2「放課後対談①

 日に当たった吸血鬼が灰になっていくかのように、表面からサラサラとこぼれ落ちる体は煙を立てていた。解れて落ちる砂すらも出来上がった端から大気に溶けてしまっている。

 廊下に遺っていた大蜘蛛が崩れていく。

 黒い砂の山を見えない手が奪い合っているかのように思えた。外殻が消えていくに従って、天へと伸ばされた脚が一本また一本と山から倒れた。

 お山の棒が床に落ちると消え入りそうな軽い音が鳴り、砕け散る瞬間に黒い煙を吐き出した。

 やがて砂時計の砂が落ちるように、自重に耐えられなくなった体が内側に吸い込まれていく。潰れて解け、多量の砂埃が大気に放出された。

 生温い風が頬を撫でた気がした。しかし周囲の黒煙は動かず、舞い上がった黒い粒子がどこかへ消えていくだけであった。

 

 雪菜は先程絶命した大蜘蛛の亡骸が霧散していく様を呆然と眺めていた。同時に、まるで大蜘蛛の粒子が大気中に〝よくないもの〟として招かれているかのような不気味さを感じていた。無意識にポツリと声を漏らしていた。

 

「……これって、大丈夫なのかな」

「分からない。これが君らに悪影響を及ぼす可能性は否定出来ないから」

 

 溶けゆく残骸を不安げに見つめる雪菜に、雨音あまねが柔らかな表情を向けた。口角が上がっておらず微笑みと呼ぶにはぎこちないが、目は心なしか笑っている気がする。今まで雪菜が見た表情の中では微笑みが一番近いものだろう。

 

「とりあえず帰ろうか」

 

 

 雪菜は少し不自由な足取りで校舎の階段を下りていた。今までに多少厄介な幽霊に遭遇したことはあっても、さすがに腰が抜けるという経験は初めてであった。この広い階段の手すりにこれほど感謝したこともない。

 ゆっくりのろのろと動く姿を見かねたのだろう。手を貸そうか、という雨音からの提案を階段を下りきる頃には治ると逐一取り下げていた。

 下校時刻の六時半より前に動くことができた。二階で教室から学生鞄を回収し、一階の職員室では顧問へ部室の鍵を返却した。目算の通り、下校に必要な準備が終わる時にはいつもの通りに体が動くまで回復していた。

 

「君の家はどの辺りかな。送っていくよ」

「もう平気だよ。雨音もまだ土地勘ないでしょ。遅くなると悪いから大丈夫だよ」

「また何かあったら私が安心出来ないんだよ。私だって、この付近の道は大方把握した積りさ。仮に分からなかったとしても、ここまで戻るから問題ないよ」

 

 朝の自己紹介と同じ、少しまくし立てた様な強引な口調だった。余程気を遣ってくれているのか。体についてはもう問題はないが、暗い道を一人で帰るのも確かに今の雪菜にとっては不安なことだった。申し訳ないとは思いつつ、せっかくの好意を無下にするのも気が引けたのでその言葉に乗ることにした。

 

 時刻は午後六時。下校をするには中途半端な時間帯だった。運動部の生徒はまだグラウンドで活動を行っているし、文化部は部室のある四階のせいで五時前に活動を終えてしまっている。こんな時間に帰宅する生徒も少ない。

 日がほとんど沈み、薄暗い道を並んで歩く。太陽の出ている時間が長くなった分、まだほのかに明るい空を見るとどうも時間感覚が鈍ってしまう。

 夏も近づき、気温も高くなってきた。来月頭の衣替えの日までは厚手の冬服のままだ。頭に浮かんだことをそのまま話題に出した。隣を歩いているのに何も話していないというのも気まずいが、学校のことになると雪菜が説明の為に喋り続けてしまう。それはそれで何となく気まずい。

 学校を出てある程度歩いた後、人気が無くなったのを見計らってか、雨音から改めて口を開いた。

 

「君の方から聞きたい事は無いの」と、特に先程の四階での出来事、とまでは口には出さないが真横の雪菜に同等の目配せをしてみせた。

 雪菜はそれに応えるように、辺りに人がいないか首を振って再確認してから口にした。

 

「雨音はさ、あんな感じのやつを他にも見たことがあるの?」

「あるよ。先ずはその話をしようか」

 

 雪菜が頷いたのを見て、雨音は進行方向へと視線を移してから口を開いた。

 

「彼等の事はね、私は魔界人と呼んでいるんだ。君達は悪魔と呼んでいるみたいだけれど。そうだね、今からはそう呼んだ方が分かり易いかな」

 

〝悪魔〟。小説や漫画などで非常に聞き慣れた言葉ではある。ヒトが変性したような悪霊を目にしたことは数度あれど、人語を話す異形を視た経験は雪菜には生まれてこの方一度もなかった。先程までは。

 

「悪魔はね、こちらの世界とは少し違う世界に住んでいる生き物なんだ。詳しい話は割愛するけれど、普段は人間の目に触れるようなものじゃあないね」

 

 世界、とはなんだか大きな話になってきたぞ。と身構える。しかし現にあんな異形を目で視てしまったからには、少なくともその存在だけは信じざるを得ない。

 

「それって幽霊とかと同じで、普通じゃ〝視えない〟から、ってこと?」

 

 疑問を投げかける声はいつもより少しだけ強張っていた。

 

「それも一つ。彼らが存在するにはいくつか条件が要るらしい。道端を彷徨う幽霊たちとは違って、普段は暗がりに隠れる様に在るんだ。だから人の目には付きにくい」

「その条件って?」

「私も詳しくは分からないのだけど、個体によっては環境的な要因が複数要るらしい。少なくともあの場所が満たせていたのは瘴気しょうきだと思う」

「しょうき?」

「君の言ってた〝よくないもの〟の事さ。私はそう呼んでいる」

「ふーん、カッコいいから私も今度からそっち使うね」

 

 雨音が首を傾げた。それらしい単語を並べるのが格好がつくという考えには賛同しかねるらしい。てっきりそういった趣向のある中学生かと思ったが少し違うようだ。

 

「やっぱり皆の体調が悪くなったのはその瘴気のせいだったのかな」

「それについては間違い無いと思うよ。問題はどうしてそんな状態になってしまったのかということなんだけれども──」

 

 会話の途中だったが雪菜が足を止めたことに気づくと、雨音も口を閉ざしていた。

 話し込んでいるうちに、目的地までたどり着いていた。指をさしながらそのことを伝える。雨音の目は指先をたどって、行儀よく並んだ同じ形のベランダを上から数えるように見つめていた。

 

「君はどの階に住んでいるんだい?」

「えぇと、三階の……こっちから見て、右から二番目の部屋だよ」

 

 指で自宅のベランダを示すと、雨音が「大丈夫そうだね」とつぶやいた。何かがダメだったらこの場で指摘してくれたのだろうか。不安にもなるが、少なくとも今はこの子のお墨付きを貰えたので安心しておいた。

 

「ならここでお別れかな」

「送ってくれてありがとう」

「どういたしまして。話の続きはまた明日にしよう」

「それじゃあ、また明日。本当にありがとうね」

 

 話せた内容は少なかったが、今これ以上詰めても覚えていられる自信がない。また明日、そう言って別れの挨拶を済ませた同級生の黒い後ろ姿を見送る。また明日。明日からは?

 

「ねぇ」

 

 つい声を出してしまっていた。呼び止められた雨音が振り返った。こちらを捉える瞳を見てゆっくりと息が漏れた。見守られている今は安全なのだと、なぜだか確信めいたものを感じていた。

 

「明日から、学校大丈夫……かな」

「いや、あのままなら確実に二回目以降があるはずだ」

 

 雪菜の心境を知ってか知らずか、雨音は状況をありのままに見つめた意見を出してくれる。何も気休めの優しい嘘が欲しかった訳ではない。今日まであの状況を視続けて来たのだ。そのくらいは分かる。

 ただ自分の想定を、視える世界を肯定する他人の言葉を聞きたかった。「そうだよね、気を付けるよ」と返答の声が音になる前にかき消された。

 

「でも安心して。隣にいる間、君は私が必ず守るよ」

「それは、その……ありがとう。心強いよ」

 

 自分という人間は想像よりも随分と弱かったらしい。同い年の女の子の一言が、こんなにも胸の中の不安を晴らしてくれるとは考えたこともなかった。

 明日からあの子が隣にいる。自分と同じものが視える子。無防備な自分とは違って身を守る術を持っている子。

 雪菜は去っていく雨音の背中を見送ってから、自宅マンションの中へと入っていった。

 明日から。きっと大丈夫だろう。

 きっと夢に蜘蛛が出てもあの子も出てくる。

 

 アラームは今日もいつも通りの時間に鳴った。いつもと変わらずに朝が来た。深く眠っていたのか、夢を見たのかすらも覚えていない。いや、むしろ昨日のことが夢だったかのようにすら思えた。

 雪菜は現実を確かめるために、おもむろに起き上がって学習机に置かれたメモ帳を手に取った。昨日書いた文字列は変わらずにそこに在る。忘れないように通学鞄にそれをしまって大きく伸びをした。

 

 毎朝の習慣をこなして定刻に家を出る。特別なことは何もない。「いってきます」に「いってらっしゃい」が返ってくる、いつも通りの朝だった。

 

 教室にはいつもの通り一番乗りではなかった。雪菜は窓際から二列目の自席に着くと、ノートを広げて誰に指示された訳でもない朝の学習に取り掛かる。朝は人が少なく、話しかけにくるようなクラスメートもまだ登校していない。周りを囲む静かな顔ぶれの中、目の前の問題にだけ意識を向けていた。

 

 どれくらいの時間が経った頃か、不意に「おはよう」と声をかけられた。声の主は顔を上げずとも分かる。隣の席の子だ。

 

「おはよう、雨音」

「昨日はよく眠れたかい?」

「うん、ぐっすり。疲れちゃったみたいでさ、いつもよりちょっと早く寝ちゃったんだよね」

「それなら睡眠時間は大丈夫そうだね」

 

 報告を聞く様子も昨日と変わらず落ち着き払っている。短い応酬を終えるとすぐに椅子を引いた。

 女子生徒のざわめきが聞こえていた。昨日来たばかりの転校生が登校してきたのだ。雨音が席につくのを見計らって、一人のクラスメートが机の前にまで来ていた。

 

「おはよう、水無月さん。あのね、これ。プロフィール帳のカードなんだけど、書いて貰えないかな?」

 

 そう言って女子生徒はカラフルな紙を一枚手渡した。横から雨音の手の中のカードと呼ぶには少し大きい紙を覗き込む。見慣れたレイアウトだ。名前と住所、メールアドレスなどの個人情報を入れる欄と、誕生日や好きなもの、簡単な質問、心理テストなどを穴埋め形式で記入する書式。雪菜も小学生の時に買った記憶があるが、当時の内容とさほど変わりがないようだ。

 さて、隣の古風な転校生はなんと返すのか。と雨音の顔まで視線を向けて見れば、案の定首を傾げていた。初めて見るのかもしれない。

 

 最初の女子生徒が手渡せたのを見計らって、他のクラスメートも次々と同じような紙を持って窓際にやってきていた。

 

「水無月さん、おはよう! 私もお願いしていいかな?」

「水無月さん私もいい?」

 

 それぞれが持ってきた紙には違ったデザインが印刷されていたが、紙の形と内容は大半が最初の紙と同じものだ。突然の出来事に呆けていた雨音もようやく返事をした。

 

「えぇと、これは全部埋めなければならないのかな?」 

 

 顔が少しばかり引きつっていた。雪菜にも名前と住所を書くだけでもそれなりに面倒なのはよく分かる。穴埋め形式で勝手に組み上がる自己紹介文章はきっと気に入らないだろうとも容易に想像ができた。とは言っても、雨音の趣味や好きなものは雪菜も気になるところだが。

 

「埋められない所は埋めなくても全然大丈夫だよ」

「書くのは今日中でなくとも平気だからね」

「水無月さん、よろしくね」

 

 クラスメートたちはカードを残してじゃれ合いながら自分たちの座席付近へと帰ってしまった。

 

「悪い子たちじゃないからさ」

「大丈夫、わかっているよ」

 

 ため息混じりに早速カードに記入を始めた雨音だったが、驚いたことに朝のホームルームが始まる前には全てのカードを持ち主へと返していた。五分と時間をかけなかった。一時も迷うことなくペンが動いていた。内容に口を出すのもどうかと思うが、どう考えてもまともな回答はしていなさそうだ。

 自席に戻ってきた雨音はひと仕事終えたかのように、ふぅ、と息をついた。

 

「私も明日持ってこようかな」

「君もあんなのを持っているの?」

 

 そんな話をしていると担任教師が教室の中へ入ってきた。日直の号令の声が響く。今日も一日の授業が始まった。

 

 

 同日昼休み。給食も食べ終えて座席も授業時の配置に戻った頃。見覚えのあるお団子頭が二組の教室にやってきた。昨日訪問した壁新聞同好会の女子生徒だ。お団子頭は窓際へと近付いてくる。

 雪菜と雨音の間に来た彼女に何か用事かと問えば、自己紹介に来たのだと言う。確かに昨日は名乗ってすらいなかったかもしれない。クラスの違う生徒にもわざわざ改めて挨拶に来るとは、少なからず何か思惑があるに違いない。それはきっと自分から言うだろうとしばらく黙っておく。

 

「えーと、おほん。こんにちは、転校生さん。あたしは一組の西川にしかわ春香はるか。ユキとは幼稚園の時からの腐れ縁ね。ハルって呼んでいいからね」

「こんにちは西川さん。私は水無月雨音。自己紹介の他にも何か用かな」

「そうそう。水無月さんにちょぉっとお願いがあってねー」

 

 苗字呼びについては深く突っかからなかったようだ。雪菜はこの光景に既視感を覚えていた。具体的に言うと昨日の朝頃に似ている。

 

「うちの新聞の六月号、是非転校生さんのインタビューを入れたいんだけどねー……」

「あまり目立つような事はしたくないのだけれども」

「大丈夫だって。質問も無難なものにするし、別に顔写真は載せないし」

 

 春香は雨音が依頼に対してあまり乗り気じゃないのを見てすかさず説得を試みた。しかし雨音も掲示板に掲げられている五月号を既に見学済みだ。人通りも少なくない場所に置かれた見せる為の新聞。載って目立たないなんてことはまずないだろう。

 春香にとしては月いち更新の新聞に五月末付近の情報を載せたいというのもよく分かる。大きな模造紙を埋めるのに毎年同じ行事の内容を書くのがマンネリ化しているのも分かる。

 恐らくそんな事情を並べても、プロフィールカードすらまともに書かない転校生を説得させるには足りないだろう。

 

「悪いけど断るよ」

「むむ、やっぱり難しかったかー。ありがと、今度はだべりに来るからよろしくね」

 

 淡々と告げる雨音に、いつもの軽い受け答えをする春香。本命が外れたらばつが悪いだろう。そそくさと二組を後にする春香を見送りながら、雪菜はクラスの様子を伺っていた。

 数人は聞き耳を立てていたようだ。まだ雨音が転校して来て二日目だが、一日目のような取り囲みは今日は起きていない。きっと雨音がそれなりの距離を持って接しているのが初日でよく分かったからだ。踏み込めば猫みたいにするりと逃げていく。だから必要以上に触りに向かう必要はないと理解されたのだ。

 雪菜だって、まだ雨音本人の個人的なことについて何も知らない。ただ一つを除いて。

 クラスの誰も知らない二人だけの共通点を思えば、少しばかりの優越感に浸ることは出来た。

 

 

 同日放課後。

 帰りのホームルームが終わってからというもの、掃除の間にも雪菜はずっとそわそわとしていた。

 「放課後に」と一言だけ残して掃除場所に向かった雨音。詳しくは言わなかったが、十中八九昨日の話の続きのことだろう。

 さて、どこでならゆっくりと話が出来るだろうか。また鍵を借りて部室でもいいが、昨日のようなことになったら面目がない。物思いにふけっていると、クラスメートとの話にもついていけなくなっていた。話の途中途中で同意や意見を求められたようで、それなりに返せたつもりで間の抜けた返事をしてしまっていた。

 

 教室の掃除も終わり、鞄の中身を再度確認して隣の席の主の帰りを待っていた。帰る準備は万全だ。

 全開になった教室の扉を眺めていると雨音の班が帰ってきたのが見えた。班員たちと話をしているようだ。内容は全く聞こえてこないが、雨音も相手も悪い顔をしてはいない。他人のことながら朝と昼との二件で交友関係に少し懸念抱いていたが、それなりに上手くやっているようだ。

 隣の女子生徒はたしかバドミントン部の子だ。気が強いグループの子でもないし、自分から話題を広げてくれる話しやすい子だ。打ち解けあって、これから見学に行くかもしれない。それならそれで、話はまた後日改めてでもいい。

 

「帰るよ」

 

 目の前に雨音を視界に捉えていながら、雪菜はまたクラスメートに間の抜けた返事を返していた。

 

 

 教室を出て、今日は誰かに捕まることなくスムーズに下駄箱へと辿り着く事が出来た。走ったり急いだりはしていない、ちょうど巡り合わせが良かったのだろう。むしろ初日が捕まりすぎていたと思い直す。

 校舎を出て校門が見え始めたとき、雪菜の足が止まった。視線の先を辿ってから雨音が話しかけた。

 

「知り合い?」

「後輩。……視える子」

 

 校門の手前に佇む人影は大きなピンク色のリボンを左右対称に付けた特徴的な外見をしていた。遠目で見てもそれが誰だか雪菜には分かった。

 後輩の顔がこちらを向いたので、雪菜が顔の横ほどに上げた手を軽く振った。

 明るい顔つきでこちらへと駆け寄ってくる。ツーサイドアップに束ねられた栗色の髪の毛が可愛らしく跳ねる。目の前まで来ると立ち止まり、少し屈んで上目づかいで雪菜を見つめた。

 

「雪菜先輩も今お帰りですか?」

「うん、そう。これから帰るところ」

「私も途中までご一緒しても構いませんかね?」

 

 雨音の方を見て、雪菜が口を開く前に答えが返ってきた。

 

「私は特に構わないよ」

 

 了承を得た後輩は「うふふ、ありがとうございます」と言って、雪菜の真横についた。三人が一直線に並んだのを見かね、初対面の二人がお互い見えるよう大きめに一歩後ろへと下がる。

 

「あー……っと、こっちは一年生のたちばな風花ふうかちゃん。部活の後輩」

 

 雪菜から紹介を受けて、風花は雨音に対して軽い挨拶をした。続けて、今度は雨音の紹介を風花にする。

 

「こっちは昨日転校してきたばかりの水無月雨音さん」

「あぁ! 噂の転校生さんでしたか。早速転校生と仲良くなるなんて流石ですね、雪菜先輩」

 

 とっさの切り返しが思い浮かばずに、雪菜はとりあえず笑っておいた。後輩が慕ってくれているのは嬉しい限りだが、風花のおだては返事に困るので少し苦手だ。

 

 風花が隣に並んで歩き、雨音は二人を前にして数歩後ろを歩いていた。風花が雪菜に振る話題はテレビ番組や部活のことで、雨音は話に加わろうともせずにただ二人の後ろを歩く。ちらりと後ろに目をやると口元に手を当ててあくびを漏らしていた。

 

「では私はこっちなので……先輩、さようなら」

「じゃあね、風花ちゃん。また明日」

 

 風花の背中が見えなくなるまで見送ると、すぐさま背後を振り返る。

 

「ごめん雨音。風花ちゃんとばっかり話しちゃって」

「てっきり彼女も誘うのかと思ったけれど」

「あー、うん。タイミング掴めなくて」

 

 そう、と短くつぶやいて雨音は大きく一歩前へ出た。後ろ手に学生鞄を持って、足を揃えて雪菜の隣についた。

 

「それじゃあ、行こうか」

「行くってどこへ?」

「私の居候先の三神みかみ神社。君を上げる許可はもう貰っているから」

「三神?! もしかしてつばささん家?」

「なんだ、翼とも知り合いだったんだ」

「ひかり──あーっと、姉が同級生でさ。かなり仲良いから、うちに遊びに来たりもしてたよ」

 

 越してきたばかりの雨音や一年生は恐らく知らないことであるが、三神みかみつばさという少女は昨年度までの時森第一中学校ではちょっとした有名人だった。よく言う学校のマドンナ的な存在だ。

 部活も違い二学年も違うともなると普段の生活での接点はてんで薄かった。それでも翼が周囲から神秘めいた印象を持たれていたことは学年を超えて雪菜の耳にも入ってきていた。神社の娘、おまけに類まれな整った容姿に裏付けられた噂は拡散力が強かったのだろう。

 そんな彼女の家に厄介になっているなどと言った日には、当時のファンから根掘り葉掘りと翼について聞かれていたことだろう。雪菜も当時は知らぬ存ぜぬと余計なことを吹聴せずに黙っていたものだ。雨音の秘密主義も存外悪いものではなさそうだ。

 

 翼と姉のひかりは小学生の頃からの友達だ。何かにつけて食卓で名前を聞く彼女は恐らく姉の人生において一番親しい友達だ。ひかりとの縁で何回か顔を合わせた事もあり、お互いのことを見知っていた。その時偶然にお互いが〝視える〟ことも知り合った。雪菜が翼と特別親しくなったのはその影響が大きかった。

 風花に会うまでは翼が雪菜にとって一番身近な同族だった。軽い相談事には何度か乗ってもらったが、翼との会話は視えることについてが多かった。

 雪菜の認識としては姉の友達というより、近所の視えるお姉さんといったところだ。

 

 そのお姉さんの家にこれから行くことになろうとは夢にも思わなかった。

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