13「虚蝉 夏の記憶②

 

 一学期の修業式となる全校朝礼の集会は始業ベルと同時に始まった。蒸し暑い校庭に整列させられた全校生徒たちは灼熱の太陽が照らす中、校長や生活指導教員によるありがたい教訓を含んだ話や夏休み中の生活態度、その他もろもろの話を聞いた後に校歌を歌い、つつがなく終業式は終わりを迎える。

 各学年各クラスごとの隊列が順々にそれぞれの教室に戻り、成績発表を兼ねた一学期最後のホームルームが終わったクラスから生徒が廊下へと流れ出ていく。いつも通りの身軽な者から、最終日まで溜め込んだ多くの荷物を抱えて出て行く者まで、全ての生徒がその瞬間をもって夏休みを迎えたのだ。

 

 一方、その中のひとりであるはずの雪菜は、悪い方の夢見心地で早朝に耳にした言葉を反芻させていた。

 幼馴染の喉を伝った悪魔の声。告げられた条項を守るため、ひとつひとつ、言霊を解体してその意味を咀嚼する。

 

 一つ、今日の日没後に校舎四階まで向かうこと。日没自体の時刻は午後六時七時頃だろう。下校時間の六時半前までなら校門から校舎へ入れそうだ。

 二つ、他言せずに一人で敵地へ赴くこと。口外しないことは前提だが、重ねて様相でも察せられぬようにせねばならない。察せられた場合は〝他言〟はしていないと言えるかもしれないが、相手によっては行動が制限される可能性が高い。いずれにせよ、雪菜一人で向かうことが困難となる事態は避けるべきだ。

 三つ、雪菜と引き換えに春香を手放すこと、雪菜が約束を守れば悪魔も守ること。信用していいのだろうか。言外の動きをすれば、相手に約束を違えたと揚げ足を取られる可能性もある。下手な動きは避けるべきか。

 

 異変を悟られないためにも、深く物思いにはふけっていられない。最大の難関が目の前に迫ってきていた。

 

「そんなに悪かったのかな」

 

 隣の席の雨音が、雪菜の手元を覗き込まないように声をかける。

 考えごとを覆い隠すように成績表と視線の交わらないにらめっこをしていたのは正解だったようだ。雪菜の手にある三と四と少しの五が出ている紙は受け取ってすぐにちらりと見たきり、担任からの評価コメントへさえも目を通していない。今のそわそわとした頭には関係のない文章を読解できるほどの余裕がなかったからだ。

 同時に、頭の中でシミュレーションした応対用の言葉も上手く出てくるか不安だった。

 

 今日これから「悪魔様」についての会話や行動を、ボロを出さないようにすべてを避けることは不自然だ。先手を打ってこの場に留まれない用事を告げる他にない。

 

「あのさ、今日の──」

「朝来る時に、四階の様子を見に行った」

 

 出鼻を挫かれたと思いきや瞬時にどきりとする。分かっているのか、偶然か、汲み取れない表情に言葉を慎重に選ぶ。

 

「……ど、うなってた?」

 

 当たり障りのない言葉を声に出してから、なぜ一人で先に見に行ったのかを問うた方が自然だったと思い直す。しかし雨音は気にしなかったようで、報告を続けた。

 

「行けなかったよ。私がどの階段を上っても、四階へと繋がる踊り場にすら辿り着けなかった」

 

 目を丸めて、雨音を見つめた。今日は他の考えにかまけていたせいで、周りの話し声を全く耳に入れていなかった。いくら全校生徒が四階を避けているとはいって、そんな派手な現象を起こしたら、噂話や見物人で溢れかえるはずだ。

 

「それ、他の人も?」

「いいや。聞き耳を立てていたけれど誰も同じことにはなっていないようだから、恐らくは私だけが拒絶されているのだろうね」

「雨音だけ……?」

 

 お膳立てにしては準備が早過ぎないかと思いつつも思考を続ける。どうやら、雪菜を物理的にもひとりで来させることが悪魔にはできるらしい。

 

「二人で確認しに行って、君とはぐれても困る。君が解決を急いでいるのは知っているけれど、別に試したい事もあるし、もう少し時間をかけたい」

「えーっと、今日は何もせず、夏休み中に試す感じかな。それでその、試したいことってのは秘密?」

「……うん」

「わかった」

 

 雨音の話を聞く限り、今日一人で様子を見に行ったことはその「試したいこと」に起因するようだ。いつものように詳細は伏せられたものの、解決に向けて行動していることを隠さずに提示してくれた雨音に対して雪菜には後ろめたい気持ちが滲む。

 これから雪菜は、悪魔との約束を守るために雨音との約束を故意に破ることになる。

 しかし、すべてが自分のためだ。

 

 仮に、取引に使われたカードが雪菜にとって一番付き合いが長い春香でなくとも、この要求を飲んでいたと雪菜は思う。自分が見捨てたせいで誰かがいなくなってしまったら、この後の人生にずっと影を負うことになる。きっと周りの誰もがその罪を赦したとして、雪菜自身が赦せない。贖罪を続けたとしても人の命に替えられるものはないのだ。

 

──《君の命だってそうだろ?》

 

 不意に聞こえてきた声に、雪菜は思わず振り向いた。

 

「わわっ! バレちゃった」

 

 背後にいつの間にかいたクラスメイトの北原千夏が、驚いた様子で椅子に座る雪菜を見下ろしていた。明らかに先ほどの声の主ではないが、千夏は雪菜の後ろから話しかけると同時に驚かせようとしていたらしい。

 

「夏休み、よければどっかへ遊びに行かない? もちろん水無月さんも!」

「私も?」

「当然だよー! 色々聞きたいし。ねっ!」

 

 いつも通りの顔をした雨音が熱のない言葉を返す前に、横から雪菜が畳み掛ける。

 

「いいじゃん行こうよ。せっかくの夏休みなんだし、私も雨音と遊びに行きたいなぁー」

「君がそう言うのなら、私は構わないけれど……」

 

 了承を得た千夏は形のいい満面の笑みを浮かべる。

 

「決まりね! そ・れ・じゃ・あー……東宮さんもどうかな? 夏休み遊ばない?」

「えっ?! 私?!」

 

 千夏は後ろを振り向き、前列の座席で帰り支度をしていたクラス委員長の東宮秋と目を合わせた。

 まさか離れた場所から話題を振られるとは予想だにせず、名指しされた秋は動揺していた。雪菜の知る限りだと、千夏と秋の関係はそこまで深くなかったはずで遊びに誘うということ自体が意外なことだ。当事者にとっては尚のことであろう。

 

「東宮さん、最近雪ちゃん達と仲いいし、私だって東宮さんと仲良くなりたいなーって。東宮さんも空いてる日あったら教えてね」

「でも私、北原さんの連絡先とか知らな──」

「はいっ、よろしくね!」

 

 千夏からメモ紙が一枚手渡され、秋の言葉が途中で遮られた。紙を受け取った秋は「と、登録しておきます……」と小声で返事をした。

 

 雪菜は二人の背中を眺めつつ、千夏の社交性や積極性に脱帽していた。

 中学二年生の夏休み。来年のことを思えば、将来を気にせず気楽に過ごせる貴重な長期休みとなるはずだ。雪菜にそれが享受できるかは、これから日没後に決まる。

 

 クラスメイトとの楽しい時間も過ぎてしまい、時刻は正午を回っていた。太陽が南中してしまったらあとは西へ、地平線の向こうへ落ちて夜が来るのを待つだけだ。

 

 家に帰るとひかりも家を出たようで、家族は誰もいなかった。書き置きの通りに冷蔵庫にあった今朝のリクエストを食べると、雪菜は自室に戻ってこれからのことについて考えた。

 早速届いた千夏からの日程調整メールを卓上カレンダー片手に返しつつも、その意識からこの後夜に起こることは片時も抜け落ちはしなかった。

 日没の時間を調べてみれば、予想通りに午後七時頃となっていた。夜の外出となる。家族への言い訳を考えないとならない。

 

 不安じゃない、と言えば嘘になる。雪菜の脳裏には先ほど聞こえた声と、先日の亮からの忠告が反芻されていた。

 なにも、命を落とす可能性について考えていない訳ではない。こうなってしまったからには、雪菜は雨音が予想していた「生徒を殺せないような制約」がある方に賭けるしかないのだ。

 少なくとも、此度の悪魔様の流行では生徒の行方不明や不審死がまだ出ていないはずだ。二百人あまりいる中学生の誰一人ともが「誰かの死」を悪魔へ望まない可能性の方が、悪魔に制約がある可能性と比較してとても低いように雪菜は考えた。

 時森の地に今まで生きてきて、子どもが行方不明になったり不自然に亡くなったなどという深刻な話題には触れてこなかった。無論、大人が触れさせなかったのかもしれないが。

 

 悪魔自体に危険性がないとされていたから、今の今まで放置されていたのだ。

 などという都合のいい方向へも思考を割いてみるが、しかし頼みの制約がなかった場合を想像すれば、この残された時間に雪菜が取る行動も当然のことだった。

 

 雪菜の手元にあるレターセットは海外へ引っ越した友人との文通のため、先走って買ってしまったものだ。結局は文明の利器を使った電子文通の影となり全く出番のなかった悲しい存在だ。まさかその最初の出番が、便箋へと綴られる内容がさらに影を帯びた書き置きとなるとは、購入時の雪菜は想像もしなかっただろう。

 

「ふぅ……」

 

 手にしていた鉛筆を机の上に転がすと、カランと軽い音が立った。贅沢にメモ書きや下書きに使った便箋をゴミ箱へと放り込む。

 清書した二枚分の「伝えたいこと」を重ねて折り曲げて、封筒の中へとしまい込む。机に置いた一通の宛名は、おそらく真っ先にこの手紙を見ることになるであろう家族へ向けて。引き出しに隠すように入れたもう一通は、友人へ向けて。

 

 長い長い時間をかけたつもりであったが、時計を見るとまだ午後二時過ぎだ。

 今の気持ちが揺らがないよう、ついでに深夜にも動けるように昼寝でもするかとベッドに飛び込んだ。

 二つ折りの携帯電話でアラーム設定をして、部屋の電気を消した。閉じたカーテン越しに昼間の太陽光が部屋の中に薄く広がる。雪菜は目蓋を閉じて目の前を暗闇に染めると、何も考えないように眠りに落ちるのを待った。

 

 

「単刀直入に言いますね、あなたも『視える』んでしょうか?」

 

 入学したばかりの新一年生、橘風花は確かにそう言った。

 先ほどまでの状況を思えば、その質問がただ単に「襲ってきた怪異」のみを示して言っているのではないということは雪菜にも分かった。

 

 それに「普通」ならもっと騒いで取り乱してもおかしくはないであろうこの状況下で、目の前の少女はただこちらを真っ直ぐと見つめ、上がった息を整えながら静かに返答を待っている。それに応えない雪菜ではない。

 

「……そう、って言ったら信じてくれる?」

「やっぱり!」

 

 風花は声高に歓声を上げた。

 

「もちろんっ! もちろん信じます!」

 

 少し前の非常事態が起きたことすらも感じさせないような、喜びに満ち溢れた表情で風花は雪菜を見ていた。

 

「信じてもらえてよかった。橘さんも『視えてる』ってことでいいのかな」

「はい! そうですっ!」

 

 と、元気よく答えた風花は社の方を一瞥すると小さく息を漏らした。

 

「あっ……すみません、こんなにうるさくしてしまって……」

 

 恥ずかしく縮こまった風花はすぐに落ち着きを取り戻した様子だった。

 辺りには明るい外灯もなく、鳥居の向こうの住宅街から漏れ出る灯りと月の明かりとがひかえめに世界を照らし出していた。色の詳しい判別はできなかったが、小さな手で顔を覆った少女の頬は赤く染まっていたに違いない。

 

「大丈夫だよ、他に人もいないしね。気にしないで」

「そう言ってもらえるとありがたいです……」

「私も同じ人と会えて嬉しいから、同じ気持ちでいてくれたんならもっと嬉しい」

「赤星さん……」

「苗字呼びなんて他人行儀だからさ、雪菜でいいよ。年も一つしか違わないわけだし」

「……じゃあ、雪菜先輩で」

「せんぱい?!」

 

 同族と出会ったことより、風花の上目遣いも相まってか更なる強い衝撃が雪菜を襲っていた。小学生時代にも現在にも年下の相手をしたことは数在れど、面と向かって「先輩」と呼ばれる経験は初めてのことであった。

 

「……先輩?」

 

 くすぐったいような喜びを噛みしめるうちについ黙り込んでしまっていた雪菜を、風花が覗き込む。

 

「ごめんごめん、もう遅いし早く帰ろうか。でもその前に、お礼をしなくちゃね」

 

 雪菜は社の賽銭箱の前へと向かうと、学生鞄を開けて中から小ぶりのがま口を取り出し、中から出した五円玉を風花に渡す。

 社へと向けて軽く一礼をすると、お賽銭を入れる動作や流れるような雪菜の作法を、隣の風花も真似て続ける。

 二礼二拍手一礼を終え、顔を上げると社から下がった。

 

「お礼、言えた?」

「はい。それにしても雪菜先輩って律儀ですね。向こうは護るとか護らないとか、そんな気なかったかもしれないのに……」

「うーん、でも実際に助かってるんだから感謝しないとね。このご縁にも感謝だ」

「私も、このご縁に感謝です」

 

 忙しなく入ってきた鳥居を今度は静かに抜けて振り返り、軽く一礼をすると二人は足下と辺りを警戒しながら一段一段と石段を踏みしめて下りていく。

 無事に階段を下りきったところで、そよ風が階段の上から下へと走り去った。少し肌寒い春の夜に暖かい風が吹いたようだった。

 

 「だから五円か」と呟いた、風花のものではない誰かの声は、風の音に紛れて雪菜の耳には届かなかった。

 

 雪菜が目を覚めたのは、目覚ましの音よりも前だった。意識を取り戻してからすぐに時間を確認すると、時刻は設定時間よりも三十分以上も前を示していた。

 

 寝起きの頭はとてもスッキリしていた。頭やまぶたに残る眠気もなければ寝ている間のこと、つまりは夢を見ていたのだろうがその内容の断片すらもサッパリ覚えていなかった。

 

 深く息を吸い込み、体をゆっくりと起き上げる。外は夕焼けにはまだ遠く、カーテンを持ち上げて夏の日の長さを眺めた。

 

「さて、早めに夕飯でも食べますかね」

 

 腹が減っては戦は出来ぬ。戦に行くつもりなんて毛頭ないが、来たる時に空腹のままでいるのも癪なので適当に冷蔵庫を漁ってみる。

 

 八枚切りの食パンを二枚ほど取り出し、上にハムやスライスチーズを乗せてオーブントースターに入れること二分。パンの焼ける匂いに釣られて、家に帰ってきていたらしいひかりが部屋から出てきていた。

 

「どうしたの、夕飯前なのに」

「これからちょっとしたら出かけるから先にちょっと腹ごしらえをと思って」

「えっ、もう夜になっちゃうよ。夏休み初日から飛ばすねぇ、お祭りでもやってたっけ?」

「いや、友達に会って駄弁ってくるだけだよ。でも帰りは遅くなるかも。色々あるんだよ」

「へぇー……」

 

 伝家の宝刀「色々あるんだよ」。ひかりはこれを言うとあまり追求はしてこない傾向にあった。何があるかはぼかし、かつ暗に「触れられたくない感」を出し、後に来たであろう質問を牽制出来る便利な言葉だ。ただしあんまり使い過ぎると、先日よろしく別の所に情報が流れて面倒なことになる。

 

 事実、友人に会いに行くことは間違いなく、本当の行き先は封筒の中に残している。

 

「じゃあお夕飯はいらないのね?」

「うん。……」

 

 最期の晩餐かもしれない食事にしては、簡素過ぎたかもしれないという少しの後悔もやはり先には立たなかった。

 

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