11「メーデー、メーデー、メーデー①」

 

 七月も中旬にさしかかる土曜日。このよく晴れた日に、水無月雨音は友人を薄暗い裏路地裏へひとり置き、名前も知らない女の背を追っていた。手に持った彼女の学生鞄が乱雑に飛び跳ねるが、中身がどうなろうと雨音の知ったことではない。

 

 黒にも似た深い紺の制服を纏う彼の女から漂う異様な気配はたしかに雨音にも感ぜられた。しかし友人がその様相を気にかけて後を尾けた女学生は、魔の力を行使して友人へ危害を加えた痴れ者だった。

 

 今現在の雨音の目的は、友人──雪菜に託された通りに逃げる彼女に背に追いつくこと。それ以外のことは依頼されていないが、おおよそのことは忘れ物を返してやった後に達成できるだろう。いくら逃げ腰の相手とはいえ、影に似たものを自在に操る力があると判った以上、悠長なことはしていられない。

 

 人通りの多い場所で暴れられても面倒なため、雨音は追いつく余裕のある距離を保ちながら視界の範囲で女学生を泳がせていた。

 再び裏の方へと彼女が道を選んだ時、動線が開き雨音が彼女目がけて鞄の投擲をする前に、事は起きた。

 

 空が落ちてきたのかと錯覚してしまうほどの目の覚めるような青色の物体が、雨音の視界の先、前方を走る女学生を音もなく飲み込んだのだ。各々が規則的に舞い踊る青い蝶々の大群が、黒色の彼女を取り込み覆い隠す。

 

 直前の異状を目視した雨音は、蝶に触れないよう視線を外さずにすぐさま後退しながら近場の遮蔽物へと身を潜めた。蝶々の群れが翅ばたき飛散していく中で、控えめな衝突音と共に女の声が二人分聞こえてきた。

 陸に浮かぶ青空が晴れた先では、取り込まれていた制服の彼女が尻餅をついており、その奥側、蝶の現れた方向にいたであろう女がもうひとり、鏡合わせのごとく地面に座り込んでいた。

 

 蝶の大半は同じ色をした空へ溶けていったが、数羽はまだ名残惜しそうに陸に近い宙空を彷徨っている。

 雨音は物陰に隠れ、残った蝶の様子を伺いながら二人のやりとりにも注意を払う。

 意外なことに、増えた女の顔には見覚えがあった。居候先にあった写真にその家の娘と映っていた少女だ。ここは時森の隣の街。出歩いていること自体は不自然ではないが、面識のない少女との妙な巡り合わせに眉をひそめつつ静かにその動向を見続ける。

 

 名前も知らない制服の彼女が立ち上がり、顔を知る少女の手を取った途端。雨音の目が捉えたのは一月前の誕生日に踏切で視た光景とまさに同じ、憑き物が落ちていくように彼女の身の内から黒霧が抜け出でて晴れていく様であった。

 指輪の効果範囲との接触から魔の力が抜けるまで多少の時間がかかるとは踏切の件でも確認していたものの、先刻の影の蛇と雪菜との接触が今になって効いてきたとは到底思い難い。

 ならば当然、指輪と同等の働きをしてみせたものが何だったかと思考を割き始めた雨音の目の前に、見計ったかのように青空の断片が降りてきていた。

 

 間近で視る翅はガラスのように向こう側の景色を青く透過してみせた。黒々とした翅脈に縁取られ形作られた青いステンドグラスを思わせる翅。透き通る四枚のガラス細工が開く度、夏の太陽を浴びた鱗粉が波立つ水面のごとく光を反射して煌めいた。

 一眼で判る異質を前に、思わず息を止めた雨音は自らの手を差し出していた。およそ自然界のものではないそれが、意思を持って降りてきたならば。優雅に悠然と、着実に。造られた空がキラキラと予感の通りに落ちてくる。

 無機質な空色が指先に触れるその前に、蝶は翅が番う中心から瓦解した。青く透明な翅が音もなく崩れていく。地に堕ちる前に風に攫われ解けていく。空へと還っていく。

 

 宙を見上げていた雨音は息を吐き出すと同時に呆けている場合ではなかったと思い返す。用が済んだのなら、一刻も早く雪菜の元へ戻らなければ。

 雨音は軽くなった両腕を振って、元来た方向へと駆け出していった。

 

『流石にコレじゃあ、食う前に消されちまうな』

 

 ひび割れた姿見を前に、悪魔が独り言ちた。

 直前まで追跡者から逃げ惑う少女の姿を映していた滑らかな鏡面は、今は見る影もなく無惨に砕けていた。無論、悪魔の爪先ひとつで継ぎ目なく修繕できるものではあるが、今すぐにそうするのは悪魔にとっては無駄骨だ。

 

〝あの娘〟の周辺に張られている魔術からの干渉は既に何度も受けており、外界を覗く鏡の修復作業も悪魔には手慣れたものになっていた。娘を中心にして展開される術は、範囲内にある観測魔術を拒絶する非常に煩わしいものだった。鏡を直したところで、娘が観測地の近くにいる間は際限なく割れ続けるのだ。

 

 この迷惑な存在のせいで悪魔は三年の歳月を無駄に過ごすハメになった。その三年が過ぎてから、己の力の一片が娘本体までに迫ったのは今回が初めてになる。偶然とはいえ、おかげで悪魔が娘本人に触れることも叶わないとよく理解できた。

 

 他人の所有物というだけで湧いていた〝掠め取ってやりたい〟という欲が渇いていく。それと同時に、胸の内を埋め尽くしている渇望が口の中へと滲み出ていた。

 

 草木が侵食する鉄錆色の教室。窓の外に広がる血の色の空を、今にも雨を降らせそうな黒い雲が覆う。

 開いた戸の向こう側、暗い廊下からは上履きが擦れる音が聞こえてきていた。

 

◇ 

 足元に落ちていた自分の学生鞄を抱えて、月白麻美は帰路を全力で走っていた。

 標的の少女へと蛇をけしかけたあの裏道で手放したはずの鞄がひとりでに戻ってきたはずはなく、先刻ぶつかった少女も麻美以外には誰も見ていなかった。とてもじゃないが元来た道は引き返せなかったため、気味の悪さを感じつつもこうして落ちていた鞄丸ごとを家まで運んできてしまった。

 

 自宅に着いた麻美はすぐに自室へと駆け込むと、閉じた扉へもたれかかるようにしてそのまま床にへたり込んだ。

 心臓の爆音が体内に響く。夏の日差しに晒された体は火照ったまま、額からは玉の汗が流れ落ちた。蒸したジャンパースカートの中では、汗に濡れたインナーが背中に貼り付く不快な感覚がする。

 カーテンは閉めてあったが、屋外の熱が伝わり薄暗い室内は蒸し暑くなっていた。

 

「……あっつ……」

 

 上下する肩を押さえ込むように呼吸を整える麻美は、罪悪感に押し潰れそうな心の中でひたすらに悪魔の声を待っていた。自ら過ちを犯した、けれどそれが役に立ったのなら。恩に報いることが出来たのなら。「これでよかったんですよね」と、乱れた呼吸の中に溶かした言葉は暗い部屋の中でこだますることなく消えていく。

 

 しばらく繰り返して、麻美はようやく悪魔の声が聞こえないことに気が付いた。

 

 おかしい。悪魔からの返答がないのは初めてだった。

 おかしい。いくら麻美が合図を出そうが、授けてもらった影が出てこない。

 存在を確かめるために制服のポケットに手を入れる。手にはたしかに小瓶の感触がある。

 悪魔から受けた全てが消えてしまった訳ではない、そう心を落ち着かせたのも束の間。

 

「嘘っ……」

 

 引き摺り出した小瓶を見て、麻美は驚きの声を漏らした。

 

「……種、がない……なんで……」

 

 小瓶を振るも、中で混ざるのは無色透明な空気だけ。口を塞ぐコルクの栓も固く閉まったままで、中身が零れることなんてあるはずがなかった。

 縋り付くように再びポケットの中へ手を入れる。たとえ種が手に触れようが構わなかった。ない、ない。何も触れない、当たらない。

 

「なにも……」

 

 昔のように存在が認識できなくなっただけだ、麻美は自分を落ち着かせるように考える。

 悪魔についてのことは覚えている。すべてを取り払われた訳ではない。愛想を尽かされたのだろうか、否。直前には褒めてくれていた、はずだ。ならば麻美の役目が終わったのか。結論づけるのは早急すぎる、視えなくなっただけだと頭を振った。

 

 焦りが思考を澱ませ、暑さに目眩がする。ドクリドクリと早まる心臓を包み込むようにして麻美は床に倒れ込んだ。意識の糸が途切れた先で六月の、あの夜の土砂降りの音を聞いていた。

 

 麻美が意識を取り戻したのは帰宅してから二時間ほど後のことだった。部屋の暑さで目を覚ました麻美は、寝起きでまだ朦朧とする頭で必要な所作をこなしていた。

 身体を覆うジャンパースカートを脱ぎ落としながらも律儀にハンガーへ吊るしかけ、明かりのついたリビングまで赴くと出て行った水分の補給に勤しんだ。

 頭痛もなければ吐き気もない。おそらく熱中症の心配はないだろうと胸を撫で下ろす。

 

 汗の処理を簡易的に行い、服を着替え、食べ損ねた昼食を摂取したものの、昼間の出来事が頭の中でぐるぐる回る。虚脱感にぼんやりとしたまま気がつけば夕方四時へと時間は過ぎていた。

 月曜日から再開される期末テストの勉強をせねばならない身ではあるが、このまま今日を反芻させてもやもやとした心に浸ったままでは勉学に差し支える。

 スイッチを切り替えるため、まずは出来る行動から手をつけることにした。麻美は運動着に着替えると、必要最低限のものだけを持って家の外へと出て行く。

 

「ちょっと走ってくる」

 

 玄関で発した声に対して、母親の応答が返ってきていたようだが、扉の閉まる音でよくは聞き取れなかった。

 

 夏至を過ぎた七月の空は夕方でもまだ明るく薄い空色をしていた。梅雨明けはまだ先の予報ではあるが、昨日から続く晴れ間も相まって、つい忘れてしまっていたのだ。腰に巻いた細身のポーチから最近、折り畳み傘を抜いていたことを。

 

 悪魔から借り受けた影の力を、麻美はしばしば便利なものとして扱っていた。

 視える人にしか視えないけれど、見えるものすべてに干渉できるもの。ある程度なら自分の思った通りに動いてくれる便利なもの。

 

 犯行時にローブにしていたのは、視える人間から顔や体格を隠すための対策だった。

 影の力自体は他者を傷めつける目的以外にも操作訓練がてら日常的に用いていた。

 例えば、ベッドの上に居ながら勉強机の上に置いてあったスマートフォンを持ってきてもらったりだとか、力加減を覚えた後は自分が髪を洗っている間に体も同時に洗ってもらったりもした。形を変えてそれこそ影絵のように遊んだ日もあったし、ちょっとした実用物の代替として便利に使うこともあった。

 そして、走るのに邪魔にならない簡易雨具があったからこそ、その分手持ちの荷物を軽くしていた。

 

 いつものコースを走り続けて十数分。麻美は出発時と比べて空模様が変わってきていることに気がついた。昼間の快晴からは打って変わり、一面を灰色の雲が覆う今にも降り出しそうな曇り空が頭上に広がっている。

 そして例によって不幸は重なりやすく、悪い予感ほどよく当たる。

 

 ぽつりぽつりと肌に水気を感じた頃になり、麻美は普段通りに──とは言ってもごく最近ついた習慣ではあったが──己の足元に合図を送った。

 雨粒が大きく、みるみるうちに雨足が強くなっていく。麻美は雨よけの為にいつも通りの合図を再び出した。しかし、そのまま空からの水滴は麻美に落ち続けた。

 

「……あれ?」

 

 麻美が頭上を見上げると、そこに広がるのは分厚い曇り空。落下してくる雫が遮るものなく顔面へと降り注ぐ。

 

──そっか、視えなくなっただけかと思ったけど、影の方もいなくなっちゃったんだ……

 

 状況を理解し、腰に手を回すと昔は携帯していた雨具の不在を思い出す。コース内でも家から一番遠くに来ている今、帰宅には信号に引っかからない最短でも十分は休まず走り続ける必要がある。多少の雨であれば気にせず走るが、そうは問屋が卸さない。

 

 ザアザアと音が鳴り始めると麻美は観念した。雨宿りをしよう、せめて雨が弱くなるまでと辺りを見渡す。現在位置は丁度、昨日も似たような時刻に訪れた公園の真横であった。

 

 中が空洞になっている半球状の遊具の中。一番近くにあったこの狭く暗い空間に滑り込み、麻美は膝を抱えたまま独り寂しく雨宿りをすることにした。

 服が多少濡れてしまったが、昼間熱せられていた遊具の中は蒸した熱気を感じるほどだ。汗拭き用にと持ってきていた薄手のフェイスタオルを水滴のついた手足へと少し当ててから、濡れた頭にかぶる。

 バケツをひっくり返したような豪雨へと変貌した天気は、おまけと言うようにピカッと閃光を放ってみせた。遊具の出入り口の外の景色が真っ白になったのに目を丸める。もしかして、遊具に落ちたら感電するのではないかと悠長に考えた後に遠くの音がやってきた。距離的に直撃はないだろうと安堵しながら、再び腰のポーチへと手を伸ばす。

 

 天気予報を確認するためにスマートフォンを取り出して点けると、母からのメッセージが届いている通知が入っていた。

 家を出る間際に何かを言っていた、恐らくはおつかいか何かだろうとロックを解除すると、真っ先にアプリケーションのポップアップが表示される。

 

『夕方から一時雨の予報なので気をつけてね』

 

 人の話は最後まで聞こう、そう思った。一時雨、ということは近いうちには止むということ。最悪ずぶ濡れで帰ること想定していたが、雨が上がるまでの間、休憩を兼ねてここで雨宿りをすることに決まった。

 

 遊具の上を雨が弾く音が反響していた。ドラムロールのような絶え間ない轟音に包まれた時には、場所取りを失敗したと強く後悔したが、段々と雨足が弱まってきていることを外を覗かずに感じ取れていた。コンコンと軽快なリズムになった頃には空気が冷え始めてきたのか、肌に張りついた服が肌寒く感じるようになった。

 

 薄暗い半球の中に一人ぼっち。走って熱くなっていた体もとっくに冷めてしまっていた。麻美はじっと動かずに、蒸した空気と濡れた服とがまとわりつく感触に身を晒している。狭い遊具の中では立つことも叶わず、雨の音を聞き流しながら土に汚れた膝を眺め続けた。

 

 気持ちを切り替えるために走っていたのに、中途半端なまま足止めを食らってスッキリとしない。

 止まってしまった体に後から追いついてきたのは、無くしてしまったもののことだった。特に手足のように動かせていた影は、悪魔と預かっていたものとを認識できなくなったことよりも感覚的に深い喪失感を麻美に与えた。

 視えなくなっただけだと、叶えてもらった願いは続いているのだと少し期待をしていた。戻れないと思っていた普通になったのに、こうも不安に揺れ動いてしまうのは力のない女に戻ったからか。それとも少なからず悪魔に縋っていたからか。

 手に持った空の瓶を振る。家を出てくる時に咄嗟に手荷物に入れていた。うるさい雨の中、耳元で揺らしてもやはり何の音も聞き取れない。

 眼窩からじわりと出てきた体液が視界を濡らした時、それは訪れた。

 

 コンコンと軽快な音。雨が遊具を叩く音ではない、空洞の球をノックする音。音のする出入り口へと顔を向ける。

 滲んだ視界に映ってきたのは、昼間犯した罪の被害者──アカホシユキナであった。

 

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