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10「夢から出ずる影(後編)③」
★
時間は少しだけ遡る。
蛇に睨まれた蛙のごとく動けなくなった赤星雪菜は、かまいたちの繰り出した影の蛇に食われ、その生暖かい腹の暗闇にいた。
ほどなくして、蛇に呑まれる直前に覚えた既視感の正体にたどり着いた雪菜は独り合点をしている最中であった。
夏になると夜ごと己を苦しめる悪夢の断片を、全く関係がないと思っていたこの土壇場で掴んだのだ。
──そっか、これが夢の内容だったのか。道理で見覚えがあったはずだ。正夢……ってやつ?
などと、呑気に考えていた雪菜であったがその余裕も直後に消え失せる。
不思議なことに今まで起きてすぐにも手繰り寄せられなかった夢の記憶が、一切の光を通さない闇の中で芋づる式に次々と浮かび上がってきていた。網膜に焼き付いていたかのように鮮烈な光景が、雪菜の脳内に映写され始めたのだ。
それは──
夜の街。
闇夜を彩る社会の光が煌めいて。
「私」は高いビルの屋上からそれを見下ろしていた。
星の光を霞ませるほどの眩さに目を細めながら、目下の世界の中に⬛︎⬛︎を見た「私」は。
背後の巨大な空腹に気付けずに。
瞬きの間に、映る世界は闇に覆われた。
身に感じるそれは、
腹と背にじわりと滲む熱。
腹の中身を押しのけて皮膚を突き抜けた感覚に、後から鋭い痛みが追いかけた。
風が通り、わずかな光が一面のどす黒い赤を眼に映す。
再び闇に閉ざされると同時に、腰骨が砕け飛んだのが分かった。
ざらついた舌に絡め取られ、浮遊感があったのは腰から上だけだった。
穴だらけの皮膚を伸ばし、腹から下にあるはずの感覚が千切れ消えていく。
熱と共に中身が外へ溢れていく最中、むせ返りそうな血の香りが風に押され流れていく。
舌に押され、転がる視界の彼方向こうの光の粒に、叶わないと知りながらも手を伸ばした。
暗転。突き刺す痛みと、揺れ。血の香り。赤色。
圧迫。肋の折れる音、水音。落ちて、「私」が、広がっていく。戻されて、開いて、閉じて。
「私」は、咀嚼の度に、砕けて、つぶれて
「ぁ……」
「あ、ぁあ……ぁ…………」
──暗い
腹の周りが熱くてたまらない。脳からの神経の伝達が滞っているのだろうか、胴についているはずの足から力が抜けていく。
──こわい
呼吸が速くなる。完全な闇の中で方向感覚を失っていた。立つこともままならず、重みの増した頭から大きく前方へと軸が傾く。落ちていく。
──イタイ
膝がつき、ようやく認識したざらついた地面に顔面をぶつけまいと両手を伸ばすも、ついた両手も上手く力が入らず体勢を立て直せない。冷えた指先は血の気が失せていた。
まるで喉を空気の玉が圧迫しているようだ、吐き気がする。何故だか上手く呼吸が出来ない。いつも通りの呼吸をしようと意識すればするほどに、それはどんどん「いつも」とかけ離れていく。
苦しい、くるしい。
どうしよう、このままこきゅうできなければ。
──────死?
めまいがする、さんそがたりてないんだしんじゃう
はやくさんそをおくらなきゃ
いきがうまくできない
しんじゃう
しんじゃう
しんじゃう──!
《君は死んだりなんてしないよ》
☆
声が聞こえた。
それは耳から鼓膜を震わせ聞えたのではなく、自分の思考のような内側からの声だった。
恐怖と不安とでぐちゃぐちゃの頭の中で、その声は雪菜の全てを超越してとても透き通って聞えた。
《大丈夫、胸に手を当ててご覧》
不思議と、直前まで震え固まっていた右手が当然のように動かせた。恐る恐る自分の胸に当てる。
雪菜が声に従うと、声は続けた。
《大丈夫、大丈夫。君の心の臓はまだまだ動いてる》
冷えて痺れた手にも伝わる振動。不均一な呼吸と極度の緊張とがのしかかってバクバクと暴れ鳴る音が、内側からもよく響いて聞こえてきた。
心臓が一生に打つ鼓動の数には限りがあるらしい。そんな記憶がふと蘇る。今の雪菜にはこの振動も自分の命の砂時計が着実に減っている感覚に陥らせていた。息が詰まる。そうだった、呼吸を
《大丈夫。音をよく聴いて、君の鼓動を。ただそれだけだ。簡単だろう?》
──音……?
☆
音、音、音。
心臓の音に耳を傾ける。
激しく打たれる心音は、体内からよく聞えた。
音、音、音。
大丈夫、大丈夫と優しい声色が耳に残っていた。言われた通りに鼓動にだけ、ただただ耳をやる。それに尽くした。
全身に響いていた爆音が次第に緩やかになっていくにつれて、雪菜の不安が解けていく。末端へと滞りなく熱い血が巡り始める。
雪菜が音に集中するほど、意識を忘れていた呼吸はいつも通りの均一なものになっていた。
「雪菜!」
耳に飛び込んできた自分の名前で我に返ると、顔を上げた。聞き覚えのある声の、その主の顔があった。こわばった真剣な顔つきの中に焦りが滲んで見える。
「ぁ……あまね……」
久々に声を発したかのようなか細い声がカラカラに張り付いた喉を通った。無意識のうちに右手に込める力が強くなっていたのか、気がついた時には手は胸の前で服を巻き込むようにして拳を作っていた。
酷く疲れてぼんやりとする。闇から一気に夏の明るい空に晒された視界は日陰でも眩しく、目を細めた。
雪菜の正面、視線の先にはどんどん後ずさりをしていく影が見えた。かまいたちだ。
肩に添えられていた手が背に触れた。
「あぁよかった、呼吸も戻ってるね」
雨音にそう言われ、雪菜は初めて自分の呼吸が今までのものであると認識をした。そうしている内に、正面の影は走り去って行く。
「……雨音。私は大丈夫だから、あの子を追って。お願い」
「そういう事を言うと思ったよ」
雨音は「すぐ戻るから、安静にしててね」と残し、近くに転がっていた学生鞄を拾い上げてから、かまいたちの去って行った方角へと走り出した。
★
走り去る雨音の背中を見送り、その場に座り込んでいた雪菜はしばらくすると立ち上がって道の中央から建物の方へと少しだけ移動をした。
徐々に落ち着きを取り戻した雪菜は、先に行った雨音の現在位置も分からないため、下手に移動をするのを避けて一人ここで待つことにした。
むしろかまいたちを追った雨音が、裏までの道を覚えてちゃんと戻ってきてくれるのかを心配するくらいにはもうすっかり本調子であった。
「……雨音だし、大丈夫かな」
ポツリとつぶやいた音が妙に耳に残る。ダイジョウブ、ダイジョウブと復唱してみるが、何が雪菜の中で引っかかっているのかを思い出せない。まぁ大丈夫だろう、と大きく伸びをした。
待ち時間の手持ち無沙汰に、先ほどの出来事について考えてみることにした。
ひとまず、あの夢の正体が分かった。
自分が食べられる夢を見ていた。思い起こしただけでああなるのだ。夢であれ、当事者として経験をしたならあの寝汗も当然だ。
それにしても、どうして夏になると見てしまうのか、特異的な何かがあっただろうかと突き詰めていく。
過去のことならば、あの公園での出来事──霊視能力が一時的に弱まった件が夏だった気もしたが、それ以前にも悪夢は見ていたようにも思えた。因果関係は無さそうだ。
逆に未来のことと考えてみて、あの夢が正夢だったとしてみる。時間を取っても場所を取ってもこの裏通りとは違う、食らいつかれて視界が暗転したくらいの共通点しか見出せない。シチュエーションで既視感を覚えたのは確かだが、その他の条件が揃わなさすぎる。
それならと、最後の可能性を考えてみる。雪菜が経験をしていない、過去のことならば──
──もしかして、前世の記憶とか?
仮称前世の自分が、現代的なビルの上で食べられて死んだとは考えたくないものだ。謎の怪物、おそらく悪魔となるのだろうが、それが視認できる人物だったには違いない。
だがしかし、悪魔は魂を喰らうものでなかったかという引っ掛かりを覚えた。肉体を喰らうタイプのもいるのだろうか。遭遇は御免こうむりたいところだ。物理的に干渉されても、かまいたちの影のように視えないものには視認できないのであれば、被害の広がりも甚大なものになりそうだ。
思考が脱線していた。まとまらない頭を捻りながら予想するだけ新たな疑問を生み続ける。夢のことはひとまず置いて、改めて雪菜はまた別のことを考え始める。
元はといえば、植物のことだ。今日はこれについて確認をしに香栄野まで出向いたはずだった。けれども肝心のものは見つからずに、代わりにかまいたちを見つけてしまった。
かまいたちが此の花の生徒であったことにも驚いたが、一番は悪魔製と思しき力を存分にこちらへ向けてきたことに疑問が残る。
昨日と同じ、出会い頭の目隠しで十分に逃げおおせられただろうに、自分の正体を知られたための口封じに仕掛けてきたのだろうか。しかし、いじめっ子に制裁を加えていた心霊通り魔の犯行の手口とは明らかに違っていた。雪菜の身体には、切り傷どころか血の一滴も出ていない。
指輪の力で守られたのかもしれないが、蛇から出るのにはタイムラグがあった。大きな力を弾き返すのには時間がかかるのだろう。
そもそも、かまいたちは何故あんな大掛かりなことをしたのだろうか。手慣れた方法で手早く切りつけて、「これ以上傷つきたくなければ立ち去れ」とでも言ってしまえば済むことではなかっただろうか。
それは、かまいたちなりの正義に反していたのだろうか。雪菜だけの考察では、当然正解に辿り着けそうもない。
面も所属も割れた。いざとなればまた日を改めて突撃聴取をすることもできるだろう。もしかしたら鞄を持って追いついた雨音が友好的に何かを聞き出してくれるかもしれない。
「……友好的はないか」
今、記憶が新しい内にかまいたちに聞き出したいことをまとめておくのもいいかもしれない。雪菜は鞄からメモ帳とペンを取り出そうと手を入れると、指先に触れた硬い感触に気がついた。
「あっそうだミルクラちゃん」
ボールチェーンの付いたメタリックなミルククラウンマスコットを取り出すと、チェーンを摘んで目の前にかざした。
「どこに付けよっか、この子も考えておかなきゃ」
心なしか、雨音の手から受け取ったときよりも少しだけ重たく感じた気がした。
★
雪菜がメモ帳に質問事項を絞り出した頃、雨音が裏道まで戻ってきた。
「お待たせ。何をしているの?」
「おっ。おかえり!……どうだった?」
落ち着いた様子を見せながら雪菜はことの結果を問うた。
目前にスポーツドリンクのペットボトルを差し出されて受け取った。掴んだ途端、ひんやりとした心地よさが真夏日の屋外に晒されていた身体によく効いた。熱を帯びた首元に当てがえば、その冷たさに情けのない声が出る。
「どう、と聞かれても少し困るね。私としては君の代わりに一発殴ろうと思って行った訳だから」
「お礼参りとかしなくてもいいよ」
雨音が彼女をうまく説得するとは勝手に期待しただけで、一言も言っていなかったと思い出す。
同時に、雨音に差し伸べられた手を掴んで立ち上がった。
「直接手は出さなかったよ。途中で追いかける必要が無くなったからね」
「……それってどういうこと?」
「君の目的は、あの娘に憑いた魔を祓うことだっただろう。君に触れたのが遅れて効いたのかもしれないね。追っている内に勝手に消えていったんだ。深追いする必要は無かっただろう?」
「……そうだね。初めて見るタイプだから、色々聞けたらいいかなと思ったんだけど……」
雪菜は手の中のメモ帳を表紙へと戻した。
雨音の言う通り、一番の目的が達成出来ていたなら良しとすべきだ。この街に住んでいるのなら、探せば会えるかもしれない。どうしても聞きたい質問はその時に聞けばいい。
「少し気が利かなかった様だね。ごめんよ」
「いや、いいよ。それで、かまいたちはもう普通の子になったんだよね?」
「恐らくね。それでも会うつもりなら私がいる時にして欲しい」
「叩いちゃダメだよ」
「…………勿論」
妙な間が気になる回答だった。
夏の湿気を孕んだ風が日陰を涼しく吹き抜けた。まだ冷たいペットボトルのかいた結露の汗が、黒々としたアスファルトに吸い込まれていく。
じりじりと身を包む熱気と、手元からポタリポタリと滴る音に、雪菜はなぜだか懐かしさを感じていた。被ってもいない黒のキャップの、あのじとりと汗で蒸した不快な感覚が勝手に思い起こされていた。
◆
電灯の落ちた薄暗い教室には草花が生い茂っていた。
中央に鎮座する生徒用の机と椅子とが滅茶苦茶に積み上がった祭壇を、床材を押しのけて伸び続ける蔦が金属の脚を絡めとり、崩れかけの歪なまま繋ぎ留める。祭壇の横には渋い色をした木製の枠に収まったひとつの巨大な姿見が浮かんでいる。
祭壇の上に横たわっていた鎖の悪魔が、長くねじれた一対の角がついた頭を起こして胡乱げに来訪者を一瞥した。
『……お前か。アレはもういいんだ。これ以上の願いは望めなかったからな』
悪魔は再び身を倒すと、体に巻き付いた鎖がぶつかりギチギチと軋む音を出した。
姿見には夏の日差しに照らされた街を走る、短い三つ編みをした制服の少女が映し出されていた。少女は後方をちらりと確認しながら走っている。
『あぁ。持たせていた力が祓われたからといってどうということはないが、まさか根こそぎ持っていかれるとは』
姿見の中の景色が変わり、駅前が映し出されたところで鏡に亀裂が走った。映像はプツリと途切れ、割れた鏡面が悪魔を乱反射して見せた。
継接ぎの歪んだ像が舌打ちをすると、ひとりでにヒビが繋がりはじめ、再び継ぎ目のない一枚の鏡へと元通りの姿を取り戻す。
『さて、お前に朗報だ。アレが中々いい働きをしてくれてな。またいい具合に混ざったぞ』
場面は変わり、日陰から日向へと歩みを進める二人組を映し出した。その内の一人、まっすぐに前を見つめる黒髪の少女に焦点が当てられていく。
鮮やかな翠の双眸が弧を描いた。
『この忌々しい鎖が全て落ちる日は近いぞ。なぁ?』
第十話「夢から出ずる影(後編)」おわり
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