6「ハッピーバースデイ①」


 その日は一日中雨が降っていた。北上してきた梅雨前線が本州にかかり、本格的に梅雨入りをしたと報じられたのがつい数日前のことだった。なんでも、葬儀の日に雨が降ることを涙雨というらしい。きっと天に昇ったあの人の魂が、無念が、怨念が、無垢に漂っていた雲と溶け合って黒く濁らせてしまったのだ。

 幾千もの涙がこの世すべてのものを叩きつけ、痛烈に怨嗟の声を上げている。

 

 だから、少女は受け止めた。傘を捨て両手を広げると、大粒の水滴が瞬く間に全身を浸した。高等部に進学してまだ二ヶ月の新しい制服もとうに撥水性が失われ、雨に濡れたブラウスが冷たく肌にまとわりつく。

 もっと早くにこうしていればよかった。彼女が少女を暗い部屋から引きずり出してくれたように、少女も恐れずなりふり構わず彼女に当たりに行くべきだった。ドアをこじ開けて、手を取って苦しみの淵から攫い出してしまえたらよかったのに。

 今更こんなことをしようが、故人への手向けにすらならないことは少女も理解している。ただ、遺された少女が勝手に自罰的な感傷に浸っているだけに過ぎない。

 

 通夜は故人の親族のみで行われた。〝事〟から数日が経つものの、喪主夫婦はいまだ酷く憔悴しきった様子だった。事情が事情なだけに、故人を姉のように慕っていた少女ですらもその場に招かれてはいなかった。

 

「自殺、ですってねぇ」

「高校生の頃は元気そうだったよねぇ。やっぱり、大学で……」

「何抱えているのか分かったものじゃないわね」

 

 耳に残った葬儀場から出てきた喪服の大人たちの言葉が、けたたましい雨の音にも遮られずに耳鳴りのように反響している。滲んだ視界に彼女の名前が入った白い看板を捉えたまま、地面に広がる遺恨の澱みへ向かって根が生えたようにこの場から動けないでいる。

 喉が締め上がり、息が詰まる。明日になれば、雨が止んでしまえば、煙が上がってしまったら、彼女とこの世との繋がりが途切れたことを嫌でも受け入れなければならない。彼女が二度と少女に向かって微笑みかけてくれることはないのだと、頭では分かってる。たったの一晩二晩では感情がその事実を飲み下せないことも。

 

 憧れだった。彼女の真っ直ぐな瞳も、強すぎる正義感も、こうと決めたら貫いてしまう強靭な心も。

 しかし少女が見た彼女の最期にはその面影はなく。宙に浮かんだ虚ろな瞳が焦点も合わせずに少女を見下ろしていた。彼女の頬に遺った涙痕は少女の脳裏に焼き付いたままだ。

 

 少女が身を震わせたのは、雨に熱を奪われたからではない。生が抜け落ちた肉体を見たのが恐ろしかったからではない。少女の無力さ自体を呪ってだ。

 悔しいのは己の至らなさだ。どれだけ心のうちを憎悪に燃やそうと、誰かも知れない悪漢に、彼女の矜持を砕いたのと同等の、否、それ以上の屈辱を与えられない自分の無力さに打ち震えることしかできない。

 失意のうちに沈んだ彼女への手向けには、これ以上のことは無いというのに。恨めしい、怨めしい。何も出来ない自分が酷く怨めしい!

 

 足を浸けていた涙雨の澱みから、鞭のような影が少女の脚を絡め取ったのは直後のことだった。

 

 無音の教室で無力な少女が鎖の悪魔の声を聞いたのは、まさに運のツキであった。

 

 

 六月第二週。昨日、はるか南に発生したと報じられたばかりの台風はすでに温帯低気圧に戻ったという。梅雨入りから一週間が経過し、朝の天気予報によれば、本日は全国的に雨になるとのことだった。雪菜の暮らす地域は夕方頃には雨も止むらしい。

 

 雪菜は部活が終わるとすぐに、帰り支度を終えて学生鞄を持っていた風花を引き留めた。

 雨音の部活見学があった二週間前の公園での一件以来、風花からは以前のような休み時間や下校時の接触が意図的に避けていたものの、意外なことに今日これからの誘いを二つ返事で快諾したのだった。先週は校内見回りの誘いだったが、今回は雨音と共に件の公園に赴くといった内容であったにも関わらずだ。 

 あまりにも上手く進みすぎて面を食らっている雪菜を見て、風花は晴れやかに笑ってみせた。

 

「私が先輩のことを嫌いになるわけがないじゃないですか」

 

 雪菜が分かりやすい安堵の表情を浮かべたのはもちろんのことだった。

 

 件の公園にたどり着くと、数年前の記憶を辿る雪菜が二人を先導した。公園の周りの建築物は昔とは変わっていないものの、改めて今の景色を見てみれば何もかもが少し小ぶりに映り込んだ。近所の見慣れた景色ではあるが、しばらくぶりに眺ればいとも容易く懐かしさが滲んでくる。

 目印にしていた中央にある時計の柱も同じ角度から見ているが、記憶の中と目線の高さが違っている。

 時刻は午後四時半前、ランドセルを放り投げた小学生たちがボールを追って駆け回り、遊具の上で声をあげていた。彼らの邪魔をしないように隅へと移動して、異質な中学生三人組が横並びになって中央を眺めている。

 

「何か特別なものって感じる?」

「いいや、全く」

「まだまだ始まったばかりですから……」

 

 それから二十分ほど、結局は大きくもない公園の隅々までを注意深く観察したが、二人曰く特にめぼしい物は見つからなかったと報告を上げた。雪菜の目にも当然特異的なものは映り込まなかった。

 

「うう、ごめんね無駄な手間かけさせちゃって……」

「全てが無駄ではないよ。この場所に今現在何かがあるわけじゃないという事は分かったから」

「じゃあ昔に何があったのか、ですよね」

「まともに覚えてなくて面目ない……」

 

 雪菜はため息をついた。

 

「ごめんね、風花ちゃんの力になれたらよかったのに……」

「いいんです。先輩が私のこと想ってくれただけで嬉しいんですから」

 

 風花はそう言って微笑んでみせたものの、雪菜には気丈に振る舞っているようにしか見えなかった。今度は申し訳なさそうな視線を雨音へと向けてみるが、みなまで言う前に

 

「別に私はこれに苦労していないから、構わないよ」

 

 スッパリと一言。雨音らしいと言えばそうだが、雨音もそれなりの苦労をしているはずなのに、その言葉を聞いて俯く風花とは真逆の態度を取っていた。

 風花を横目に、なおも雨音は続けた。

 

「それで、何が起こったのかについてだけれど。その時に身体的な事は他に無かったのかい? 例えば、頭が痛かったとか、全身痛かったとか」

「うーん……痛みは無かったと思う」

「なら頭をぶつけたとかではなさそうだね。例え頭をぶつけた事が原因だったとして、私達にそれが試せるのかも問題だけれど」

「た、確かにそれもそうだね」

 

 公園中央の時計が午後五時を知らせる鐘を鳴らした。六月の日はまだ沈むことなく辺りを明るく照らし、遊びに来ている小学生たちもまだ帰り支度をする気配がない。

 せっかく風花が放課後に時間をくれたので、先日の生徒会裏日誌で判ったことなどを踏まえて情報共有を図りたかったのだが、前回話をしたテーブル席はあいにく先客の女子小学生グループが居座ったままだった。

 

 少し離れたところに周りに人が少ないベンチを見つけると、雪菜は二人を座らせて座席の確保を急いだ。

 今日のお礼に飲み物を買ってくると伝え、希望の聞き取りを簡潔に終えると走って公園の自動販売機へと向かっていった。

 

「……あのっ」

 

 雨音は雪菜の後ろ姿を見送ると、真横に座る風花に視線を移した。

 

「何かな」

「……さっき、水無月先輩は苦労していないって言ってましたよね。あれってどういう──」

 

 風花の言葉の最後を遮るようにして、雨音は即座に答えた。

 

「その通りの意味さ。私の生まれ故郷ではそれが当たり前で、だから私も少し前までは視える事が当たり前だと思っていたよ」

 

 風花が愕然とした表情を浮かべようと、雨音は止めることなく言葉を紡ぎ続ける。

 

「そういう場所もあるって事さ」

「……水無月先輩は、視える人たちに囲まれて育ったというわけですね」

「どうやら君は違うみたいだね」

「……」

 

 沈黙する風花に、それ以上の応答をしないまま雨音は口を閉ざした。

 雪菜がペットボトルを三つ抱えて戻ってきたのは、それから二分後のことだった。

 

 公園での情報共有から翌日。昨日までの雨からは打って変わり、朝から晴天が覗いていた。週末から週明けにかけても晴れの予報が続き、オレンジ色の太陽マークが画面に並ぶ様子はとても梅雨入りをしたとは思えないものだった。特に今日は最高気温が三十度に迫ると言う真夏日の予想だ。衣替えした夏用のセーラー服でも日差しが少しばかり暑かった。

 

「それじゃあまた後でね!」

 

 日課となった放課後の見回りを終えた雪菜は一人で教室から飛び出すと、足早に昇降口へと向かっていた。下駄箱からローファーを引き取ると、校舎から出たのをいいことに走り出した。

 

 日頃の行いの成果か、例え地面を捉えにくい平坦な靴底だとしても走るスピードは緩むことなく突き進む。いつものだべりながら歩いて帰る道のりは素早く景色を変えていった。

 

「いっそっげーいっそっげー」

 

 鼻歌混じりに通学路を駆け戻りながら、倍速の下校を進めていく。

 

 もう一方、見回りの直後に「帰宅後にまた会いたい」と言われた雨音はというと。

 帰ってからの予定もないので、申し出を快諾したのも束の間、即座に立ち去った雪菜の背中を見送る顔つきはきょとんとしたものだった。

 何かを貸してもらうとは話した覚えはなかったが、週末にもなるし今日中に渡したいものなのだろうと雨音は大方の検討をつけていた。

 いつもは話しながら二人で歩く道も、今日は一人での帰路になると妙に長く、静かな道中であった。

 

 帰宅後、十数分して玄関先のチャイムが鳴ると、三神家の夫人が応対する前に雨音が玄関を開けた。インターホンで用件を聞かずとも、玄関扉の磨りガラス越しに肩で息をする小ぶりな人影を一目でも見れば雨音の来客と分かる。

 

 開いた扉の先にはやはり宣言通りに雪菜が来ていた。しかし服装は見慣れない私服姿で、一度帰った際に早々に着替えてきたようだ。

 半袖の前開きパーカーを羽織り、雨音の予想通りに膨らんだ肩かけ鞄を斜めに下げている。丈の短いズボンの下には制服の黒のハイソックスがそのまま見えた。朝にも纏っていた制汗剤の香りが強くなっているので、走って帰ったのだろうことは想像に易かった。

 

「急がなくても良かったのに。とりあえず中に入ってよ。今日は暑いだろう」

 

 前回の訪問時と比べ直近になってしまったが、すでに三神夫人には来客の話はしておいた。夫人から歓迎を受ける雪菜を連れ、二週間前とほとんど変わらない質素な模様の部屋へと通すと、夫人の目を憚るように襖を閉めた。

 初めて来たときと同じ位置に準備していた折りたたみテーブルを挟み、向かいの座布団に雪菜を座らせると問いかけた。

 

「それで。帰ってからの訪問だなんて、何かあったのかな?」

 

 雪菜は雨音にニッと微笑みかけると、肩に下げていたショルダーバッグから取り出したものをテーブルに置いた。扱いの慎重さやコトリと音を立てたのを見るに、割れ物の類らしい。黄色の柔らかな包装紙の口が赤いリボンで絞られ、扇のように広がっている。その装いはまさに──

 

「お誕生日おめでとう!」

 

 雨音は少しの間きょとんとしたまま。数秒ほど遅れてもなお状況が飲み下せない様子で、自分宛と思しきプレゼントを受け取ることもせずにぼんやりと眺めたままに停止していた。様子を伺っていた雪菜にも、さすがに異変が伝わったようで不安そうな顔が覗き込んできた。

 

「……もしかして自分の誕生日も忘れちゃったの?」

「いや、そんな事はないよ。ただ意識していなかったというか、祝われると思っていなかったというか……うん、ありがとう雪菜」

 

 大きく遅れて礼を述べると、雪菜の表情もプレゼントを置いた直後の得意げなものに戻っていた。雨音も小さく息を吐くと、普段の落ち着きを取り戻していた。

 

「で。学校で祝うのは雨音そういうの嫌いかなーって思ったから、お家までお邪魔しちゃった訳です」

「それは痛み入るね。日付は教師から聞いたの?」

「いーや、雨音から。前に渡したプロフィール帳の誕生日の欄にしっかりと書いてあったよ」

「あぁ、そうだったね。成程通りで……」

「というわけでこちら誕生日プレゼントです」

 

 転校してきて二日目に同級生に自己紹介カードを書かされたことはまだ記憶に新しく、その次の週明けに雪菜の持参したカードを記入したことも確かに覚えていた。このような使い方をされるとは予想してもいなかった雨音は雪菜にテーブルの上の包みを押し出されて、ようやく包みに手を置いた。

 

「ありがとう。開けてもいいかな?」

 

 贈り主が「もちろん」と答えると、雨音は真っ赤なリボンに手をかけた。片側から引っ張っただけで簡単に口が開く。包装紙を破らないように細心の注意を払いながら、中身へと手を伸ばした。

 中から出てきたのはエアパッキンに包まれた重たい箱と、小さな平たい紙袋。外した包装紙を綺麗に長方形に折りたたむと、次にエアパッキンを剥がす。最初はテープを剥がす際に破らない様にと注意を払っていたが、一つ穴が空いてしまえば諦めた様子で手早く箱を取り出した。

 厳重に梱包されていた箱から出てきたのは、白地に暖色の花々が散りばめられたファンシーなイラストが印刷された陶器のマグカップだった。

 

「ありがとう。でも、こんなに可愛らしいと使うのを躊躇ってしまうね」

 

雨音が少し笑いながらそう言うと、雪菜は返す。

 

「こちらとしては普段使いして欲しいと思うんだよね。それで、どうかな? 気に入ってもらえたなら嬉しいな」

「勿論気に入ったさ。わかったよ。有り難く使わさせてもらうね」

 

 次に小さな紙袋を開けてみると、中にはビニール包装された台紙付きのヘアピンが二本入っていた。銀色のヘアピンの先端には、同じく銀色の星の装飾が付いている。包装の粘着テープを外し、中から型紙ごとピンを引きずり出した。

 

「そっちも雨音に使ってほしいから買ったんだけど……」

 

 雪菜が雨音の顔を覗き込みながらそう言ってきたので、雨音は型紙からヘアピンを一つ取って前髪を左側へと寄せると早速髪留めとして使用してみせた。「似合ってるよ」という合いの手がすぐに返ってくる。

 いつもとは違う感覚がこそばゆく、露わになった額からは熱が逃げていく。

 

「入ってもいいかしら」

 

 襖の向こうからの聞こえていた三神夫人の声に雨音はすかさず「はい、今開けます」と返事をした。襖を開くと、盆を持った三神夫人が佇んでいた。

 

「お飲み物、持ってきたわよ〜ってあら、可愛いピン留めね。ふふふ、とってもよく似合ってるわ。それどうしたの?」

「どうもありがとうございます。先程彼女から貰いました」

 

 雨音が盆を受け取りながら雪菜が見えるように半歩身体を避けると、夫人が姿を見せてからは正座をしていた雪菜もすぐに立ち上がった。

 夫人は開いた右手で親指を立てたポーズをとると、雪菜に向ってウィンクしてみせた。

 

「あら! 雪菜ちゃんからね。いいチョイスよ! いいわねぇ、常日頃からの贈り物ってのも。オソロってやつかしら」

「あれ、もしかしてご存知ないんですか……?」

 

 三神夫人からの意外な言葉に、つい言葉を挟んでしまった雪菜が雨音へ視線を移した。まさか居候先に伝えていないのか、と目で訴えかけてきているのがよく分かる。確かに、ここは雨音から言うべきなのであろう。

 

「今日は誕生日なんです。私の」

「えっ?!」

 

 驚きの声を漏らした夫人は続けて言う。

 

「どうして早く教えてくれなかったの! 夜までに急いでお祝いしなくっちゃ」

「その、お伝えする必要はないと思いまして」

「んもー! 必要よ、必要っ! 急いでケーキや食材買ってこないとっ!」

「すみません、ご迷惑をかけてしまって……」

「謝らなくていーの! それに、迷惑なんかじゃないんだから。お留守番頼めるかしら?」

「はい……」

 

 三神夫人はそれから、ケーキの種類や夕食の希望をも「何でも有り難い」と言っていた雨音から無理矢理引き出すと、慌ただしく家を後にしてしまった。雨音は「お気をつけて」と言って嵐の様に去っていく背中を見送った。

 

 

 

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