4「消えたあの子とワームホール

 六月初旬、午後五時過ぎ。

 校門から引き返して来た雪菜たちは、まず職員室に赴いていた。今の時間帯なら、瘴気が蔓延した四階に残っている部員はいないことが予想できたし、実際に顧問の教員まで部室の鍵は返ってきていた。事情を説明すると、「あまり長居するなよ」と一言添えて顧問はすぐに鍵を手渡してくれた。無論、二人だってそのつもりだ。

 

 再び四階廊下まで舞い戻ってみれば、部室扉の小さな窓ガラスからは点灯した蛍光灯が見えるではないか。規則通りに鍵を戻す割には詰めの甘いことをする。もしや、鍵も閉め忘れているのではないだろうか、と雪菜は戸を引いてみた。

 

「あっぶな……」

 

 当たりだった。思考が口から漏れてしまった。戸締りを怠っていることが教職員にバレたら大目玉を食うところだ。食うのは恐らく部長の醍醐になるだろうが、一週間ほど活動日以外の部室使用禁止を言い渡される札付き同好会になってしまう。

 最後に部室にいたのは誰なのだろうか。顧問に鍵の返却人を聞き出せば分かることだが、次の部会の際に再三の注意すれば問題ないだろう。忘れ物をしてむしろ正解だった気がしてきた。

 

 部室に入り、机の上を確認しても筆箱は見当たらない。部会の時に座っていた席の荷物棚の中から無事に目的の筆箱を見つけ、すぐさま自分の学生鞄にしまいこんだ。

 

「見つかった?」

「うん、バッチリ。後は電気消して鍵閉めて職員室だね」

 

 雪菜は廊下に出る雨音を追うようにして出入り口まで戻ると、電灯のスイッチに手をかけた。

 

 パチッ  ──ポトッ カラカラカラ

 

 電気を消すのと同時に、何かが落ちた音がした。何かをひっかけてしまっただろうか。振り返り、床を見ると白いフィルムケースが転がっていた。

 落としたままにするのも忍びないので、数歩だけ歩み寄り、屈んでケースを摘み上げた。ケースは空だったようで、なんの変哲もない軽いプラスチック容器だ。ただの一点を除いて。

 

「こんなの、今までどこにあったんだ……?」

 

 今の部員に、フィルムを好んで使う生徒なんていない。部室で先代が置いていったケースは全て処理したはずだった。その残りが今更出てきた?

 

「雪菜!!」

 

 深みに沈んでいく思考を終わらせるように、背後から雨音の呼ぶ声とガッと何かモノが当たる音が耳に入ってきた。

 音の方向を見れば、引き戸に雨音が手をかけていた。否、手のひらを押さえつけていた。半分ほど閉まった戸を無理やり開くように、手だけでは足りず、上履きで蹴り出しながら戸との攻防を繰り広げているではないか。

 

「なな何?!」

「早く出て!」

 

 出ろと言われても、戸と雨音の間に雪菜がすんなりと入れそうな隙間はもう残っていない。

 駆け寄るようにして、加勢に入って戸を押し始めると、事態がおおよそ掴めてきた。

 扉が、とてつもない力で閉じようとしている……!

 

「なんっ……だこれ! びくともしない!」

 

 唸る女子中学生と部室の戸との押し合いが続く。雪菜が全体重をかけてみても状況は全く改善しない。むしろ、雪菜がいてもいなくても変わらないのではないかと思ってしまう程の拮抗具合だ。雪菜には雨音の細腕で支える扉がここまで重いだなんて想像が追いつかない。廊下側を覗き込んでも、やはり雨音の他には誰もいない。四階には誰も残っていないのか、見物客すらもやってこないようだ。

 ──よそ見をした、一瞬の隙。

 

「危ない!」

「うわッ!?」

 

 雨音の声が聞こえるや否や、雪菜は突き飛ばされていた。他でもない、真正面に立って両手を戸につけていたはずの雨音の手が咄嗟に雪菜を押したのだ。

 予想もしない方向からの衝撃に、雪菜の体は大きくバランスを崩し、部室側に転がり出ていた。廊下側に雨音を残して、先ほどまで押さえつけていた戸は驚くほど静かに素早く隙間を潰していき、音も立てずに閉じていった。

 

「雨音……!」

 

 脚をもつれさせながら立ち上がった雪菜は戸の持ち手に手をかけて、再び開くための力を込める。今度は先ほどとは逆方向だ。ガタガタ、ガタガタと音を立てるものの一向に開く気配がない。先ほどまでの第一ラウンドから考えても、雪菜一人の力では到底不可能だろうか。

 

「雨音! そっちとこっちとで同時にやろう!」

 

 一度手を離して一歩だけ後ろに下がる。雨音とタイミングを合わせようと大声で話しかけたが、応答がない。

 

「聞こえてる?! おーい! 返事して!」

 

 廊下側で何かあったのだろうか。戸の向こうはどうなっているのだろう。戸についた小さなガラス窓を覗いても、雨音の姿が見当たらない。

 ふと、雪菜の頬を生暖かい風が撫でた。部室の窓際へと視線を移すと、数分前の昼間の明るさはどこへやら、窓ガラスの外は夜の闇を映していた。窓ガラスは開いておらず、フック状の鍵が下されてしっかりと閉まっていた。

 鼓動が早まっていく。緊張で息苦しさを覚え始めた。なるべく、なるべく平静を装おうとするが生まれた不安を潰すには今の状況はあまりにも心許ない。

 

──おちつけ、落ち着け。大丈夫、これは二度目だ。だから、最初みたいに、様子を見て、待てばいい……

 

 心臓の前で握り締めた右手は、セーラー服にしわを作っていた。自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと呼吸を整えていく。

 これ以上身の回りで他に何も起きていないことを確認して、雪菜は再度動き出す。

 

 再び扉を、そして状況を見つめ直してみる。反対側の雨音に声は届いていない。少なくともこの扉の前にはいない。雪菜を突き飛ばした際に、そのまま何らかの理由で別の場所に行った可能性が高い。

 

 ……このまま待つ以外の選択肢はないのか。再び現状を見比べてみる。初日と今日とで何が違う? 思い出せ!

 

「……暗い」

 

 先ほど消した電灯のスイッチを再度オンに切り替える。蛍光灯の回路が発するカンカンと高い音と共に部室の中が明るく照らし出された。普段と違うものがないか、目を凝らして三百六十度を一回り。潜んでいるものは見当たらない、雪菜には視えないのかもしれないが。

 ひとまずの安全を確認すると、雪菜は小さく息を吐き、右手の握り拳を解いた。

 

 また出入り口へと歩み寄り、今度は外観を観察する。いつも見ているものと相違ない。と、思っていたがよく見ると取手の真上の鍵が横になっている。雪菜がそこに触れた覚えは全くなかったが、どう見ても鍵がかかっていた。内側にいて、しかも鍵を持っている雪菜以外には絶対にかけられない鍵が。

 

 重なる不可思議現象に息を呑み、今度は戸を力一杯閉めながら鍵の取手を回した。特に抵抗もなく錠は解かれた。向こう側から開く力も伝わってはこない。

 

 息を整えて、左手にはしっかりと学生鞄を掴む。雪菜の右手が力を加えると、戸は簡単に滑り開き、やはりそこに雨音の姿はなかった。

 

 

 部室の外に出て、慎重に辺りを見回す。

 廊下の床を漂う瘴気はいつもよりも非常に薄くなっていた。暗くて見え辛いが、もしかすると薄い、というより視えなくなっているのかもしれない。雪菜は疑問を感じつつも、辺りを警戒し続ける。そして律儀に部室の電気を消して、扉を閉めて鍵をかけようとした。したのだが、鍵が入らない。鍵のプラスチックタグは確かにこの部室のもののはずだ。

 ふと、顔を上げると扉の窓ガラスの形状がいつもと違っていた。選択教室のものよりずっと大きいのだ。通常教室の窓ガラスと似たようなサイズだ。

 中を覗き込むと、先ほどまでいた写真同好会の部室は影も形もなくなっていた。代わりにあったのは、同じ規格の机が等間隔に並ぶ普通の教室の様子だった。

 

 雪菜は後退りしながら、扉からゆっくりと視線を上昇させる。扉の上のプレートには、「一年三組」と書かれていた。

 

 息を呑む。それもそのはず、一年生の教室は四階ではなく三階に集約しているからだ。

 

「な、なんで……」

 

 走って、隣の教室を覗いても同じ景色が広がる。ここは紛れもなく校舎の三階だった。

 通りで。廊下の向こう側に雨音はいないはずだ。階層がズレていたんだ。しかし、それでも、先ほどまでいた部室は今どうなっているのだろう。

 雪菜は自分の置かれた状況を理解し始めると、直ぐに階段へと走り出す。

 

 早く雨音と合流しなければ。

 階段の踊り場に着くと、手すりを掴み腕の力を加えて勢いよく駆け上がる。そのまま上りきる。

 更に上に階段が続くのを左側に捉えていた雪菜が辿り着いた景色は、先程までいた三階のものであった。

 

 

 部室の戸が一人でに閉まった後、雨音はすぐさま取手を掴んで思い切り右方向へと力を込めた。先程までとは打って変わり、スパンと大きな音を立てて戸は開いたが、しかし扉の先に雪菜の姿はなかった。

 

「ッ……」

 

 学生鞄も置いていない。電気は消えて、奥側にある窓も閉まっている。扉の前には自分がいた。呼びかけてみても返事はない。

 

 雨音はゆっくりと瞳を閉じる。

 しばらくしてから瞳を開くと、少しの沈黙の後、下の階へと下りることにした。

 

 

 北原千夏は二階にいた。

 階段をいくら下ろうが、いくら上ろうが、二階から別の階へと出ることが出来なかったからだ。

 誰かいませんか、と声を上げても返事はない。なので廊下に座り込んで、誰かが来るのを待つ事にした。

 外は突然暗くなっていて、教室にも廊下にも誰一人としていない。運動部の喧騒もまったく耳に入ってこない。静寂が辺りを支配していた。

 

 腕時計の示す時間は午後五時十五分。時間が来れば部活の終わった運動部が帰ってきて、そうでなくても警備員が見回りに来る。きっと来る。

 背中を壁につけて、膝を抱えて丸まっていた。

 あぁ、どうか。悪い夢なら早く覚めて。

 

 

 再び三階についた雪菜は、すぐさま踵を返して階段を下る。そして、再び三階へと辿り着いたことを理解した途端に階段から離れることにした。

 

 階段で階の移動はどうも出来ないようだ。

 けれども最初は四階にいたはずだ。何か三階に下りた方法が必ずある。

 雪菜は自らの行動を思い起こしてみる。自分は、部室から出たはずだった。

 

 雪菜は階段から一番近くの、一年一組の教室の扉を開けると、中に入る。後ろを警戒して、入っていた扉を閉めた。教室の中を見回し、探す。

 

「ここは何年何組だ?」

 

 雪菜は教卓の中に手を入れて、座席表を取り出す。塩化ビニール製のソフトカードケースに収まった座席表を見ると、A4サイズのプリントには「二年三組座席表」と書いてあった。

 

「二年……」

 

 座席表を教卓へ戻し、窓の外を見る。確かにいつも眺める二階の高さの景色だった。三組にはあまり出入りはしないが、見える建物の位置関係的にも相違ないだろう。

 三階から二階へと移動できた。階の移動は教室に入ることで出来るのか。

 

「よしっ」

 

 雪菜は意を決して、二年三組の扉に手をかける。勢いよく開いて外へと出た。すぐさま扉上方のプレートを確認。

 プレートには「二年一組」と書かれていた。

 

 また変わった。階層は移動していないが、出入りでも位置が変わるようだ。そうと決まれば、と一組の中に入ろうとしたその時。

 

「あっ!」

 

 階段の方から声がした。高めの女の声だが、少なくとも雨音のものではない。

 声のした方向へ向き直り、暗がりの廊下に目を凝らす。

 すると、階段付近に体育座りをしているセーラー服の女子生徒が見えた。誰かを判別するには顔がよく見えない。

 女子生徒は雪菜を見つけると、直ぐに立ち上がり、駆け寄ってきている。詰まる距離が、女子生徒の輪郭を顕にした。スラリとした長身が視界に映り込んだ。

 

「よかった! 本当に誰もいないかと思った……!」

 

 近づいてきた女子生徒も雪菜の外見を捉えたようだ。

 

「雪ちゃん……!」

「ちなっちゃん……?!」

 

 女子生徒は二年二組のクラスメイト北原千夏だった。雪菜とは一年生の時から同じクラスで、つるむグループが同じ訳ではないが、趣味が合ってよく話しかけてくれる。愛称で呼び合う程度には親しい同級生の一人だ。

 千夏とは腹を割って身の上を語り合う仲でないし、視える体質や霊感が強いだなんて話も特別は聞いた覚えがなかった。

 

「雪ちゃぁぁん! よかった……! 知り合いでなおよかった!」

「ちなっちゃん、なんでこんな所に……」

「それはこっちの台詞だよぉ!」

 

 涙を溜めた千夏が雪菜に抱き付いた。千夏はスキンシップが元々激しい方ではあるが、千夏にとって余程の不安があったのであろう、ここまで力強く身を寄せられたのは初めてのことだった。雪菜が軽く背に手を当てながら「大丈夫、大丈夫」と諭すと、千夏の腕の力が少しばかり緩んでいった。千夏を落ち着かせるように、雪菜は努めて優しい声色を出そうとした。

 

「ちなっちゃん、どうやってここに来たの?」

「……私、さっきまで生徒会のことやっててね、それが終わったから教室に荷物取りに来て、階段で一階に下りて、帰ろうとしたんだけど……」

 

 千夏の声がだんだんと潰れていく。

 

「それで、下りても下りても二階で……上っても二階で……誰とも会えないし、静かだし、暗いし、もうどうしていいかわからなくなって……それで、それで……」

 

 しゃくり上げる千夏の瞳からは涙が溢れ出てきた。

「ごめん、ごめん」と嗚咽まじりに言う千夏に、雪菜は「大丈夫、説明してくれてありがとう」と返すと、そのまま胸を貸した。

 しばらくの間、千夏のすすり泣く声が遮られることもなく二階の廊下に反響していた。

 

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