13「虚蝉 夏の記憶④


 四階へと続く階段、雪菜の目線の先には風花の姿があった。下から覗くその背中は、脳裏に過る四月の彼女と比べてたくましいものに映った。踊り場を抜け四階へ到着した合図の音が耳に入ると、雪菜も階上へとのぼりつめる。再び降り立つ廊下は、先ほど蹴り飛ばした物理法則に謝り倒したかのようにいつも通りの様相をしていた。

 視界の端で風花の佇む位置を確認すると、事前の打ち合わせの通り、改めて声かけはせず中断していた教室扉の開閉作業を再開する。

 

 一番手近な戸に指をかけて引くと、戸は抵抗なくレールを滑り教室内部を曝け出す。

 最初に雪菜の目に入ったのは、小さな自分の姿だった。教室中央に鎮座する大きな姿見が作る、反転した雪菜の鏡像。以前、四階教室で見た大鏡が再び目の前にあった。

 今度は教室内に踏み込んでも、消えることなく一歩一歩と大きく雪菜を映し続ける。

 

『来たな』

 

 鏡の中の等身大の雪菜が、実像の雪菜へと話しかけるように口を開いた。反転した雪菜の姿を借りた鏡の悪魔が、ニヤリと口角を吊り上げる。

 悪魔と交わした約束は、日没後に一人で四階を訪れるところまでだ。この後何が起こるか雪菜には何もわからない。わからないから、先に仕掛ける。

 

「アンタ、無償で願いを叶えてくれるんだろ。私のお願いもきいてくれない?」

 

 鏡の中の雪菜は笑って答えた。

 

『よく回る口だな。聞いてやらんこともない、ここまで来られたらな』

 

 突如鏡面が白く光ったかと思えば、目の前の鏡から雪菜は消え去り、真っ白な上り階段が映し出された。一段一段が魔の力が造り出したにしてはまばゆい光を放つ階段の先は、空高く木製の縁よりも先に延びているようだ。

 

 雪菜がためらいなく鏡の縁を越えようとしたその時。

 

『おいおい、いいのか? そのままもう一人を廊下に放り出しておいて。約束は果たされたというのに』

 

 言葉を返さず、踏みとどまる。悪魔は風花を連れてこいと暗に要求してきているのだ。それを飲むべきか、一人で得体の知れない悪魔の世界へ足を踏み入れるべきか。

 やはり風花は第二の人質で、彼女の役割はここからなのだろう。鏡の向こうへ連れて行っても、雪菜には彼女を守りきれる保障ができない。このまま四階に残っても、時間が経てば朝が来て元の学校に戻るという期待もできない。朝を迎える前に二人とも瘴気の中に沈んでしまうだろう。

 再び鏡の中を覗き込む。白い階段以外は何も見えないが、少なくともこの四階よりは瘴気濃度が低いように思えた。

 

 しばらくの思考の間、それ以上の悪魔の言葉もなかった。

 ひとまず教室の外に出た雪菜は、待機していた風花に中での一部始終を話し、選択を委ねた。

 

 どちらも安全が保障できないし、校外に出られるかどうかも分からない。

 風花が選んだのは「雪菜と鏡の中へ行く」ことだった。

 

「じゃあ、行くよ」

「はい!」

 

 手を繋いだ二人は、同時に鏡の中へと足を出し、白光放つ第一段目を踏みしめた。

 全身が鏡の縁を完全に通り抜けると、開けた視界に中の様子がよく見えた。階段は闇の中に浮かぶ光の一閃のように、果てしない上空へと続いていた。階段の横幅は鏡よりも遥かに長く、二人が並んで立つには十分の長さがあった。

 

 辺りを警戒しながら一段一段と歩みを進めていくものの、見上げる階段の先には空間の闇が続くだけで変化は起きない。繋いだ手も上がりにくいとしばらくして離してしまった。

 雪菜にはまだ余裕があるものの、そろそろ風花が疲れてくる頃だろうと初めに口を開いたのは雪菜だった。長くなりそうな道中を無言で過ごすよりも、話しながら進むことにしたのだ。話題なんて、なんでもよかった。

 

「あのさ、教室で読んでた本ってどんな話?」

 

 足を止めると風花もそれに乗ったようで、立ち止まって答えを返す。

 

「少年が悪魔と契約して身の回りの事件を解決したりするお話なんです。結構続いてるシリーズもので、今持ってるのは最新作なんです。ついこの前出たんですよ。サイン会にも行っちゃいました」

「もしかしてこの前予定があるって言ってたやつ?」

「お恥ずかしながら……」

「そういえばひかりもなんか言ってたな……」

 

 休憩がてらに続く会話は他愛のないものだった。

 

「先輩って、いつもこんな目に遭っていたんですね」

「うん、まぁ……こんな長い階段は初めてだけど」

「それでもこうして一緒にいられるってことは、全部切り抜けてきてるんですよね。すごいです!」

「私一人じゃ何もできなくて、ほとんど雨音のおかげなんだけどね……」

「……」

 

 上っても上っても、先の闇が続くだけ。上り詰めればそれほどに階段の幅が狭くなっている。階段の先端にたどり着いても、何もない可能性もある。

 

「大丈夫?」

 

 大分脚にきているようで、休憩を挟んでも風花の上るスピードは落ちてきていた。

 

「大丈夫です」

 

 風花はそう言って雪菜といる段からひとりで三段ほど上ると笑顔で振り返った。

 

「こうして二人で階段を上ると、出会った時のことを思い出しませんか?」

 

 風花は進行方向へ向き直し、そのまま一人で階段を上る。離れないよう、雪菜はそれに続いた。

 

「あの時は先輩が私の手を引っ張ってくれましたけど。あの時は本当に怖かったなぁ……」

「今は怖くない?」

「先輩が側にいてくれますから」

 

 気がついた時には階段の幅は狭くなり、一人分しかない。そのまま風花の後ろにつくように上る。

 

「あの時は私、嬉しかったなぁ……先輩に出会えて本当によかった。初めて出会えた、私の理解者……」

 

 風花は振り向かずに前を見据えている。階段の段差が最初よりも明らかになだらかになっているようにも感じられた。終わりが近いらしい。

 

「知ってますか? あの社、本当に神様がいるんですよ」

「祀られてるご本人が……?」

「いえ、神使ってやつらしいんですけど、狛犬とか、そういう感じのやつです」

「へぇー、すごいね。そういうのも視えてたんだ」

「先輩にも、視えますよ」

「そうなの?」

 

 風花の歩みは止まらない。そのまま階段を上り続ける。

 

「風花、思ってたんです。先輩に出逢ったあの夜に。この人とおんなじ景色が見たいなぁって。風花の一番の理解者になってもらいたいなぁって。でも、誰にも風花の世界は視えない……」

 

 うつむいて立ち止まる風花の背に追いついた雪菜は、一段下から震える風花の肩へ手を置いた。

 

「風花ちゃん……ごめんね、私とあなたとでは同じ世界が見られない。でも、私でよければあなたの話を聞くよ。風花ちゃんのこともっと教えて。この町にくる前のこと、視えてる世界のこと。どうか孤独だなんて思わないで」

 

 雪菜の気持ちは本心だった。雪菜にとっても風花は大切な理解者の一人でもある。その人が苦しんでいるなら、その助けになれるなら、できる限りのことをしたい。完全とは言えなくとも、彼女の感じる孤独に寄り添うことくらいなら雪菜にもできるはずだった。

 

「先輩……

 

 

 

 

 それじゃ足りないんです」

 

 目の前の風花が振り返ると、そこには満面の笑みが広がっていた。

 

「だから、雪菜先輩。風花の理想の理解者になってください」

 

 

 

 雪菜の両肩に正面からの衝撃がのしかかる。押し出された上半身の重みに両足が耐えきれずに重心が後ろの方へと大きく動いた。

 

 階段から足が離れ、宙に浮いた体が重力に引きずられるように真っ逆さまに落ちる。 

 

 

 

 伸ばした手の向こうに見えたのは笑う風花の顔、闇へと続く白い階段、そして後頭部に強い衝撃が走り、雪菜の視界は闇に染まった。 

第十三話「虚蝉 夏の記憶」おわり

十四話へ続く(更新休止 再開時期未定)

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