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5「水の月、雨の音①」

 

「ただいまー」

 

 雪菜が帰宅後の第一声を発すると、台所から「おかえりー」と姉の声が返ってきた。

 

 脱いだ靴を揃え直し、洗面所でうがい手洗いを済ませてから道なりにリビングへと向かう。

 台所では当番のひかりが夕食を作っている最中であった。入れ替わり制の当番とは言っても、平日のほぼ毎日を台所に立っているひかりについては担当と言っても過言ではない。その分、配膳や後片付けは雪菜と夕飯時に帰ってくる母の担当分としている。

 

「今日は結構遅かったね」

「うん、色々あってね」

 

 ひかりは火元から目を離さずに声をかけた。

 どうやら保健室で静養してたとの連絡は家の電話には入らなかった様子だ。四階滞在者の急患には養護教諭も手を焼いていることだろうが、症例も複数見ていることから回復を見越していたのだろう。それとも、雨音が融通してくれたのだろうか。

 雪菜は冷蔵庫から麦茶の入ったプラスチック製のポットを取り出し、中身を無色のガラスコップに注ぎながら答えた。包み隠さずに話したところで過ぎてしまった事柄であるし、ひかりに余計な心配をかけるのも得策ではない。本日の一品は野菜炒めかとフライパンの中身を覗き込む。

 

「最近帰ってくるの、いつもよりもちょっと遅いよね」

「……うん。雨──うちのクラスに来た転校生と仲良くなってさ。それでいつもだべってから帰ってくるから」

 

 嘘は言っていない。校内の見回りの後、雨音とは日常的な雑談をしている。喋り続けているのは雪菜の方だけであるが、雨音の方もある程度の興味を持った受け答えをしながら雪菜の話を聞いている。勝手な想像よりは興味関心が弱い人種でもない様子だ。

 

「へー、転校生来てたんだ。いつから?」

「えっと……一週間ちょっと前かな。言ってなかったっけ?」

「聞いてないー! それで男の子? 女の子?」

「女の子」

「なーんだ。春ではないっと……」

 

 唐突に色恋の話を持ち出され雪菜が渋い顔をしてみせるが、手元に集中するひかりには見えていない。野菜を炒めていたフライパンに追加で麺を投入していた。今日は焼きそばらしい。

 

「春春って、そんなにうららかなもんかね」

「んふふ、毎日楽しいよ」

「はぁーノロケかよ」

 

 本人曰く毎日が春のひかりは鼻歌まじりに調理を進めている。今日は特別機嫌がいいらしい。元から温厚なひかりが機嫌を損ねている姿を雪菜はあまり見たことがないし、ひかりに春が来てからの数年はむしろ上機嫌のことが多い。高校受験を控えていた数ヶ月前の冬には低迷していたが、それも過ぎてしまえばこの調子だ。

 含み笑いのひかりは火を止めると、「あれ?」と声を出した。視線は雪菜の顔より少し下へ向いている。

 

「雪ちゃん、胸元にすごいシワがついてる」

「えっ?!」

 

 指摘を受けた箇所へ目をやると、確かに胸元へ集中するような大きめの皺が出来ていた。あえて悲劇的に受け取ろうとすれば、胸ぐらを掴まれた跡に見えなくもない。

 雨音からは何も言われなかったので、別れた後に付けてしまったのだろう。直前の行いを思い出そうとする雪菜の視界にひかりの顔が現れた。

 

「大丈夫? また心配事でもあった?」

「え、っと。いや、」

 

 少し下に向けた目線に合わせるように、ひかりが覗き込んでくる。これは悪い想像をされているかもしれない。心配事は実際に起きてはいるが、ひかりの考えるものは別のベクトルの心配事だと雪菜は予想した。

 胸元に出来た握り跡を覆い隠す様に手を置いた。そういえば、さっきも触った覚えがある。手の中に、薄手のセーラー服の上に硬い感触が浮かび上がってきていた。

 

「……やば」

 

 雨音に着けてもらった金色の指輪。我が物顔で身につけてしまい、持ち主と別れるまで返すのをすっかり忘れてしまっていた。

 挙動不審な様子の雪菜にひかりが再び大丈夫と尋ねる声を「別件!」と遮った。

 

「電話しなきゃ、いやまだ家着いてないか」

「さっきの転校生ちゃんのこと?」

「大事なものを借りたままにしちゃった」

「そっか。うーん、そんなに心配なら、とりあえず一回電話してみたらどうかな? 帰ってなかったら先にご飯にしようね」

 

 そうする、と短く返事をした雪菜はリビングに置いてある卓上型電話機の子機を充電スタンドから外すと、せかせかと自分の部屋へと向かっていった。

 

「……別件、か」

 

 ひかりはキッチンの収納棚から取り出した平皿に出来立ての焼きそばを盛りながら、ぽつりと独り言を漏らしていた。

 

 良くないことに巻き込まれていなければいいんだけど。

 

 

 

 自室のシングルベッドに座り、慣れた手つきで登録してあるミカミツバサの番号を選択し発信ボタンを押し込んだ。

 呼び出し音の後にすぐ「もしもし」の声が聞こえてきた。

 

「もしもし、赤星と申します」

『あれ? その声はひかりちゃんじゃないわね、雪菜?』

「翼さん?」

 

 電話を受けたのは登録名の通りの三神翼だった。夕飯時に母親の手は空いていないからだろうが、高校でも運動部に所属していたはずの翼がこの時間に家にいるのは意外なことだった。活動日ではなかったということだろう。

 

『どうしたの、家の電話にかけてくるなんて』

「えぇと、雨音をお願いしたいんですけど……」

『帰ってる帰ってる。すぐ呼んでくるから待っててね』

 

 雪菜が礼を言うと、すぐさま受話器からは保留音が流れだした。電子音の演奏でも分かる、聞き覚えのあるクラシックの曲が鼓膜を揺らす。雪菜はタイトルも作曲家も知らないが、事あるごとに耳にする有名な楽曲だ。こういうのはひかりが得意なのだ。後で鼻歌でも歌えば即座に曲名と聞いたことのある著名な音楽家の名前を教えてくれる事だろう。恐らくそのままCDを渡される流れになる。

 

『もしもし』

 

 保留音が止まり、目的の人物が出てきた。雪菜は機械越しの雨音の声を聞き逃さないように耳を澄ませる。

 

「おかえりなさい。は、変か。お疲れ。無事に帰れたようでなにより」

『君も元気そうで何より。わざわざ電話なんてしなくとも、明日話す積もりだったのだけどね。その指輪も含めて』

 

 雪菜が電話をしてきた理由は相手には想定の範囲だったようだ。

 

「そうだったんだ。ごめんね、もうすぐ夕飯なのに」

『いや、いいんだよ。指輪のことは先に話しておくべきだったし』

「雨音の大事なものだよね? 今すぐ返しに行った方がいいかな」

『返さなくて大丈夫だよ。それは君にあげる。私には然程必要のない物だったからね』

「あげ?! いや、でも……」

 

 意外な答えが返ってきたことに雪菜がたどたどしい反応で返す。そんなに簡単に手放していいものではないはずだ。

 確かに日常生活において指輪の力が発揮されることはめったにないことであろう。しかしながら今首にぶら下がっているものは後輩曰く、どんな清浄な神具にも負けない神秘をまとった代物だ。雨音がどういった経緯でこの指輪を手に入れたのか、雪菜はまったく知りもしないが、そんな家宝クラスのひみつ道具を会って一週間二週間の同級生に気軽に渡していいはずがない。

 受話器の向こう、まるでそれも予想通りだったかのように、雨音は淡々と続きの言葉を紡ぐ。

 

『今日みたいな事もあったし、私よりも君が持っていた方が良い』

「雨音が危険な目に遭ったときどうするの?」

『私の事は心配には及ばないよ。似たような物はまだあるから』

「本当に……?」

『本当の本当』

 

 似たようなもの、とは先日渡してくれたような石だろうか。それとも石よりももっと有用なものを別に持っていたのだろうか。雨音の落ち着いた様子は、機械越しでも本当に心配いらないと思わせる。学校が元に戻ったら、必ず雨音に指輪を返そう。と心に誓った。

 

「……わかった。なんだか私、雨音にしてもらってばっかりだね」

『そういうのも気にしなくて良い』

 

 でも、と続けようとする雪菜の言葉を止めるように雨音が話を続けた。

 

『ところで、どうする? このまま今日の事を説明しようか。少々長電話になってしまうけれど』

「説明してもらえるのなら、今聞きたい」

『わかったよ。とりあえず、君が意識を失ってからの事を順を追って話そう』

 

 保健室で目が覚めてから直後、雪菜は軽い放心状態になっていた。雨音は話しても無駄だと判断したようで、眠っている間に起きたことの説明をこの場で初めて受けることになる。

 

『あの悪魔が消え去った時、君も同時に倒れたんだ』

「あぁ、あの光の後……やっぱりあそこからか」

『光が見えたのかい?』

「え? うん。それが?」

『……それは後で話すから、話を戻そう』

 

 雨音は少し沈黙した後に、再び話を続けた。

 悪魔を散らした直後に空間の繋がりがおかしくなっていた中学校の校舎は元に戻ったようだ。倒れた雪菜のことは千夏と共に保健室へ運んでくれたらしい。指輪の効果範囲内であったとしても、四階から少しでも早く遠ざけたかったようで、大人の手を借りる時間を惜しんだという。自分の背丈と同じほどある気を失った人間を運ぶのには大変手間取らせたことだろう。非常に面目ないことだ。

 下校時刻前の一階にはまだ教職員が残っており、四階にいたと説明しただけで養護教諭は狼狽することもなく事務的に業務をこなしたという。

 雨音は特に瘴気の蓄積も見られなかった千夏を付き添いに任せて帰した後、雪菜が目覚めるまで保健室のベッドの横で待ってくれていた。という──

 

 一通りの説明を終えた雨音は呼吸を整えるように一拍置いてから、また話を続ける。

 

『さて、さっきの光のことについて説明しようか』

 

 止められていた話が戻ってきた。気合いを入れるためか、雪菜は背筋をピンと伸ばす。

 

『君が見た光は悪魔と指輪が接触した際に強く発せられる物だね。もしかしてこの前も視えていたのかな』

「直前にもらった石を投げた時にも見えたよ。一週間前の時は視えた覚えがないけど……」

 

 雨音は考えているのか、また少し沈黙したがすぐにまた声が聞こえてくる。

 

『あの時は背を向けていたし、目でも瞑っていたんじゃないかな』

「確かにそんな気もする、かも」

『そうだとしても、君の目にもその位は視えるのか……』

「えー……っと、視えたらまずかったりする?」

『一概にそうとは言えないけれど、勿論普通は見えない光さ。ちょっと指輪を視てくれるかな』

「指輪?」

 

 雪菜は胸元から鎖をつかんで指輪を引きずり出すと、目線の上に置いてじっと目を凝らした。

 一番最初に見せられた時の、なんの変哲もない金の輪が今も変わりなくふらふらと揺れている。

 

「普通の指輪に見える」

『なら大丈夫だね。もしかしたら、君の霊視能力が上がったのかと思ってね』

「これ、もっと視えるようになるの?」

『詳しくは私にもわからないけれど、そういう場合もある様だよ。逆に視えなくなる場合もあるらしい』

「へー……」

 

 霊視能力──もしも上げることができたら、風花ちゃんの見ている世界を知ることができるのかな……

 

 あの日以来、雪菜は強い霊視について風花本人に話を聞くまでは気にしないように努めていたが、やはり自分も少なからず関わる問題についてはどうしても気がかりになってしまっていた。

 

『霊視能力を上げようだなんて考えないで』

 

 少々上の空だった雪菜は機械越しの雨音の声に現実に引き戻された。説明の時の淡々とした口調とは打って変わり、少し早口の強張った声が耳に入る。

 

『視えない方が幸せだなんて事は、よくある話だろう。それに……』

 

 息継ぎの音が聞こえてきた。

 考えていた通りの言葉をそのまま言い当てられ、目を丸くする雪菜の顔が見えていたら、雨音は別の言葉をかけていたのだろうか。

 

『僕は君にそんな風になって欲しくない』

 

 およそ十秒ほどの間であった。返す言葉を探すことに必死で、雪菜は図らずも沈黙を作り出してしまっていた。

 雨音は一体今、どんな顔をしているのだろう。いつもと変わらない澄まし顔で、先ほどの言葉を言ってみせたのだろうか。どう答えるべきだろうか。

 もう考えないようにする、だろうか。一週間前のことを今だに想起してしまうのに、それでいいのか?──

 返答の正解のヒントを探ろうにも、耳慣れしない電子音が作り出した仮の声では雨音の感情が読み取れない。

 

『さぁ、これで大体の説明は終わりかな』

「えっと、えっと……」

『何かな?』

 

 雪菜が答えあぐねている最中ではあったが、受話器の向こうの雨音はいつもの平坦な口調でもう話が終わった様子で進めてしまう。

 何か言わなければ。まずは、雨音が雪菜のことを心配してくれていることに対して。洒落のきいた上手い言葉なんて雪菜の口から出すことが出来ない。思った通りの率直な言葉を、そのまま。

 

「……ありがとう、雨音。そんなに心配してくれて」

『お礼を言われる程の事じゃない。……友、達の事を心配するなんて当然の事だろう』

 

 少し恥ずかしいのか、友達という言葉が詰まった。そんな音を聞いたなら、雪菜も思わずにやついてしまう。

 

「そこで詰まらないでよ」

『だって、なんだかくすぐったいんだ。仕方がないじゃないか』

「えー?」

『さぁ、長電話になってしまったね。そろそろ切り上げようか』

 

 ただ恥ずかしいだけではなく、不慣れな言葉に苦戦中の雨音は居候中の身。それに加えて夕飯の時間だ。雪菜には、これ以上の長電話はしたくない様にも聞こえた。

 

「そうだね。ありがと……あっ。また明日ね」

『また明日、雪菜』

 

 雪菜は受話器の向こうから電話の切れた音が聞こえてから電話を切ると、そのまま後ろへ上半身をベッドの上に倒した。

 天井を見ながら雪菜が考えるのは、やはり霊視のことだった。しかし今度は強くなることではない。その逆の、弱くなることについてだ。そのことは、雪菜には身に覚えのあることだった。

 

 

 思い出すのは雪菜が小学三年生のときのこと。夏休みのある日を境に、一時的に霊視をしなくなった期間があったのだ。変化は先日ちょうど雪菜たちが訪れた公園での出来事だったと記憶している。

 

 何が起きたのか、雪菜は当時何も思い出せなかったがそれは今でも変わりがない。

 ただ確実に自分の霊視が弱まったということはしっかりと覚えている。その日まで日頃感じ取れていた何らかの嫌な気配も、直感も、姿形も。〝普通〟ではない何もかもが感じ取れないほどに薄まっていったのだ。

 それはほんの数ヶ月のことで、雪菜の視えなくなっていた何もかもがしばらくすると今まで捉えていたのと同様の輪郭を取り戻していった。現在となっては、小三の夏休み以前からと変わりのないものが視えている。回復してしまったことに多少はガックリときたし、雨音の言うこともよく分かる。

 

 雪菜の血縁のうち霊感のある方の祖母も、話によれば歳と共に視えなくなったとも言っていた。おかげで当時はそこまで気にしなかったが、きっとあの公園でとんでもないことが起こっていたに違いない。

 そんな経験をした雪菜には、自分の体質が大勢と同じ物になることはあれど、今以上に差異が大きくなるなんて予想は端から頭に存在しなかったのだ。ましてや、同じ体質の人と肩を並べても、違う景色を視ていただなんて──

 

 もしかしたら、公園での出来事も自分にわからなかっただけで、他の人が目を凝らして視たらなにかわかるんじゃないか。

 

「とりあえずもう一度、連れて行こうかな……」

 

 雪菜は思考を一旦やめると、勉強机の上のカレンダーに目をやってみる。そのうちの目につくように文字を入れておいた一マスを眺め、しばらく別の物思いにふけていた。

 まだ時間は十分にある。何をしようか、雪菜は口の上に手を置いて思考を巡らせた。

 

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