8「鏡像複体(後編)①」

 大禍時の教室の空に、大きな鏡が浮かんでいた。巨大な鏡面が写すのは机が整然と並べられた教室の風景でも、その上に乗って佇む鎖の塊でもない。

 鏡の向こう、錆ついたような赤黒い世界の中に、セーラー服の少女たちが四人写し出されていた。そのうちの二人の容姿はまさに瓜二つ。鏡の国から抜け出してきた鏡像のように、形には違いがない二人。

 鏡の外へと出たならば、鏡像でなくなったならば、一体誰がどちらを本物だと言えるだろうか。

 

……ヌルすぎる? 焦るなよ。腐るほどとは言わないが、まだまだ時間はあるんだからな』

 

 何重にも巻かれた鎖の隙間から突き出す、鉄錆色の大きな巻き角が一対。蹄の付いた毛むくじゃらの脚を投げ出して、鏡を覗く緑の瞳が細い月のような弧を描いていた。

 

 

 

「なんで、東宮とうみやさんが二人いるの……?」

 

 奇怪な変貌を遂げた校舎四階。暗い窓から注ぐ真っ赤な斜陽が、大気中に黒く漂う瘴気と混ざり合いこびりつく錆のように世界を照らす。留まるだけでもむせ返りそうな空気の中、学級委員長・東宮とうみやあきと瓜二つの女子生徒を今度は雪菜が馬乗りになって押さえつけながら、視界の片側では伏せていた床から上体を起こしている秋の姿を捉えていた。

 

 雪菜と東宮秋という生徒とは出身の小学校が違い、今年度に初めてクラスメイトとなったところであった。それでも雪菜が知るところ、秋には双子の片割れはおろか、上下に兄弟もいない一人っ子だと聞いていたはずであった。故に、秋の姿をした者が二人いるとなったならばどちらかが偽者であることはほぼ間違いない。

 

 先の「殺して、成り代わる」などという物騒な発言から察するに、今雪菜が押さえ込んでいる方が偽者である可能性が高いということは分かる。ただ、何故偽者がいるのだろうか。現在この学校で起きる超常現象の理由はおおよそ一つに絞れる。

 

『あはっ、色々考えているみたいねぇ』

 

 両の手首を床に押さえつけられた秋は仰向けで雪菜を見上げている。普段の秋では見慣れないニヤニヤとした表情からは抵抗の意思が計りかねた。そのため秋の完全に脱力させた腕に対し、雪菜はずっと力を込めて拘束していた。その上で、話しかける。

 

「東宮さん、分裂でもしたの。どうして?」

『んー、どうしてって言われたらそりゃぁアレよねぇ、秋ちゃん』

 

 拘束されている秋は右方に首を動かし、視線の先を自分が馬乗りをしていた秋に向けていた。

 

『秋ちゃんが願ったからよねぇ』

「違っ……! 私はこんなこと願ってない!」

 

 立ち上がるには体力の回復が追いつかず、床に座り込んだままの秋は、名指しの発言に異義を申し立てている。呼吸は段々と整ってきてはいたが、走り疲れた秋の心拍は今だ高いままだった。口で呼吸していたことと、叫んだことも重なり、張り付いた喉からは続け様に咳が出た。

 

『ふーん。なら、秋ちゃんが正しいかどうか、二人に決めてもらえばいいじゃない。秋ちゃんにはそうと思えなくても、二人には違うのかもしれないし。嫌なら私が代わりに言ってあげるけど?』

「なん……っ」

 

 反論も出来ないままに咳き込む秋。その姿を横目にもう一方の秋はニタニタと笑ってみせた。

 雪菜は咳をする秋に労りの言葉を投げながら、「東宮さん、言いたくないのなら言わなくても」と口に出すのと同時に、即座に下から『外野は黙っててよ』との普段の秋が吐くとは思えない辛辣な言葉を浴びせられていた。

 先ほど話し相手に指定したくせに外野とはなんだと雪菜が言い返す前に、頭上からカウンターが入る。

 

「君でも誰でもいいから、さっさと終わらせてくれないかな。こんな所で悠長にお喋りしている時間なんて無いのだけれど」

 

 冷ややかに言い放った雨音の手元には、秋の手から離れてすぐ蹴り飛ばしていたナイフの剥き出しの刃が光って見えた。凶器を所持していた犯人に脅しをかけているようだが、それでもなお態度を変えない様子を見るからに効果は薄いようだ。

 雨音の言うように、現在地は普段の四階と同様、長居すると健康被害が出そうな相貌をしている。しかしこの凶暴な秋を移動させるにしてもどうしたものかと頭を悩ませる雪菜をよそに、真下の秋の言葉は続いていく。

 

『ねーぇ怒られちゃったじゃない。早く挙手して発言しなよ。あーいいや私から言うね』

 

 引き続き挑発をしながらも、黙りこくっていた秋に見切りをつけるのも早く、ニヤニヤ顔から一転した冷めた顔で秋はため息をついた。その瞬間に、座っていた秋が口を開いた。

 

「変わりたい! ……って願ったの」

 

 その一言の後に続く言葉はとても細々としていて、消え入るような声で言う。

 

「自分が嫌いだから、だから、変わりたいって、願ったの……」

『言うの遅過ぎ、落第点。……はははははっ!』

 

 秋を睨みつける視線を見ながら、今度は一変した大声で笑い始めた。両手は拘束されているものの、今にも腹を抱えて笑い転げそうな大爆笑だ。笑い声に水を差すように、雪菜から一言。

 

「場所変えない?」

 

 

「何だか不思議な感じ……」

 

 整然と机が並ぶ一般教室。カーテンが開いた窓には闇が映り込み、真っ赤な光が教室を照らす。椅子に縛り付けられた秋を見て、秋がポツリとこぼした。

 

 廊下から最寄りの教室に入った雪菜たちが一番最初にしたことは、当然危険度の高い秋の拘束からだった。後ろ手にして両腕を拘束した移動の中でも、意外なことに暴れることもなく大人しく従っていた。

 直前で襲われていた秋が怯えていたこともあり、暴れないという確証もないことから引き続き拘束は続ける方針で瞬時にまとまった。

 

 後ろ手のまま生徒用の椅子に座らせ、跡の残らないように雪菜の手持ちの長いタオルハンカチと巾着袋から抜いた紐でそれぞれの腕とパイプ脚とを固定させた。

 念のために足も何かしらで縛ることも提案されたが、追加で縛るための資材もなく、三人がかりならば止められると判断して拘束は両手のみとなった。

 

 何よりも生き延びられた喜びや安心感が大きいのか、縛られていない方の秋はほうっとため息をついていた。

 

「とりあえずひと安心かな」

「まだ安心出来るような環境じゃない。緊張の糸を切るのは此処を出てからにしてくれよ」

「わかってるって」 

 

 雨音からの言葉に、雪菜は気を引き締めて答えた。襲ってくる相手の動きを封じたからといって、廊下と同様に教室の床に薄く広がる黒い瘴気がなくなったわけではない。しかしながら、やはり四階とそれ以外の階とで瘴気の濃さに違いがあることは間違いがなかった。

 

 空間が開いている教室の後方で、縛った秋の近くの椅子を適当に拝借し、それぞれが腰をかけた。

 

 一息ついたところで、目の前の珍事は一切解決していない。秋についても対処的に縛ってしまったが、同じ見た目をしているため雪菜には良心の呵責が少なからずあった。どこから手をつけたものかと考え悩んでいると、頼りになる相棒が既に行動を始めていた。

 

「変わりたい東宮秋さんに質問だけれども」

 

 いつの間にか立ち上がっていた雨音は手足の自由な秋につかつかと近づくと、秋の頭上から見下ろしながら続けた。

 

「本当に願った事はそれだけなのかな」

「ど、どういう意味……」

「『悪魔様』にしたお願いの全部を言って、という事」

「えっと、確か『自分が嫌いで、変わりたい』……だったかと…」

「成程」

 

 気圧された秋は少し身を縮こませた。雨音は秋からの返事を聞くと、今度はもう一人の秋の方を向いた。

 

「成り代わろうとしていた東宮秋さんに質問だけれども」

『ふふっ、なぁに?』

「君は本当に東宮秋さんなのかな?」

『そうよ、私も東宮秋』

「そう」

 

 雨音は淡白な短い返事をして、今度は雪菜の前にやってきた。少し屈み、「ちょっと失礼するよ」と雪菜の首から鎖付きの金の指輪を外した。『あー、校則いはーん』と揶揄する秋の方へと再び戻ると、鎖の方を持って秋の頭の上に指輪を置いた。

 

『え、なに?』

 

 数秒指輪を放置して観察してみたものの、雪菜には何も起きていないように視えていた。それは雨音にとってもそうであったようで、その後再び雪菜の首へ指輪が返却された。

 雨音は席に戻ると思案に入り、腕を組んで口元に指を当てていた。

 どうやら偽物と仮定した秋は指輪の効力が及ばない存在なようだ。この異常な空間が晴れた時にも、二人いたままなんてことはないかと雪菜は気を揉み始めたが、同時にこの空間から解放される方法が不明の今、思考を割いている場合ではないとかぶりを振って打ち消した。

 

 次に試したことは秋同士の間違い探しだった。隣に並べると危険なので、秋と秋とを向かい合うように並べて見比べてみた。

 何かしら本物であると仮定した秋との差異が見つけられたのなら、そこから攻めることも可能かもしれないと考えたからだ。

 

「こう見ると本当に双子だね」

『どっちも本人だけど?』

 

 秋の言う通り、走って乱れた髪の毛や多少の目つきの違いを除いては二人の秋の外見は酷似しており、間違いを見つけることの方が困難であるように思えた。

 縛られていない方の秋も落ち着きを取り戻した様子で、間違い探しに熱心に協力している。

 

「本当に、鏡を見ているみたい……そういえば。水無月さん、どうして私が『悪魔様』にお願いしたって分かったの。もしかして、他にもこういうこと起きてるの?」

 

 何やら解決の糸口を持っているのではないかという期待を込めた質問が飛んできた。確かに、先ほど雨音は事実確認を省いて「悪魔様」への願いごとを聞いていた。

 対する雨音はいつも通り平坦に返答した。

 

「単に鎌をかけただけさ。申し訳無いけれど、こんな事は今回が初めてだ」

「あ、そうなんだ……」

 

 落胆を隠さずに出た力のない返事だった。〝こんな事〟に雨音がどこまでの意味合いを込めたのか、少なくとも秋には現在起きている全てのことに感じただろう。異空間に迷い込んでしまったことについて経験があると言っても解決方法が告げられるわけでもないため、雪菜も黙っておいた。

 

「願いが歪んだ形で叶えられるなんてよくある話だ。それでも何かしらは願い通りの物で、中心になる軸があるはずだ。叶えられた願いの本質が分かれば、自ずと解決策も見えてくるだろうね」

「東宮さんの願いは、『自分が嫌いで、変わりたい』だっけ」

 

 雨音からの返答を聞いた雪菜は、頭の中に思い浮かんだ断片的な思考をまとめていた。

 二人の秋がいる状態こそが、既に秋自身に変化を与えているとも取れるものの、言葉で聞く限りのことが叶えられたとするには、少々認識に齟齬があると思えた。

 

 突然現れたらしい秋が〝変わった後の秋〟と仮定するならば、古い自分を排除し、まさに〝成り代わる〟という結果に漕ぎ着けようとしたのは納得のいく行為だった。しかしそれは同時に、逃げていた東宮秋こそが秋としてカウントされる本体であり、「変わりたい」という願いがまだ完遂されていないことを意味することになる。

 

 願いはこれから叶うところなのかもしれない。だが現時点でもどちらの秋が残ろうが、東宮秋という存在に少なからずの変化を起こさせることは間違いないようにも考えられた。

 自分の姿をしたものでなくとも襲われた経験をすれば、多少なり身の振り方が変わるだろう。

 

 思考途中の雪菜が秋の方へと再び視線を戻すと、縛っていない方の秋がうずくまっていたのが目に入った。秋は寒さに耐えるように、セーラー服の半袖から剥き出しになった腕をさすりながら上半身を丸めていた。

 

「──東宮さん?!」

 

 雪菜が飛ぶように立ち上がり、秋の前まで行くと立膝になって秋の目線の先に出た。自分の脚全体が瘴気に浸るがお構いなしだった。

 うずくまった秋の顔を下から覗いてみると、その表情は険しく、青ざめたものになっていた。

 

「どうしたの?!」

「なんだか……急に寒くなってきて……気分が悪いの……気持ちが悪い……」

 

 唇を震わせ弱々しく答える秋の様子を見て、雪菜はすぐに以前四階で倒れた生徒たちのことを想起していた。

 彼らの体調不良の原因〝瘴気〟が今この状況下で、昼間のそれと数倍の濃度差があることにも気を配るのが遅れていた。

 秋と合流する前に、彼女がどれほど瘴気に晒され続けていたのかは定かではないものの、雪菜が雨音から譲ってもらった指輪のお陰で感覚が麻痺していることに、改めて気付かされたのだ。

 

 雪菜は即座に胸元から金色の指輪を引きずり出して、首の後ろの金具を外すとうずくまる秋にそれを着けようとした。しかし、雨音に腕を掴まれその流れは一時的に止まってしまった。

 

「雪菜。それを着けるのなら相手が違うよ」

「は?! 何言って……」

 

 時は一刻を争う可能性だってある。雪菜が声を荒げて反論しようとすると、その言葉を遮りながら雨音は先の発言を少しばかり訂正をした。

 

「少し言い間違えたね。君がそれを渡すべきなのはそっちの東宮秋じゃないよ」

 

 雨音は指し示す。

 

「私達が縛りあげた方さ」

 

 雪菜はその言葉を聞くと、すぐに背後のもう一人の秋に向かって振り返る。そこには腕を椅子の後ろで縛られた瓜二つの秋、そして彼女の表情も今の秋にそっくりだった。

 後ろ手にされたせいで肩をさすったりうずくまったりは出来ないものの、少しうなだれて、やはり秋同様の険しい表情をしていた。

 

「君に乗られていたのと、少し前にも頭に直接付けたから、進行が遅れていたみたいだね」

 

 雨音が更に指で示す延長線上を雪菜の視線が辿った。辿った先には制服のスカートと指定のハイソックスとで覆われた秋の脚、ちらりと覗いた皮膚に注視するとすぐに異変に気がついた。

 

「脚が……」

 

 ふくらはぎまでの黒色のハイソックスから出た肌が、靴下の境界から紫色に淡く変色しているのが見て取れた。

 雪菜はすぐに目の前の秋と脚を見比べてみるが、こちらの秋にはうずくまった以上の変化が見られなかった。

 より、症状が深刻なのは──

 

 雪菜は立ち上がると、縛られている秋の方へと向かう。後ろに回り込むと、どうやら指先も段々と青黒く変色していることがわかった。

 

「気がつかなくてごめんね」

 

 

作品紹介へ戻る