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3「視えるヒト、視えざるモノ②」
二人の合意を得て、近場の公園へと向かう。雨音には自宅を断られてしまったし、制服のまま商業施設に寄り道するのも憚られた。部室には生徒が残っていたし、浅い放課後では学内にまだ人も多い。公園なら学生がたむろしていても目に余らないだろうとの選択だった。
昨日と同じく雪菜と風花の後ろを雨音が着いていく。二人の間で交わされる会話は今日の批評会についてのことだった。雨音はやはり会話に入るつもりはなく、後ろをチラチラと見る雪菜と目が合っても口を閉ざしたまま後ろに控えたままだった。
最寄りの公園に着くと小学生たちの騒ぐ高い声が聞こえていた。夕方にしても浅いこの時間に、座って話せる場所があるかと辺りを見渡す。真っ先に目に入ったブランコは女子小学生に占拠されている。長いベンチには携帯ゲーム機を見つめて声を上げる男子小学生たちがいる。屋根付きの休憩スペースは運良く空いていた。入り口から奥まった場所にあり、遊具から少し離れているせいだろうか。正方形のテーブルを、丸太を切ったようなデザインの椅子が囲む。細かい木目の溝には砂が積もっており、同じく砂を被った座面を手で軽く払ってから腰を下ろした。
風花が雪菜の隣に座るのを見て、雨音は向かいに腰を下ろす。
雪菜はまず最初に四階に噴き出す瘴気のこと、そして一昨日起きたことのあらましを自分が理解している範囲で風花に話した。静かに頷きながら説明を聞き終えると、風花は口を開いた。
「……えっと、それじゃあつまり、やっぱり今まで通りに遅くまでは四階にいない方がいいということですよね。それで、もし襲われた時の対処は、そちらの水無月さんがいないときにはどうすれば良いんですか?」
「そこなんだよね」
二人が視線を雨音の方に向けた。
すると、雨音は会話の流れを「想定済みだった」と言うかのように、制服のポケットから小さな巾着を二つ取り出し、二人の目の前にそれぞれ一つずつ置く動作で返事をしてみせた。
「これは?」
「開けて見て構わないよ。ある種の御守りの様なものだ。もう一つは君の分だよ、橘さん」
風花と会わせることを伝えたのは今日の昼のことだったが、二つ全く同じものを用意しているとは準備が良すぎる。ここまで来る間にも何かをしている素振りは見られなかったため、自分用のものを風花の前に置いているのではと雪菜は少し不安に思い始めていた。
雨音の指示の通り、二人は巾着を手に取りきつく絞られた紐を緩めた。巾着の中には高さ二センチメートルほど、厚さ一センチメートルほどの黄色がかった乳白色の石が一つだけ入っていた。完全に色がついた石というよりは、若干の透明性を残したそれは色が混ざって濁った水晶といった方が正しいように思えた。
「パワーストーンみたいな感じかな、ちょっとひんやりしてる」
「身に付けているだけで瘴気の影響を緩和出来るはずだ。いざという時に、巾着ごとこいつを打ち付けてしまえばそれなりの効果が期待出来る」
「ぶつけるったって、小さいし難度高いなぁ……」
投石の練習をしておくべきだろうか。巾着よりかは石そのものの方が投げやすいだろうか。
手のひらに石を転がす傍らに真横へ視線を移してみると、意外なことに風花は呆けていた。
風花の巾着の中を覗き込んでも、自分の手に持つ石と全く同じものが入っているようにしか見えない。何も発さずに巾着の中身を凝視する姿に、逆に驚かされてしまう。困惑する雪菜を置いたまま、口を開いた風花の声は少し上ずっていた。
「水無月さん、これ、こんなもの……どこで売っているんですか?」
「少なくともこの辺りじゃあ、手には入らないかもね」
「……ここまでのものがあるなんて……──あッ!」
風花は突然声を上げて眩しそうに瞳を細めたかと思えば、手を雨音の方へとかざし始めた。丁度、眩い陽の下に晒された時のような、目の前に影を作るかのようだった。
対岸にいる雨音を見れば、胸元からあの金色の指輪を出していた。金色の鎖を摘み上げ、輪を宙に浮かせていた。たったのそれだけだ。どこにそんな眩しがる要素があるというのだろう。
風花の反応を確認すると、雨音は鎖から指を離した。支えるものを失った指輪はセーラー服の胸当ての中に落ちて見えなくなった。
「やはりね。そんなに視えてしまうのなら、今まで大変だったろうに」
労わるような言葉を紡ぐのは単調な声だった。
そんなに、とは一体何が視えると言うのか。雪菜はただただ置いていかれ、流れの読めない会話に困惑させられたままだった。様子を察した雨音が更に風花へと言葉を投げた。
「雪菜にも君から説明してあげたらどうかな。橘さん」
こちらを見た風花に、雪菜はつい身を乗り出して、期待の眼差しを向けてしまった。除け者にされている不安感と知らないものに対する好奇心とが入り混じった目を、取り繕うこともなく後輩に向けてしまっていたのだ。風花はうつむいて、少しの沈黙の後、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「……私には、この石も、水無月さんのそれも、光っているように見えました」
「それはその、ピカーッて発光してるってこと?」
「はい。……稀に、視えるんですよ、山の方の神社とかお寺とかで。それも、本殿の御神体とかから漏れ出ている仄かな光かとは思うんですが。この石の方が、……もっとはっきりとしたものを感じます。水無月さんの持っていたものは、その何倍も……」
山、神社や寺、いわゆる清浄と評される場所で雪菜はそのような特別と思えるような光を見た試しがなかった。電気や発光する仕組みを持たないものが光っている場面に遭遇したことも、ただの一度も経験したことがなかった。
仮に風花の言うことが現実に起きているとしたら、社で祀られるような御神体に匹敵するような、風花が目を丸めてしまうような代物がこの手の内にあるということになってしまう。
気がつくと、石を持つ右手を無意識に握り込んでしまっていた。もう一度、石を観察するためにゆっくりと指を開けていく。手の中の暗闇で光らせようと、それを見てやろうとゆっくり、ゆっくり隙間を開いてみる。覗いて、中の石を目視する。しかし──
「ただの石にしか……そっちも、ただの指輪にしか見えない……」
風花が力なく「それ、指輪だったんですね」と呟いた。ほんの一言だけでも、風花の目には指輪としての輪郭すらも捉えられないほどに光り輝いていたことが雪菜にも想像出来た。
「君はそれでいいんだよ。そんなものは視えていなくて良いものだ。視えない者だろうが、分け隔てなくそれの恩恵は受けられる。実際に一昨日、受けただろう」
「確かにそうだけど、風花ちゃんにも雨音にも視えてるんでしょ? じゃあ、視えていたら──」
──なにが悪いの?
そう、続けるつもりだった。それよりも前に、
「やめてください!」
風花の叫びが公園中を突き抜けた。自分の声量に驚いたのか、当の本人は目をしばたたせている。近くの遊具で遊ぶ小学生の視線が一瞬でこちらへと向けられ、先ほどまで聞こえていた子どもたちの喧騒が掻き消えていた。集まった視線にすくんでしまったのか、風花は肩をすぼめて、今度は蚊の鳴くような声を絞り出す。
「それ以上は、やめて……ください……」
突然のことにぽかんと口を開けていた雪菜も、消え入りそうな風花の声を聞くとすぐに我に返った。縮こまる小さな肩を見て、なにをやらかしたのか頭が追い付いてはいないものの、後ろめたい心地になってきていた。
「……ごめんね、風花ちゃん。この話はもうやめよっか」
風花は頷くや否や、すっと立ち上がり、顔を上げると笑顔を浮かべていた。いつも通りとはとても言い難いその顔を見ると、雪菜は胸が潰れるようだった。
「ありがとうございました、先輩方。今日はもう帰らせていただきますね、お疲れさまでした」
目を合わせずに早口で挨拶を終えると、一人で駆け足気味に去っていってしまった。
突然のことにまごついてしまった雪菜は、すぐに引き止められずに、小さくなっていく背中を名残惜しそうに眺めることしか出来なかった。
子どもたちの声がまた聞こえ始めてきた。少しの沈黙の後、雨音が口を開いた。
「それで、君は知りたい? 多くのモノが視えること、即ち、強い霊視が何をもたらすのか」
雨音の注釈を受け、雪菜にもようやく理解が追い付いてきた。視える、視えないはそのまま強弱に直結する事柄だったようだ。強い霊視。その響きが『大変だったろうに』、先ほどの発言と混ざり合う。
少し悩んでから、雨音の目を見て答えた。
「いいや。あの子が言ってもいいと思った時に、あの子の口から聞くことにする」
「そうかい」
雨音の瞳の中に、心なしか安堵の色が見えた気がした。
★
「ねぇ、知ってる? 『悪魔様』のこと」
「知ってる、知ってる。願い事を叶えてくれるんでしょ」
「それって、七不思議の?」
「そうそう、『鏡の中の悪魔』のこと」
「それがどうしたのよ」
「本当にいるらしいよ、その『悪魔様』」
「えー、そんなの噂に決まっているじゃない」
「それがさぁ、三組の女子が『悪魔様』にお願いして、一組の男子と付き合えたらしいんだよね」
「知ってるー! それ、■■と■■君の事でしょ」
「本当かなぁ……」
「あたしね、『合言葉』知っているんだぁ」
「なにそれー?」
「『悪魔様』を呼び出す呪文のことだよ」
「それ知らなーい! 教えて教えてぇー」
「仕方ないなぁ、特別に教えてあげる。『合言葉』はね……」
★
雨音の部活動見学から一週間が経ち、月が変わって六月になっていた。
五月下旬から連日のように夏日が続き、衣替えを今か今かと待っていた黒ずくめの時森第一中学の生徒の群れにも、薄手の白色がひらめき始めていた。
雪菜の日課にはランニングの他に、河川敷や空き地での投石練習が増えていた。的当てゲームにしてしまえば、なかなか面白いものだった。似たような大きさ、重さの石を拾っては空ペットボトルの的へと投げてみる。最初はそこらにポイ捨てされた空き缶でやっていたが、音が響いて恥ずかしかったので自宅から飲料ボトルを持参している。この暑い時期では走っている間にゴミになるものだ。
四階の瘴気の影響がもはや当たり前として扱われ始めている中で、異形との邂逅がいつ起きてもおかしくはない。身を守る弾が一つだけというのも心許ないが、元々は身につけるだけのお守りとして渡されたものだ。他にも自衛のために出来ることはないか、と雨音を問いただしてみても「立ち向かわないで、逃げることだけを考えて」と繰り返し言い諭されるだけだった。
一方の雨音は転校して直ぐと現在とで、クラスメイトに対する態度が大分ドライなものとなっていた。当人曰く、いちいち丁寧に接するのも飽きたらしい。クラスでもそういうものだと受け入れたようで、何かが起こるということも別段なく、少なくともクラス内は平和だった。
正式に写真同好会への入部を決め、必要な手続きを全て終えてしまった雨音は、本日部員として初めて部会に出席する。
授業や掃除が終わり、放課後を迎えた二人は学生鞄を持って教室を後にした。
階段を上り、例の四階へと踏み入る。ここ一週間で四階を覆う瘴気は少しずつ、しかし確実に濃くなっていく一方であった。お守りの力で脚に触れる重さは感じないが、他の生徒への影響は据え置きだ。
二人は未だにこの瘴気の発生源を特定出来ずにいた。一週間の調査の結果、優秀な相棒が言うには、どうやら秘匿されている可能性が高いらしい。四階に根元がない可能性があるどころか、もしかしたら自然物ではなく意図的に発生させられたものかもしれないという。
朝に来ようが足元は既に黒煙まみれ。飽和した瘴気は重たく広がり、日に日に下の階へその勢力を広げてしまうのではないか。この頃の様子を見ていると、そんな不安が雪菜の頭をもたげる。
「このまま下に来たら、まずいよね」
雪菜は大きくため息をついた。
原因がまだ判っていないことには、自分たちには何も出来ない。いや、特に自分は何も出来ないのだが。苛立ちや無力感がひしひしと募っていく。ふと、肩を軽く叩かれた。
「君がどうにかしなきゃいけない訳じゃない。気楽に構えていなよ」
──このままで、いいのだろうか。
★
部会が終わり、批評会が終わり、二人はここ数日と同じように校内を見回ってから帰ることにしていた。
言葉の通りに見て回るだけだ。雪菜たちが入ることが出来る範囲で床や部屋の角、天井を見回して異常がないかを確認する作業だ。もちろん、男子トイレや男子用更衣室は全く確認できていないままだ。何を根拠にしているのかは不明だが、雨音は「大丈夫だろう」と言っていた。
幸いなことに、四階以外で瘴気の噴出している箇所は今まで見つかってはいない。あるいは、隠れたナニカが水面下で勢力を広げているのかもしれないが、少なくとも目に視える範囲にはこれといった異常は見られなかった。
今日の見回りには風花も誘ってみたものの、断られてしまった。あの日以来、ばつが悪いようで風花からは避けられていた。
次の日に巾着は受け取って貰えたが、例の話が気掛かりなのか、今までより会って話をする回数が少なくなっているのを実感していた。
本日も特筆するような異常は見られず、見回りを終えると午後五時手前。雨音が転校してきた日よりも、この時間には瘴気は更に少し濃くなっていた。この校舎を自分の庭のように把握しきってしまっている様も、時の流れを感じさせた。
悪魔との遭遇はあの日以来まだない。今回も遭うことはなかった。昇降口まで辿り着くと、雪菜は胸を撫で下ろした。もう一週間と同じことを繰り返しているが、また異形に遭うことを考えるとどうしても気を張り詰めてしまう。
外からは運動部たちの喧騒が聞こえている。朝と同じく、小さな校庭では賄いきれない部活動が校内のそこいらでひしめき合っていた。
あと数メートルで校門をくぐるという段階で、不意に雪菜が立ち止まった。
おもむろに学生鞄を開くと、その中をあさり、「しまった」と声を上げた。
「筆箱! 部室に忘れちゃったみたい。雨音は先に帰ってていいよ。取ってくるね!」
見回りも済んだ、ほんの数分なら安全だろう。雨音の細腕が素早く、踵を返す雪菜の腕を掴んだ。
「待って。私も付いて行くよ。何かあったら嫌だから」
雨音の言葉に雪菜は「大丈夫」と返せずに、二人して校内へと引き返すことになった。
★
同時刻。一階。生徒会室にて。
「ごめんね、 北原さん。こんな時間まで手伝ってもらって……」
「いいんですよ、どうせ何も予定なかったですし」
時森第一中学校生徒会執行部副会長の北原 千夏 は広げていた資料の一覧表を片付けながら、そう返事をした。
「いやぁ、北原さんが手伝ってくれたおかげで、今日中に片付けることが出来たよ。ありがとう」
先代までの杜撰な管理が行われていた文書棚は、紙製のフラットファイルが並ぶスッキリとした佇まいになっていた。面倒な作業を先延ばしにすると、いつの間にかやるタイミングを逃してしまうものだ。行事がないこの時期に、生徒会では一念発起して謎の段ボールの解体作業が行われていた。昨年の十月に生徒会に入ってからこの棚の存在は異彩を放っていたが、それも今日で終わりだ。
千夏は大きく伸びをすると、「よしっ」と一言呟く。姿勢を正して、目の前の男子生徒へと声をかけた。
「では、 渡辺 先輩は戸締まりお願いしますね」
「了解したよ。お疲れ様、北原さん」
「お疲れ様でした」
千夏は生徒会室を後にすると、二階にある二年二組の教室へと足を運ぶ。外からは運動部の掛け声が聞こえてきているが、校内の生徒は非常に少なくて静かだ。これが冬場なら夜のような暗さにおっかなびっくりとしているところだが、もう夏が到来している今ではまだ昼間のような明るさが廊下を照らしていた。
教室の引き戸は閉まっていたものの、鍵は開いたままで中に生徒は一人も残っていなかった。中途半端な時間帯の方が人がいないようだ。
部活動に出ている生徒たちの私物は残ったままなので、千夏も直前の例に沿って戸を閉めた。貴重品の管理は各自で行うため、下校時間前に教室が施錠されているのは教室内に生徒が残っている場合が多い。公共の場を私物化するのはあまり褒められた行いではないが、校内で内緒の話をするなら鍵をかけた教室ほど最適な場所はない。
千夏は自席の荷物を取ると、いつもの様に教室の外に出て、入ってきた時と同じように再度引き戸を閉めた。あとは階段を降りて、下駄箱のある昇降口を目指すだけだ。
夏はいい。生徒会の活動が長引こうが、まだ日のあるうちに帰れる。夏至前の空は夕方の五時でもまだ昼間の様に明るい。人がいない校舎を歩くのも暗い中よりも、明るい方がずっとずっといい。
帰ったらまず何をしよう。今日はもう疲れたし、夕飯まで一眠りしてしまうかもしれない。
千夏は家に着いたときの想像を膨らませながら、階段を降りていく。ぼんやりとしてしまったせいか、思っていたよりもまだ終わりの一階に着かない。二度目の踊り場を抜けて、もうしばらく降りてみる。防火扉が見えてきた、下の階に辿り着いた。……まだ、下がある。
おかしい。まさか、そんなはずはない。
階段から最寄りの教室へと駆け寄る。中空に付けられたプレートを確認するとすると、そこは二年一組。即ち──
──二階だった。
第三話「視えるヒト、視えざるモノ」おわり
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