7「鏡像複体(前編)①」

※若干の暴力的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 男が目を覚ましたのは見知らぬ場所だった。固い地面に触れているからか、右の耳とこめかみが痛い。瞼の暗闇から突如として光の中へと放り出された眼球は瞬きの度に世界とピントを合わせることで必死だ。ぼやけの残る視界には電灯が照らし出す濁った灰色の景色が広がっていた。

 

 寝起きの脳が判断するに、古びたの建物ようだ。湿気た空気にカビ臭さが混じっている。見て取れるのは打ちっぱなしのコンクリートの壁と同じ色をした床、おそらく窓がある場所には木材が打ち付けられている。視界の左側に入り込む蛍光灯の灯りが眩しく、外からの光は見て取れない。

 明らかに人が住むためのものではない簡素な造りからして、倉庫か物置だろう。

 次に気がついたのは、自分の両腕が後ろ手に縛られていることだった。冷たいコンクリート製の床に横たわっていた身体が軋むように痛み、胴と床とに挟まれた右腕の感覚が無くなっていた。

 腕を広げようとすると、痺れた左腕の手首にチクチクとした鈍い痛みが走るのと共に、金属の擦れ動く音が響いた。音で予想するに、けして細めの鎖ではなさそうだ。力で抜けられそうもない。

 

 男はここに来るまでの直前の記憶を辿ってみるが、頭をぶつけたのか、混乱からなのか記憶が混濁してそれと思しきものを探し出すことができずにいた。

 男はこのような状況は初めて経験するが、人の怨みを買うような〝思い当たり〟は片手で足りないほどにはしてきた。その自覚はある。

 ただ、男がこれまでに犯してきた罪の中で、ここまでのことをしでかす輩を敵にした思い当たりは無かったのだ。

 男が標的にしたのは、力で捩じ伏せられる動物のみだ。腕力と権力とで服従させることのできる弱い生き物たちだけだ。だから、こんなに体格の良いバケモノを敵に回した覚えはない。

 

 男の垂直に広がる視界に、暗闇のような黒色が映り込む。ヒトの脚のようだった。光を反射しないそれは立体感が掴めず、本当に質量を持ってそこに有るのかも不可思議な影だった。

 左側に伸びていくそれをなぞる様に軋む首を回すと、太い足腰が見えてくる。驚くべきことに服を何も纏っていないそれは、おおよそ男性の身体を模した影であった。男よりも太い胴と腕を持つそれには首から上が無かった。

 

 恐ろしい夢を見ているようだった。ゲームの中のクリーチャーが液晶の向こう側へ侵攻してきたようで、まるで現実味に欠ける。

 少なくとも男には、筋骨隆々の首無し影を今まで見た記憶も経験も一切ない。バケモノとの因縁なんて持っているはずがなかった。

 呆けた面をした男の胸ぐらを影の太い腕が掴み上げると、寝ていた男の身体が首を起点として宙に浮かんだ。常軌を逸した力に服ごと喉を絞め上げられ、首元で糸が切れる音がブチブチと耳に入ってきていた。何も言わない首無し影は男を持ち上げたかと思えば、ゴミを捨てるかの様に軽やかにコンクリートの壁に向かって男を容易く放り投げた。

 

 頭の裏側で火花が散る。後ろ手にされた肩に強い衝撃が走り、手首に回された鎖がガシャン音を立てながら腰骨に打ち付けられた。叩きつけられた痛みも感じ切る前に、受け身も取れずに顔面からコンクリートの床に落ちていく。ゴンと鈍い音が頭蓋に響いた。

 呻きながらうずくまる男の肩を首無し影が掴み上げ、こじ開けるように無理やり上体を起こされた。男の額から滴る鉄臭い液体が目に入り込み、痛みで滲んだ視界が赤く染め上がる。身体の節々から感じる痛みと恐怖に目を強く瞑るが、より強い力が瞼をこじ開けた。

 男の瞳に強制的に映し出された真っ赤な光景の中で、指先ほどの細い影が眼前に迫ってきていた。

 

 

 踏切での一件から週が明け、雪菜ゆきな雨音あまねの二人は見回りのルーティンの他「悪魔様」に関する情報収集に力を入れていた。生徒会裏日誌での根拠の乏しい宣伝的な書き込みを含めて考えても、もしかすると呪いで生徒を操り、学外にまで影響を及ぼすかもしれない存在だ。優先度を最上位に上げての捜査をしていた。

 

 千夏ちなつから再び裏日誌を借用し、直近に噂話を書き込んだ生徒たちへの聞き込み調査も行ってみたものの、やはり日誌にも書かれていなかったように「合言葉」については知り得ていなかった。それどころか、今年の話題初の書き込みをした生徒から「こんなこと書いていない」と口にされた時にはまさに嫌な寒気と共に身の毛がよだつ感覚がしたものだ。

 よくよく話を聞いてみると、どうやら生徒は千夏と同様に生徒会室へは友人を招いて入れたと証言し、裏日誌についてもおそらく友人の筆跡だと推測していた。勝手に自分の名前を使って記入したのだろうという。

 しかしその疑わしき友人にも話を聞くと、前半の内容は確かにその生徒自身が綴ったものと確認が取れたが、後半の「悪魔様」に関する記述は見覚えもなく、おそらく誰かに付け足されたのではないかという話だった。

 筆跡を真似た他人が追加で書き込んだという線もけして捨て切れないが、そのような器用な人材も限られるし、手間をかけて得をする人間も雨音の予想していた〝「悪魔様」を流布したい連中〟のみであろう。

 

 その一方、千夏が「合言葉」の存在を聞いたという〝別の経由〟の同級生に話を聞いてみたものの、本人は存在があるという情報のみを又聞きしただけで、呪文の一文字も知らないという。ならばその情報を出していたのは誰かと尋ねてみると──

 

「一組の西川にしかわさんだったと思う。壁新聞の」

 

「なるほどなるほどなるほど、それでここに来たってわけね」

 

 親指と人差し指とで作ったVサインを顎に当てて深く頷きながら、春香はるかはしたり顔で笑っていた。

 放課後。雨音が転校してきて以来、二度目に来訪する壁新聞同好会の部室には先月と同様に模造紙が広がっていた。二週間後の月初に貼り出す七月号の本紙だ。まだ全ての原稿が完成していないのか、鉛筆の下書きもない空白が複数見られる。

 ニコニコと笑う春香に、長年の付き合いから雪菜は一抹の不安を感じていた。

 

「もしかして、『七月号に書くからお楽しみに』なんてオチじゃないよね」

「本当はそうしたかったんだけどねー」

 

 春香は深いため息をついた。どうやら事前に原稿を見た顧問からのストップがかかり、壁新聞の記事にはならないらしい。

 ここまで具体性のあるオカルトめいた話を貼り出すのは怖がる生徒がいるかもしれないという配慮だそうだ。壁新聞同好会顧問の藤原教諭とは授業の担当もなく直接話したことはないが、とても思慮深い教師に違いないと雪菜は思った。春香は「神経質なだけだ」と言ってみせたが。

 

「と、いうわけで記事のネタが一つボツになった訳なのよー」

「うわータイミング悪かったな。代わりのネタを出せってことね」

「さっすがユキ、話が早い! わかってるぅ」

 

 世間の流行に疎い雪菜は春香に勝る情報を基本的に持ち合わせていない。それは春香にとっても明らかなことであったし、はやり廃りの話題を雪菜から得られるなんてことは最初から期待していないのだ。

 春香から壁新聞に載せるようなネタを部外者の視点で要求されることは今まで複数回あったが、そもそも大抵のことは歴代の壁新聞部員がやってきているので、ネタ被りは大いにあり得るのだ。

 情報交換よりも難しい要求が来た。七月頭に全校生徒に「合言葉」が知れ渡るよりは遥かにマシだが、下手をすると情報の開示が三日後になるかもしれない。

 

「西川さん、この前断った話はどうだろう」

 

 雪菜より先に提案をしたのは雨音だった。断った話というのは、雨音が転校してほどない頃に春香が二組の教室まで出向いて話に来た、転校生インタビューの依頼のことだ。目立つことはしたくないと断っていた内容を、今ここで逆に提示してきたのだ。無論、春香の感触も悪くない。元はといえば自分が考えたものなのだから。

 

「転校生インタビュー記事かぁ。うーん、なるほど。転校して一月の現況か……悪くはないけど──」

「私がちゃんと通りそうなやつ考えるから、雨音はそんなことしないでいいよ」

「ユキはこういってるけど」

 

 人通りのある掲示板に貼り出されるものだ、どれだけ小さかろうと普段とは違った記事になる。万に一つも目立たない訳がない。

 たとえ知られてもいいような内容を答えたとしても、壁新聞をきっかけにしてまた雨音に好奇の目が向けられるかもしれない。それを雨音は絶対に好ましくは思わないはずなのに。

 雪菜の心配をよそに、雨音はいつもの淡々とした調子で話を進めていく。

 

「『質問も無難なものにするし、別に顔写真は載せない』のだろう。問題無いよ。ただ、その前に確認させて欲しい」

「ほいほい、なんだわね?」

「君が知ってると言うその『合言葉』、果たして本物だと証明出来るのかな」

 

 もっともな話だった。要求された確実なものを提供しても、報酬としてガセネタを掴まさたなら目も当てられない。雨音は多少の犠牲がかかっているからか、こころなしか威圧的な態度で続けた。

 

「当然君も試してみたんだろう。それとも、検証もせずに嘘を書き連ねようとしたのかい」

「そりゃまあ、書いたことには責任取らないとだからさ。試してはみたよ?」

「それで、願いは叶ったかな」

「……解釈に困っているところ。うーん、見せた方が早いなこりゃ」

 

 春香が足元にあった通学鞄から取り出したのは一枚の原稿用紙であった。

 雨音が手渡されたA4サイズの紙を雪菜も共に覗き込む。見出しの上につけられた大きな赤いバツが、筆者の勢いのある苛立ちを感じさせた。

 

×【「鏡の悪魔」に願いを叶えてもらおう】

 

 四月号で特集を組んだ七不思議に追加情報!

 なんと、四番目「鏡の悪魔」に願いを叶えてもらう方法が判明しました。簡単三ステップでお願いを叶えてもらっちゃおう。

 

 一.校舎内で鏡の前に立つ(どこでもOK)

 二.「合言葉」を唱える。

 三.願い事を言う。

 

 肝心の「合言葉」は以下のとおり。

「悪魔様、悪魔様。どうか私の望みをお聞きください。

 悪魔様、悪魔様。どうか私の願いを叶えてください。」

 また、校内の鏡でも、特に四階の鏡が好ましいとの情報もありました。

 

 なお、編集部員が「面白いことが起こりますように」とお願いしたところ、帰り道の何もないところから刺身が落ちてきました。その後にやってきた野良猫に刺身を奪われてしまいました。(添付写真/刺身をくわえた黒猫の画像)

 

 原稿を読み終わる頃合いに、筆者から感想が求められた。

 

「……で、面白いと思う?」

「うーん。食べ物を粗末にするのはいただけないけど、猫が食べたならノーカンかな」

 

 雪菜は主観的に面白くはないと判断し、雨音は出来事の評価にさほども興味がない様子で質問を質問で返していた。

 

「西川さん自身はどう思ったのかな」

「正〜直、不気味さが勝ってる」

 

 春香が言うには、刺身が落ちてきた地点付近にはそれを人の手で自由落下させられそうな高さの建物がなかったらしい。落ちてきたことを知覚した瞬間には遠方から投げられたような孤の軌道はなかったようで、近くをラジコンが通った音も姿もなかったようだ。

 

 願いが抽象的な内容というのもさることながら、「面白いこと」の結果が間違いなくこれであるならば、学生が「悪魔様」を語るイタズラを企て、人為的に実行できる範囲の不可解を演出したという線も捨てきれない。しかし、例え徒党を組んだ学生が複数人いたとしても、「鏡さえあればどこでもOK」という条件は盗み聞きに不都合だろう。

 原稿の内容が具体的過ぎると許可を下さなかった藤原顧問教諭については、雪菜も神経質という心象を頷けるものであった。四月の七不思議特集と同じような、本来であれば毒にも薬にもならなさそうな噂話だ。しかしながら、四階の方が好ましいという作法については間違いなく〝毒〟になり得ることであろう。

 

「まぁーたしかに、こっちの情報も信憑性に欠けるところだけど、『本物じゃない』ってことも証明し切れないってワケ」

 

 結果、インタビューを了承した雨音が気難しく質問内容を添削しているうちに時刻は午後五時を迎えていた。

 

 夕暮れの廊下を歩く影ひとつ。

 

 少女の人影は大きく揺らぎ、足元がおぼつかないながらも一歩一歩と廊下を踏み進める。不規則な歩みに合わせて、長いポニーテールが振り子のように揺れていた。

 赤色の斜陽が少女の横顔を照らしだす。眼鏡の金属フレームが夕日を赤く反射した。

 

 身体を壁に引きずりながら、手のついた扉を開けて転がり込む。電気の落ち、閉じたカーテンが夕暮れの赤色に染まる薄暗い空き教室であった。

 教室内には端によけるように使われなくなった椅子や机が重ねられてあり、ようやっと教室の中央までたどり着いた少女が床に倒れるのを堪えるようにして跪いた。

 少女の口をついて出たのは、たまたま耳にしてしまった噂話、その「合言葉」と表されたもの。指を絡め合わせた両手を顔の前に構えてうな垂れる姿は、さながら祈りを捧げているかのようだ。

 

「悪魔様、悪魔様。どうか私の望みをお聞きください。悪魔様、悪魔様。どうか私の願いを叶えてください」

 

 途端、辺りの空気が生暖かく感じられた。締め切られた窓からは風も通らないないはずなのに、少女を中心とした対流が生まれたかのように髪を揺らす。

 

「こんな自分が嫌いなんです。変わりたいんです。どうか私の願いを叶えてください」

 

 少女のすぐ耳元を気持ちの悪い生暖かい風が吹き抜けると同時に、少女の正面上方からくぐもった笑い声が聞こえてきた。少女以外、この四階予備教室には誰もいなかったというのに。

 驚いた少女が顔を上げ、その瞳が映したのは──

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