行動については検証が足りていない今、放置したままこの場を去るのには気が進まなかった。

 球に向けていた視線を地面へと戻したその時だった。拘束していたはずのもう一人の少女が音もなくすぐ目の前まで来ていた。

 

『えっ

 

 顔面を狙う鋭い蹴りを、麻美は身の周りの影を集中させ、降ってきた足を拘束固定することによって防ぐ。

 

『ッ! あっぶ……

 

 すると今度は固定された足を軸にして大きく体を捻じりながら、もう一方の足から踵落としがやってくる。咄嗟に影の障壁を作り威力を殺す。それでもなお、ビリビリとした衝撃が影越しに伝わってくるから驚いたものだ。影の防壁を分離させて押し出しながら距離を取る。

 少女は突き飛ばした先でひらりと身を捻って新体操選手のような無駄のない見事な着地をしてみせた。

 出会い頭の俊敏な走りや正確な崩し、今の蹴りの二連打どれもが線の細い見た目にそぐわない強烈なものだった。

 

 運良く硬直状態を作り出せてはいるが、すぐさま何らかの方法で影を抜け出してまた猛攻が来ることは間違いないだろう。

 

 状況を変えたのは、耳をつんざく甲高い金切り声だった。

 

 麻美が少女に思考を割いていた時、少女が手薄になった両足の拘束を容易く砕いた時、背後で球だったものが大きく波打ち、棘を出し、輪郭を激しく歪めていくのが視えた。

 

 断末魔といって差し支えのないそれが悪魔の力の一端であると色濃く見せつけられているようだった。耳を塞ぎたくなるような叫び声を上げながら、空間に浮いた真っ暗闇がぐにゃりぐにゃりと緩急も激しく不規則に滅茶苦茶に暴れ回る様はこの世のものとは思えない奇怪で禍々しいものだった。

 

 影がその身を絞るようにねじれ尖り天へと向かう。その状態で唐突にピタリと静止すると、てっぺんから蕾が花開くように黒の花弁が裂け始めた。

 咲いた影の花から生まれ現れたのは艶やかな花の精などでは決してなく、背を丸めたただの人間の娘だ。

 

 影から出てきたアカホシユキナは膝をつき、麻美が当初願っていた通りにもがき苦しんでいる最中だった。丸めた肩が不自然な早い動きで不規則に浅く上下する。右手で自分の胸ぐらを強く握り、うつむいたその顔は遠目では確認することが出来なかった。しかし麻美は、これをよく知っている。

 

「あっ……あぁ……ぁ……」

 

 過呼吸状態のユキナを見た麻美は自分の血の気が一気に引いていくのを感じていた。頭の一部にかかっていた生暖かいモヤが晴れて、冷え切った頭の中で持っている知識と見える景色とが素早く結びつく。

 

──パニック、発作……

 

 そんな、まさか、もしかして暗闇がダメだったの、そんな──

 

 

 いつの間にか対峙していたはずのもう一人の少女はユキナの元へ駆け寄っていた。

 顔を上げたユキナの、彼女の目に捉えられる前に、

 

「ぅ、ぁっ……ごめ……なさっ……」

 

 後ずさるようにして、そのまま麻美は日陰の外へと逃げ出してしまった。

 

 人気のない路地裏から人通りの多い表通りへ、無我夢中だった。後ろから追いかけてくる罪の意識に追いつかれないように必死だった。

 麻美の耳元で鳴る風を切る音にも掻き消されずに悪魔の声がする。

 

『ふふふっ最高だったぞ麻美。半分ほど持っていかれはしたが、差し引き無しの成果だ!』

 

──やめて、やめて。

 

『あぁでも気をつけろよ、アレが追ってきてる。精々捕まらないように頑張ってくれよ』

 

 走り続ける麻美は人通りの多い駅前へと着いていた。土曜日の昼下がりともなれば人出も平日の倍はいるであろうか。

 人の間を縫って、駅を通り抜けて裏道の方へと向かう。 そこで少女を撒くつもりだった。またもや人通りの少ない道へと向かっていく。

 立ち止まれば、別のことに意識を向けたら、追いつかれてしまう。強く目を瞑り、反芻することで自己暗示をかける。

 

 今は何も考えるな、走れ、走れ。

 

 瞳を開くと、目の前には宙空に浮かぶ青色の塊が瞬く間に現れていた。塊は群れであった。青い翅を持つ蝶々の大群だ。

 今更この勢いの乗った足を止められない。麻美はそのまま蝶の織りなす青色の世界に最高速度で突っ込んでしまった。

 しまったのだが、不思議と蝶がぶつかる感触がなかった。

 咄嗟に瞑った目を開らくと、過ぎゆく景色がスローモーション映像のように緩やかに動いて見えた。黒縁に囲まれた青の翅は光を透かし、淡く輝くステンドグラスのようだった。蝶たちはゆっくりひらひらと宙をたゆたいながら、飛び込んできた麻美を優雅にかわしていく。翅を包む鱗粉が羽ばたきの度にこぼれていく様がキラキラと光って見えた。幻惑的な蝶たちに誘われ、昼間から夜空に放り出されたかのような景色だった。

 青の煌めきの終わり、麻美はその先の昼空に一人の少女を見た。

 

 時間が急速に動き出す。一変、現実に引き戻された麻美は直ぐに足でブレーキをかけたが、勢いを殺しきれずにそのまま少女に体当たりしてしまう形でぶつかった。

 

「きゃっ!」

 

 お尻から地面に座るように着地してしまった小柄な少女と、衝突した衝撃で鏡合わせのように転倒してしまった。

 

「ご、ごめんなさい! 怪我してませんか…?!」

 

 地面に打ちつけた臀部がジンジンと痛むが、真っ先に謝罪の言葉が出た。自分より小さな女の子を突き飛ばしてしまったことへの罪悪感が湧いて出る。

 

「私は大丈夫です、あなたもお怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫、です。ごめんなさい、私がちゃんと前見てなかったから……」

「ならよかった。私も少しぼーっとしてましたから」

 

 咄嗟に謝った麻美に、小柄な少女がふわりと優しく微笑む。少女の可憐な仕草にどこか懐かしさを覚えた麻美だったが、自分の置かれた状況を思い出すとかぶりを振って直ぐに立ち上がった。

 差し伸べた麻美の手を「ありがとうございます」と小さめの手が取った。

 彼女の柔らかい手を握った途端、胸を潰すような罪悪感が薄れていく。代わりに温もりのある空気を吹き入れられたかのような、理解の追いつかない不思議な安心感に包みこまれた。

 不意に涙が浮かんできた。痛みからの反射反応なのかそれとも、亡くした大切な人にどことなく雰囲気の似た彼女を重ねてしまったのか。

 

 涙の溢れないうちに、麻美はその握った手を引いた。立ち上がった少女の小柄な体躯を見ると、本当に怪我がないかと再度確認したくなった。

 背後をチラリと見やるが、幸いなことに追手はまだ来てないようだった。

 

「それじゃあ、本当にごめんなさい……」

「いいんですよ、気にしないで。あっ、待って待って、鞄忘れてますよ!」

「え?」

 

 少女に促され、足元を見ればあの路地裏の日陰に投げた麻美の学生鞄がそっくりそのまま地面に立っていた。

 

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