8「鏡像複体(後編)③

「人間、そう簡単に劇的に変われるものじゃないよ」

 

 雪菜の秋の手を握る力は強くなっていた。

 

「変われたとしても、きっかけは小さなものだと思うよ。何かに気づいたような、そんな小さな変化なんだと思う。今すぐ変わる必要なんてないよ。そうやって、小さな一歩を重ねていけばいいんだよ」

「……私にできるかな」

「東宮さんに、おまじないを教えてあげる」

「……おまじ……ない?」

「そう、勇気の出るおまじない」

 

 雪菜は優しく微笑むと、秋から手をゆっくりと離して、自分の胸の前で強く握りしめた。瞳を閉じて、その姿はまるで何かに祈る様だった。

 

「こうね、胸の前で拳を作ってさ、ぎゅっと握りながらお願いするんだ。心の底の勇気のある自分に、『どうかその勇気を分けてください』って」

「心の底の自分……」

 

 雪菜はもう一度、秋の瞳を見て笑った。

 

「いつもさ、行動には起こせないけれど、心の中で本当はこういうことがしたい、とか思うでしょ? それでね、そう思った心の中の自分は確かに勇敢なんだよ。そんな自分の勇気を心の外に出してあげるおまじないなんだ」

「……もしダメだったら?」

「どうしてもダメだったら、自分じゃない誰かに頼ってみるのもいいかもよ。その時は私が一緒に悩むよ」

 

 再び秋の手をとって、その目を見つめて、優しい声で答えた。

 

「……赤星さんって変だよ。どうして、私なんかにそんなこと言ってくれるの……?」

「私がそうしたいと思ったから、だからこういうことを言うんだよ」

 

 それからの秋は雪菜にしがみついてただただ泣きじゃくった。その泣き声は教室の外にまで漏れるほどであったが、数分泣き続けると疲れからそれも収まった。

 

「あーぁ。みっともないところ見せちゃった……でもスッキリした」

 

 目を少し赤く腫らした秋がスッと立ち上がり「もう下校時刻だから帰らないとね」といつも通りの委員長的な振る舞いをしてみせた。

 

 

 西の空に沈んでいく夕焼けの赤色が、東の空からの夜色に侵食されていた。いくら昼の時間が伸びようが、じわりじわりと夜が近づいてくる。

 結局異空間の校舎から出られた方法は不明であったが、三人とも無事に帰路につくことができた。雪菜と雨音は秋を家まで送り届け、これから自分たちの家に帰るところとなった。

 

 夜七時を回った道には街灯の明かりが点き始め、薄暗い道を照らしていた。

 雨音は雪菜の手の平に回収していた指輪を返却していた。

 

「もう君の物なんだから、君がしっかりと持っていてよ」

「ごめんごめん、ありがとう」

 

 雪菜はすぐに首の後ろに手を回してネックレスの鎖を着けると、髪の毛が上にくるように持ち上げた。

 

「君のアレは験担ぎだったんだね」

「アレっておまじないのこと?」

「そう。何回かやっていたから少し気になっていたんだよ。話を聞いた限りなら、君にはもう必要無さそうだけれども」

「あー……そう?」

 

 雪菜がおまじないを意識的に行使する機会は事実少なくなっていた。ここ一ヶ月の中だけでも、無意識の中で拳を作ってしまうことが数度あったが、既にルーティンとして身体に染みついた挙動であり、おまじないとして実行したわけではなかった。

 誰に教えてもらったかは既に忘れてしまっていたが、今まで雪菜が悔いのないよう選択して生きてこられているのも、おそらくはおまじない効果なのかもしれない。癖になっていることも含め、今さら手放すことは難しいかもしれないと雪菜は濁した返事をした。

 

 続けて雨音から今日の話題を切り出された。

 

「今回の件、不自然じゃなかったかい。東宮さん本人が言っていたように、彼女には強い自殺願望なんて無かったとも思うんだ」

「だから『悪魔様』の力で生霊を生まさせられたんだよね」

「普通、いくら願われようが他人の為にこんな大それた、回りくどい事はしないよ。採算が取れないはずだ」

「嫌がらせ命ってこと?」

「……そうかもしれない」

 

「マジ?」と明らかに渋い顔をした雪菜に、雨音は少し笑ったような息を漏らしたが、すぐにいつもよりも真剣な面持ちへと戻した。

 

「ずっと、何かを試している様に思う。見せびらかしているとでも言うのか。殺さない程度に、痛ぶるような……ここまで来ると、恐らく何らかの制約があるんだと思う」

「叶えられる願いじゃ生徒は死なせられないってこと? ウソウソ。まだ死人も行方不明者も出てないけど、私も雨音も他の子もめっちゃ死にかけてる」

「今、生きてるだろう」

 

 夜に沈みゆく道の上、街灯に照らされた雨音の表情は、雪菜の目には確かに微笑んだものとして映っていた。見慣れない顔に見つめられた衝撃で、思わず否定以外の言葉も失ってしまった。

 無言になった雪菜の目の前をヒラヒラと雨音の手が通った。「聞いてる、聞いてる。うん、生きてる」と返事をして話に戻る。

 

「……今回の件、相手の出方を見たけれど。恐らく『悪魔様』には人の魂を裂く力があると考えていいね。悪魔は人の魂を食らうらしいから、摘み食いでもされそうな気がしないかい?」

「つ、つまみ食い?! 何それめっちゃ怖いじゃん!?」

「可能性の話だけれどもね」

「寿命が縮みそうだぁ……っなんで笑っていられるかなー」

 

 慌てふためく雪菜を見て、雨音はくつくつと笑ってしまっていた。「ごめんごめん」と謝る雨音を見ると、雪菜は「こんなことで笑わないで欲しい」と少しだけ頬を膨らませていた。

 

 夏至まであと三日。一番日が長い一日を終えたら、今度はまた勢力を取り戻すように夜の時間が侵食してくる。校舎に巣食う魔が、本来の力を取り戻しつつあった。

 日に日に濃くなる瘴気も、敵の存在も、何一つとして取り除けていないまま。

 救いの春が終わり、魂の夏がやってくる。

 

 

 六月二十八日朝刊。三面記事より抜粋。

 

「男性意識不明重体 暴行事件か」

 ⬛︎⬛︎署は二十七日、警察署前に置き去りにされた二十代男性一名を二十六日未明に保護したことを明らかにした。被害男性は現在意識不明の重体であり、全身に打撲等の外傷があることから、⬛︎⬛︎署は暴行事件とみて現在調査している。

 

 

 

 

 秋の生霊事件からしばらく経ち、月が変わって七月になった。三十度を超えた真夏日はまだ少ないものの、雨に降られたら寒さよりも蒸し暑さを感じるようになっていた。

 

 六月下旬の曇天の中、濃くなる一方の瘴気によって、四階の体調不良者累計記録は更新され続けていた。

 「悪魔様」からの〝嫌がらせ〟らしいことは起きていなかったものの、どこからか噂を聞きつけた生徒が四階の鏡の前で「合言葉」を実行している姿を雪菜あちは複数目撃していた。

 聞き耳を立てるのも申し訳ないと思ったが、明らかに危険な要求を耳に入れた際には奪衣婆のごとく願いの主に襲いかかる──ことはできないので、対象者と思われる人物にすれ違いざまに肩を少しぶつけて呪い落としを試みるなどの地道な作業をしていた。

 幸いなことに、六月の間では行方不明者等の情報は雪菜たち生徒の耳にはまだ入ってきてはいなかった。

 

 七月に入ると、雪菜は連日酷い寝汗をかいて起き抜けから消耗していた。

 雪菜にとっては例年のことではあるが、七月中旬に差しかかると規則正しくこれが止まるので、心当たりはないが心因性の何かであると予想を立てていた。今年は雨音から預かった指輪があったので、外部から受けた悪い現象ではないと多少の裏付けが取れたのはありがたかった。しかしながら、秋の件と同様に自分の内側の問題は指輪では解決できない。

 就寝時と起床時との水分摂取を怠らないことだけを気をつけて、平常時よりも少ない距離をゆっくりと走る生活が続いていた。

 

 土曜日の今日、雪菜は夕方の土手をひとり歩いていた。母から突発的に頼まれた夕食の材料の買い出しを終え、レジ袋を一つ抱えてあとは家に帰るだけであった。

 通り道の途中、雪菜は前方に見慣れた背丈の少年の姿を捉えていた。運動部員特有の短い頭髪に、見覚えのあるキーホルダーの付いた白地のエナメルバッグ。制服のズボン下には汚れたスニーカーが覗く。

 後ろから声をかけてもよかったが、人違いだった場合の気まずさを回避するため、雪菜は歩行速度を速めて少年の後方左側へと回り込む。

 少年の顔を間違いなく横から確認すると、肩を叩きながら声をかけた。

 

「おっす、ダイちゃん。部活帰り?」

「おーユキじゃん! だからダイちゃんはもう止めろって言ってんだろ」

 

 挨拶代わりのからかいに、少年は笑いながら雪菜を小突いた。

 少年は雪菜と幼稚園からの幼馴染の一人であり、名を落合おちあい大地だいちという。小中と同じ学校に通い、直近の中学一年生でも同じクラスだった。第二学年となった現在では、雪菜は二組、大地は三組に所属している。家が近所であることから、一組の春香はるかとも家族ぐるみで親交が深い男子生徒だ。

 ダイちゃんというのは大地の昔からの愛称だった。ちゃん付けの愛称を大地本人が小学生高学年になるにつれ嫌うようになり、それを言葉にしていたので、もちろん雪菜も普段は大地と呼んでいる。

 

 二人は合流すると歩みを止めることなく、並んで久しぶりの会話を楽しんでいた。

 クラスが変わってからというもの、運動部文化部の生活時間の違いもあり、校内で姿は見かけるもののタイミングが合わずにめっきりと話さなくなっていた。

 大地との会話は昔から漫画やテレビゲームの話題が多かったが、久しぶりに話すとなると世間話の方が入りやすい。

 

「土曜も練習かーやっぱり運動部は大変そうだなぁ、文化部でよかったよ」

「お前みたいに毎朝走ってるやつを文化部だといえるのか?」

「所属の問題だから関係なくない? こっちのは趣味だし」

「あーそれもそうか。体育会系ってやつだな、ユキは」

「それもちょっと違くない?」

 

 進行方向と、目線を上げて大地の表情とをちらちらと伺いながら、他愛のない話を展開していく。共通の話題は掘り返せばいくらでも出てくる。

 

「ユキはさ、ソラとまだメールしてんの?」

「うん。多分大地よりは連絡取ってるはず。向こうの写真とかちまちま見せてくれるし」

「まーそうなるだろうな。あいつ本当にマメだよなぁ、旅行すると葉書くれるしさ。元気にやってるのわかって嬉しいしありがたいけど、こっちが返せるネタが弱くって弱くって」

「え、年賀状以外で? まって私もらってない」

「やべ。そういえばさぁ! こんな話知ってるか?」

「豪快に話逸らすじゃんか。いいよ、聞きましょう」

「心霊通り魔の話。お前こういうの好きだろ?」

 

 大地が知っている中学一年生の時の雪菜ならこの手の話にも、別にオカルト好きってわけじゃない、と言いながらも多少なり興味をもった返しをしていたが、二年生の雪菜は静かに、冷静に言葉の続きを待っていた。

 思ったより乗ってこない相手に違和感を覚えたのか、大地が続きを話すのには一拍の間があった。

 

 話の概略はこうであった。

 巷の小学生の間で流行り始めている噂話「心霊通り魔かまいたち」。

 その姿を捉えたものはいないという、風の化身。痛みなく切られた傷口は痺れを伴いながら血を滴らせる。出血はすぐに止まるが痺れは三日ほど留まり続けるそうな。弱きを助け、悪さをする子どもの前に刃の風を運んでくる正体不明の切り裂き魔。

 大地の弟、あきら少年小学四年生から仕入れたそうな。小学校に広がる噂を聞くには十分な年齢であろう。そして、話を聞いた雪菜の感想はというと。

 

「……悪ガキ退治専門のアンチヒーロー?」

「中高生も切られてるらしいけどな」

 

 中高生も人によってはガキに入るんだろうな、と考えながら雪菜はまだまだ小学生の時と変わりない大地の横顔を見る。

 雪菜の推測でも、犯人の姿が見えないとなれば巷の小学生同様になんらかの心霊現象かと考えが及ぶ。

 もちろん時森の地の話ならば中学校の「悪魔様」も外せなかったが、何分学校の外。学校の七不思議である「悪魔様」の勢力が直接伸びているとはにわかに信じられなかった。

 

「ふぅん……悪さをしなきゃ狙われないんだろうし、関係ない話だといいけどねー」

「な、なんだよその目は!」

 

 雪菜からのじとりとした視線に気付くと、大地はわざとらしく少し声を荒らげた。

 

 西空から斜めに注ぐ夕日が雪菜と大地の影を進行方向の東側へと引き延ばしていた。すれ違う人や自転車、車に踏まれていく影に気がつくと、雪菜は昔読んだ漫画のひみつ道具を思い出していた。

 色んな人に踏まれてこの影もさぞや痛かろう。そんなことを考えていると実物の自分にも痛みが伝染してきそうな気がして、すぐに別のことを考えようとした。

 

「なんかあるのか? さっきから地面ばっかり見て」

「なんとなく見てただけ。……ん?」

 

 影の方ではなく、真っ直ぐと進行方向へ顔を上げた雪菜の目が捕らえたのは、道の先、対面から来る少女。

 半袖の白いブラウスの上から黒に似た紺色のジャンパースカートの制服を着た少女は、歩きながら片手でスマートフォンをいじっていた。

 

 少女は進行方向の正面と手元のスマホとを交互に見ながら、雪菜の左脇を通っていく。

 それ自体は至って普通の出来事だった。しかし、少女の身には普通じゃないことが起きていた。

 雪菜は通過する少女の動きと共に振り返り、その左腕を注視した。

 

「──!」

 

 少女の腕の皮膚からは、まるで外壁に絡むツタのような青々とした葉が生えていたのだった。

 

第八話「鏡像複体(後編)」おわり

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