2「放課後対談②

 その昔、この時森の地はその名の通り鬱蒼とした森だったそうだ。現在では森だった頃の面影は薄く、この地を拓いた当時に大量の森林伐採が行われたらしいというのは肌で感じられる事実だった。

 その後雨が降る度に木々に吸い上げられなくなった地下水脈が溢れ、近くの川が氾濫して大きな水害が起きたそうだ。人々が水害を神の怒りだとして、鎮めるための水神社がここに建ったという。それがこの三神神社だ。暴れ川を龍に見立て御神体としているためか、社殿のいたるところに龍の意匠が見られた。龍にあやかったお守りも社務所にて販売されていて、雪菜の学生鞄にも龍の刺繍があしらわれたものが入っている。

 

 石造りの鳥居に一礼をして境内に入る。雪菜は「参拝を先にする」と言ってすぐに手水舎へと向かった。神社の娘から直々に教わった礼儀作法をこなして参拝を終えた後、ようやく境内にある三神家の住宅へと足を運んだ。神社としての社殿とは別の、立派な瓦屋根のついた趣のある木造家屋だ。

 

「只今帰りました」

「お、お邪魔します」

 

 雨音が入った後に雪菜も続けて家に上がる。雨音の声が聞こえたのか、女性が玄関まで出迎えてくれた。翼の母親だ。名前までは知らないが、近所のお祭りなどで数回見かけたことがある。娘と同じく母親もまた整った顔立ちをしているので雪菜は顔を見る度に少し緊張していた。

 

「お帰りなさい雨音ちゃん。あら、お友達ってば赤星さんのお宅の雪菜ちゃんだったのね。いらっしゃい。どうぞゆっくりしていってね」

「お、お久しぶりです。お世話になります……」

「いいのよいいのよ。雨音ちゃんも、これからもお友達ジャンジャン呼んじゃっていいからね」

「わかりました。ありがとうございます」

「さぁさ、上がって上がって。後で飲み物持って行くからね」

「ありがとうございます」

 

 三神夫人に笑顔で迎えられながら、家の中へ上がり雨音の使わせてもらっている部屋へと案内された。

 部屋は外観から想像される通りの和室だった。八畳ほどの一人部屋にしては広い部屋だ。

 部屋の隅に洋式の机と椅子が一式、木製のタンスに本棚、白い壁に立てかけられた折りたたみ式テーブル、襖の近くには四枚ほど積んだ座布団があった。まだ越してきたばかりだからか、物は少ないし整然としている。趣味らしいものが感じられないのは雨音らしいと思った。

 指示のもと雨音が座布団を敷いた場所に腰を下ろす。今度は折りたたみ式の長方形のテーブルを組み立て雪菜の前に降ろした。雪菜の対岸に座布団を置くと、そのまま腰を下さずに襖を開けた。

 丁度飲み物を運んできてくれた三神夫人が来ていた。足音が聞こえていたのだろう。雨音が盆ごと飲み物を受け取って礼を言う。雪菜も続けて軽く頭を下げながらお礼を言った。

 雨音は三神夫人が去るのを見届けてから襖を閉める。テーブルに盆を置くとガラス製のコップに受け取ったポットの中身を注ぎながら口を開いた。

 

「さて。どこから話そうかな」

「メモを用意してきたんだ。出していい?」

「準備がいいね。それで、君は先ず何から聞くのかな?」

 

 テーブルの上にメモ帳を取り出した。中学に入学する前に文房具屋で買った無線綴じの小さなノートだ。制服のポケットにも収まる。最近では部活での連絡事項をメモするのに使っている。

 雨音は注ぎ終わったコップを雪菜の前に置いた。小さくお礼を言いながら、コップの中身を一口飲み込んだ。麦茶だ。

 

「じゃ、最初に。昨日のさ、扉が開かなかったのも大きな物音がしたのもあの悪魔のせいなのかな」

「物音の方の可能性は高いけど、扉の方はわからないかな。私は扉を閉めていたのは別の何かだと思っているよ」

「雨音も別の原因だと思うんだね。それで、雨音は何のために扉を閉めたんだと思う?」

「君はどう思った?」

「いたずら、というか嫌がらせかな。最初に雨音が言ってたやつね。やるような人は予想できないけど。で、大きな物音がしたから、扉を閉めていた人もびっくりして逃げたんだと思う」

 

 あの日、悪魔は最初から扉の前にはいなかった。扉で遊びながら廊下をずっと徘徊していた可能性もあるが、あえて狙って引き戸を塞ぎ留めるくらいならば最初から扉を開けて襲いかかっていたのではないだろうか。こちらが扉に力を加えたのも当然閉じ込めていた相手には伝わっていたはずだ。存在を示してしまっている。会話ができた以上、あの悪魔がそこまで頭が回らないとは到底考えにくい。

 ならば悪魔は物音の後に出てきたもので、それを見た何者かが手に負えないと判断して先に退散した。そのように考えるのが筋が通っている気がした。

 

 雨音の考えはどうやら少し違う方向へとまとまっていたようだった。

 

「あれからしばらく考えてみたけれど、私は足止めされたんだと思ったよ。もっと暗くなるまで、もっと瘴気が濃くなるまで」

「足止め? 体調不良を狙っていたならもっとたち悪いじゃん」

「いや、恐らくはあれと遭わせたかったんだろうね。正しいことは扉を閉めていた本人にしかわからないだろうけど」

「それってつまり、あれが出てくるって分かっていたってこと?」

「それは断言は出来ないかな。私達を瘴気に当て続けたかっただけかもしれないし」

「でも瘴気にさらされるのは向こうだって同じでしょ? それにこっちは盛り塩で薄くなってたけど、廊下でダイレクトに触れていたら先に倒れるのは向こうの方……」

「君らもやっているように、瘴気の影響を弱めることはそんなに難しい事ではないよ」

「あっ、確かに。うーん……」

 

 シャープペンシルを取り出し、雨音の見解を質問メモの上に書き加える。「夜まで足止めの可能性あり」。これ以上進むこともないだろうと、次の質問をする。

 

「えっと、じゃあ次。雨音はあの時、物音がしたあとにさ、『もう扉が開く』って分かったよね。どうして?」

 

 真っ直ぐ雨音を見つめる雪菜の視線に合わせて、雨音は答える。

 

「秘密。詳しい事は言えない。ごめんよ」

 

 そういう返しもあるのか、と全ての答えを聞けると期待していた雪菜は拍子抜けしてしまった。なるほど、「企業秘密」とメモを取る。雨音の秘密主義は今に始まったことではないと妥協しておく。

「次。悪魔は私たちに飛びついてきたときに跳ね返ったじゃない? あれってなんでって聞こうと思ったんだけど、これも秘密……?」

 

 質問を聞き終わった雨音は自分の胸元に手を入れて、制服の中から金色の細かい鎖を引きずり出した。鎖が通った金色の指輪が顔を出す。手を離すと、指輪の重みで鎖がピンと張った。雪菜が視る限りでは指輪に特別な注目点を感じられず、意外とおしゃれなんだな、とのんきな事を考えていた。

 

「それはこれのせい。これはある種の防護服のようなものでね。感知の範囲は少し狭いかな。弱い霊体状態の悪魔なら触れただけで吹き飛ぶような代物さ」

「その指輪が?」

「そう。イメージとしては身につけた対象を薄い膜で包み込む感じかな。四階の瘴気も通さなかった」

 

 信じがたいことではあるが、雨音がそう説明するのだから実際に効果があるのだろう。昨日眉一つ動かさずに瘴気の中を歩いていたことにも合点がいく。視えることを誤魔化す演技ではなく、あの這いずるような重みを感じていなかったからだ。羨ましい限りだ。そして自分に近づく悪いものを撥ね退ける力を持っていると言った。確かに、隣にいる限りはその恩恵を受けられそうだ。

 

「じゃあ悪魔が二度目に飛びかかってきたとき手を伸ばしていたのは、あえて触れるようにしたってこと?」

「うん。でも密着していたから君に触れても同じ結果だったとは思う。最初の突進を受けていれば直ぐに終わった事だったけれど」

 

 雪菜が苦笑いしながら「余計なことしちゃったね」と言うと、雨音は首を振って否定した。

 

「確かに君が出てこなくても済んだ事だけど、君に助けてもらって嬉しかったんだ」

「え?」

「だから、気にしてない」

「……そっか、それなら良かった」

 

 雪菜はくすぐったい気持ちになって、それが照れくさくて身体を揺らした。まさか雨音が素直な気持ちを伝えてくれるとは予想だにしていなかった。上がる口角を隠すようにコップを口に当てた。

 

「でも君はもっと自分の身を大事にするべきだと思う」

 

 危うくむせ返るところだった。あの時は咄嗟の出来事だったと反論したくもなったが、麦茶と共に飲み込んだ。「次からは気をつけるよ」と当たり障りのない答えを返す。

 

「次。昨日話しかけていてやめちゃっていたけど、結局四階の瘴気ってどこからどうやって発生したと思う?」

「難しい質問だね。あそこまで全体に広がっているのを見ると、発生源を特定するのにも少し時間が要ると思う。吹き出していたら分かりやすいだろうけれど、君が見つけていないのなら入り組んだ所に隠れているのだろうね」

「四階全体から滲み出ているとかは? 気がついたときにはすでに一面に視えたし、あまり濃さに違いとか分からなかったんだよね」

「全体か。有り得ない話ではないけど、そこまでの規模に成熟しているとしたら相当危険な場所だよ」

「そう、なんだ。……今日も悪魔、出たりするのかな……」

「否定は出来ないね」

 

 自分の学校、それも授業や部活動の度に通らねばならない階層が危険な場所と言われてもどうしようもない話だ。瘴気の及ぼす見える影響ならばともかく、見えない化物が出たと騒いだところでオオカミ少年の扱いを受けることになる。

 雪菜たち以外には視えない存在がヒトを狙って学校に訪れているのならば、いずれ神隠しのようなことが起こるのだろう。それは今日かもしれない。いなくなるのは友達かもしれない。

 悪い想像は勝手に膨れ上がっていた。連鎖的にどんどん悪い方向へと予想を立ててしまう。芋づる式に不安感が募っていく。ふと手の甲に温もりが触れた。触感は硬い、金属だ。

 

 雪菜の顔色を見てか、雨音が手を伸ばしていた。金色の細い鎖が手の中から伸びている。不思議と心に立ち込めた暗雲が晴れていくかのような心地がした。意外と温かい雨音の体温が伝わってきた。まだ何かを言われたわけでもないのにほっとする。悪い妄想の蟻地獄から引きずり出してくれたようだ。

 

「君はどうしたい」

 

 優しい語り口だった。どうしたい、何をしたいのか。明確なイメージは雪菜にはまだ出来ていない。自分や友達が良くないことに巻き込まれない為には一体何が出来るというのだろう。

 でも望みははっきりと分かる。

 雨音の手を握り返して真っ直ぐと前を見た。目と目が合う。こちらを射抜くような真剣な眼差しが雪菜の言葉を待っている。

 

「元の学校に戻ればいいなと思う。だから、私にしか出来ないことがあるなら、それに尽くしたいと思う。何をすればいいのか教えて欲しい」

 

 雪菜の目には先程までの迷いや憂いはなかった。雨音は〝これから起こること〟を見据えている。出る幕じゃないと切り捨てられるかもしれない、何もしないのが得策なのかもしれない。それでも握った手には期待にも似た熱が宿っていた。その慧眼けいがんはどんな判断を下すのか、固唾を飲んで雨音の目を見つめた。

 

「残念だけど解決策は今すぐに教えられないし、確実に元に戻せる保証も出来ない。でも君が望むのなら手を貸すよ。この現象の原因を突き止めたいのは私も同じだからね」

「なら、一緒に何をしたらいいかを探してくれる?」

「勿論。君を放っておいても危ないだろうし」

 

 ただの一度で危なっかしいイメージがついてしまったことを雪菜は歯がゆく思った。その印象があったから約束をしてもらえたのだと思えば得なのかもしれないが。

 胸の中は曇り後晴れ、全ての不安が払拭できたかと言えば否だ。それでもか細いながらも光明を見出だせた気がする。

 

 澄まし顔の雨音がコップを口に運ぶのが見えた頃になって、ようやく掴んでいた手が自分の中から抜け出ていたことに気がついた。驚く間も与えず、ちらりと向けられた視線が雪菜のメモ帳へと動く様を見せられた。催促しているのだろうか。

 メモ帳を手に取り次の質問を確認する。これは聞いても答えは返ってこないだろうと確信が持てる内容だ。それを飛ばすとメモ帳最後の質問となった。

 

「雨音さ、怒鳴った時に自分のこと僕って言ってたよね」

「そこを聞くのかい?」

 

 今までとは系統の違った妙な質問だったからか、雨音の口元が少し歪んだ。他の質問と同様に淡々と、しかし口調は少し砕けた答えが返ってきた。

 

「今までずっと『僕』を使っていたんだ。でも女の子が『僕』だなんて変だろう? だから転校するついでに『私』に直したんだ。妙に目立っても嫌だったから。……そんなに可笑しいかな」

「理由が雨音らしいと思って」

 

 雪菜の口元がニヤついていた。出会って二日目で〝らしい〟なんて言葉を使うのは馴れ馴れしかっただろうか。雨音自身のことを聞いたのに答えてくれた嬉しさも相まっていた。この流れならいけるだろうか。先程浮かんだ追加の質問を出す。

 

「ところでこの三神さんのお家と雨音ってどういう関係なの?」

「私の親戚がここの宮司──翼の祖父だね。彼と知り合いだったようでね、その伝手で居候させてもらっているんだ。二つ返事で快諾してくれた様だから、親戚に対して余程の恩があるのかもしれないね」

「もし断られたら別の町に行っていたってこと?」

「……そうかもしれない」

 

 答えまでに間が出来た。答えるかどうかすら一瞬渋ったのかもしれない。それ以上に踏み込むような言葉は避けて短いあいづちを返した。

 これで用意した質問は終わりだと告げた。

 

 それから少しの間は学校生活についての話をした。ノートの貸し借りの詳しい打ち合わせだったり、一年生時代に雪菜が七不思議を制覇する有志の集まりに参加した話だったり、教科担任がそれぞれどのような授業や課題を出すのかという話もした。

 前半の物騒な話とは対極の、ありふれた他愛のない会話だった。

 どちらにしても、お互いのことを話すというよりはお互いが説明をして時間が経っていった。

 夕方五時頃になり、出迎えてくれた三神夫人に挨拶をしてから雪菜は雨音と共に境内を出た。

 五月下旬の空は昼間と勘違いするほどに明るい。家まで送っていく必要はないとは申し出たが、聞き入れられることはなくこうして隣を歩いている。

 名残惜しいと思ってくれたのかもしれないと考えれば、気分は全く悪くはなかった。

 

 雨音の部屋から延長戦のように会話を続けていた。学校のことで思いつくことは大方話し終えてしまっていた。他の話題へと飛躍するにも、雨音は雪菜の話を受け取るばかりで広がりが弱い。思いついたことを口に出せば、普段帰ったら何をしているだとか、最近見たテレビアニメの話や漫画雑誌の話へと飛んでいく。あらすじやオススメポイントを語り出して、気がついた頃には家の前にまで着いていた。

 

「ほとんど私ばっかり話しちゃったね」

「そうかもしれないね」

「……いつか話してもいいと思ってくれたら、雨音の話も聞きたいな」

 

 今すぐ、という話ではない。いつかそういう日が来たらという願いを込めての一言だった。

「うん、考えておくよ」という短い返事の中にも確定的な表現をしないのは雨音らしいと思った。

 

「ここでお別れだね。また明日、雪菜」

「送ってくれてありがとう。また明日、雨音」

 

 雪菜は昨日と同じく雨音の背中が見えなくなるまで見送ってから、マンションの中へと帰っていく。

 望みは明白だ。少しでも希望へと近付けるように、昨日までとは違う一歩を踏みしめた。

第二話「放課後対談」おわり

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