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5「水の月、雨の音②」
◯
雨の音が絶えず聞こえていた。
夜の空のかなたから黒々としたアスファルトに叩きつけられ、水滴が飛び散り、跳ね回り、踊り続けている。外灯も少ない暗がりの中、傘も差さずに佇む少年を横目に捉えていた。少年の白い学生服は夜闇に溶け込むことなく輪郭を保っているが、黒縁の詰襟と形の整った学生帽の間からは乾いているかのように跳ね広がった深い黒の髪が夜との境界を曖昧にしていた。シャンとした出で立ちで正面を見据えて、こちらを向く気配がない。
「雨」
雨粒がひっきりなしに闇夜の天から降り注いでいるが、少年の声は雑音に遮られることなく耳に届いた。
『──、────』
自分も声を発したようだが、言葉がうまく聞きとれない。水の中で聞くようなくぐもった音が耳を塞いだ。一体なんと声をかけたのだろう。
目深にかぶった白い帽子の、黒く光沢を放つつばから青白く浮かんだ少年の顔が覗いた。
こちらを振り向く彼の瞳と目が合った。冷たい月のような、金色の────
『ダメだよ。それ以上は』
◯
「わ!!」
けたたましい電子音が鼓膜を突き破るかのごとく轟音を放っていた。二つ折りの携帯電話が、丁度耳の横にきていたのだ。反射的に手で払った後にそのことに気がついた。カシャンと床に叩きつけられた電子機器は相変わらずアラームを響かせたままなので故障はしていないはずだ。
先ほど見た夢の切れ端を辿ってみようと試みたのも束の間、
「わっわっ」
アラームを止めるためにベッドから抜けようとした脚を掛け布団が絡めとっていた。危うく転倒するところであったが、なんとか片足で持ち堪えられた。アラームの音が響く中、布団を剥がしながら思案に戻ろうとしてみたが……
……。断片すらも忘れてしまった。
★
昨晩遅くからの雨で朝から冷え込んでいた。天気予報曰く、雨は再び午後から降り始めるとのことで、朝の通学路でも長傘を携えた生徒が大半であった。
夏服に変わったものの、六月七月は梅雨のせいで気温の波が大きすぎる。時森第一中学校の制服には学校指定のセーターが存在しないため、華美な色を避けるという但書付きだが、自前の上着の着用が認められている。雪菜も含め、今日も多くの生徒は校則に則り、白や黒、灰色、紺色、茶色のセーターまたはカーディガンを着込んでいた。
隣の席の雨音も今日はライトグレーのカーディガンを羽織っていた。特徴的なワンポイント刺繍が入った学生に人気のブランドのものだ。全く同じものを着ている生徒がどのクラスにも三人ほどいる。雨音の着ている制服自体が、居候先の卒業生・三神翼のお下がりらしいのでおそらくカーディガンについてもそうだろう。
授業前のホームルームの直前。雪菜は紺色の腕に抱きつかれた。昨日無事に帰ったという千夏が、いつもより少し遅めの登校時間ではあるが雪菜の座席まで元気な姿を見せにきてくれたのだ。
「おはよう、雪ちゃん!」
千夏がいつもと変わらぬ様子だったので雪菜もまた安心して挨拶を返す。今度は雨音の方を向いて同じように声をかけた。雨音は視線だけ千夏の方へ向けると、淡白に返事をした。
「ねぇ、二人とも。放課後空いているかな? 三十分もかからないからさ。ちょっと見せたいものがあるんだけど……」
「特に用事はないからいいけど。見せたいものって?」
千夏は顔をずいと雪菜へと近づけて、内緒の話をするように吐息の混じった小声で耳打ちした。
「生徒会裏日誌、ね」
★
約束の放課後。二人は千夏に先導されて一階生徒会室まで来ていた。中には先客が一名。ほとんどの生徒が朝の集会またはその他行事で一度は顔を拝んだことのある時森第一中学の生徒会長だ。
生徒会長と目が合った雪菜はすぐに会釈をしたが、雨音は真っ直ぐと背を伸ばしたままだった。
「どうも、水無月さん……」
会長から直々に挨拶をされた雨音はオウム返しのような返事をこれまた淡白にしていた。雪菜は二人に面識があったことに驚いたが、転校生というものは生徒会長とも話すことがあるのだろう。しかし二人の間に会話が続くこともなく、すぐに雨音は本題の話を千夏へ持ちかけた。
「それで北原さん、裏日誌とやらは何処にあるのかな」
「裏日誌? えっ君たち裏を見に来たの?」
「いいじゃないですか、減るものじゃないですし」
「北原さんがそう言うなら僕はいいけど……」
千夏は事前に他の生徒に対して許可を取っていなかった様子だが、会長も強く止めないところを見る分には、部外秘じみた内容が書かれている訳でもなさそうだ。もちろん、そんな内容なら現物を見せてくれることもないだろうが。
千夏は紙ファイルの背表紙が整然と並ぶキャビネットの下段の戸から段ボールを一箱引き出し、部屋中央の長机の上に持ち上げた。着地音だけでも相当な質量があるとわかる。
箱にはよくあるB5サイズのノートが平積みで隙間なく入っていた。クラスでのノート回収分は嵩があるので、単純計算でおおよそ二十冊程度といったところか。
「とりあえずこの一箱で十数年分かなー。それで、中でもそれっぽいものを朝来て若干チョイスしてみたんだけど……」
千夏はその山の上部数冊を取り、段ボール箱から机へ置いた。取り出された数冊のノートにはカラフルな付箋が貼っており、どうやら千夏がある程度の目星をつけてくれたのであろう。今朝からやったことであるならば、朝昼と相当な時間を割いてくれたはずだ。教室に来る時間が遅かったのも納得である。
「調べてくれたの? ありがとう!」
「私もちょっと気になっちゃったし。でもまぁ昨日ちょうど整理してたところだし、割と見つけやすかったけどね。さぁさ早く見ておくれやす」
ストレートに感謝されるのが照れくさいのか、千夏は少し茶化した言葉で返してきた。
取り出された八冊のノートには表紙に番号がふられ、裏日誌の通算の冊数であることが分かる。活動として表に出すものでもないのに、生徒会の生徒は生真面目な性分なのか、マメなことをするものだ。
雪菜は手始めに、一番番号が若いノートを手に取り、付箋の貼られたページを開いた。ノート自体の状態は表紙に折跡などの使用痕跡はあるものの、七年も前のものであるにもかかわらず日焼けなどの目立った経年劣化は見られなかった。ずっと段ボール箱の中にいたのだろう。まさに日の目を見ない、裏日誌の名に相応しい状態に仕上がっている。
開いた最初の見開きに、左ページ上方から視線を流した。
□
日付は七年前の十一月二十九日。
担当者、田代。
今日はいい肉の日ですね。執行部の皆さんの夕食はお肉が出るでしょうか。僕はとても気になってしまいます。今夜はぐっすりと眠れるかもしれません。
ところで、昨夜父から面白い話を聞きました。父はこの学校の卒業生で私達の先輩にあたるわけですが、そんな父が七不思議について話してくれました。
どうやら校舎が建て替わる前から既に七不思議は存在していたようで、中でもこれだけは本当だと言っていたのが鏡の中の悪魔についてでした。
父が言うに、悪魔は実在して、同級生が願いを叶えてもらったとかもらってないとか……父はビビリでしたので結局悪魔を見つけようとはしなかったようです。
そして、特筆すべきはなんとこの悪魔、無償で願いを叶えてくれるようです。
現に願いを叶えてもらった父の同級生も健康に生きているそうですし。
興味がある方は一度探してみてはいかがでしょうか?
見つけたらココで報告して欲しいです!!
□
「……探してみては、と言っても」
田代の記事は父親からの伝聞として書かれているが、聞いた内容は新校舎へと建て替わる前のものだとしてもあまりに不明瞭すぎる。「悪魔様」を探すように促すにしても、肝心の方法が一切書いてないのだ。まさか書く必要もない公然のことだとでもいうのだろうか。雪菜が一年生の時の探索ツアーではとにかく鏡のあるところに案内をしてもらっただけで、少なくとも壁新聞同好会には伝わっていなかった。
加えて同級生の叶えてもらった願いの詳細もまったくない。願いについては書けないような内容なのか、情報元も知らないのか。
「それが私が目を通した内で一番古いやつ。もしかしたらもっと前にもあるかもしれないけど」
「いや、十分だよ。ありがとう北原さん」
雪菜からノートを受け取った雨音はパラパラと付箋のページのみを広げているようだった。数秒のことであったが、それが終わると顔を上げて千夏に礼を言った。
「他の日誌も付箋の箇所だけ読ませて貰ったけれども、この最初の記事が一番火種として大きかったみたいだね」
「うっそ、もう読み終わったの?!」
驚く千夏に雨音は「勿論」と小さく返す。
七年前のノートを含め八冊あるうちの、付箋の箇所は一冊に五枚もないが、雪菜が一記事を読み終わる時間ですべて見終わるものだろうか。速読にしても早すぎるが、向かいでこちらの様子をうかがっていた会長が目を丸めているので信憑性がすこぶる増してくる。まさか、本当にパラパラとめくるだけで読み終わるのか。
「他の記事は田代の影響を受けて検証をした人達のものだったり、その人達の記事から伝染して行動を起こした人達のものだった。でも、成功例の記載は当事者自身のものとしては一切無いね」
「うん。大体そんな感じだと思う。忘れ去られても、私みたいにバックナンバー漁ったらそのうちのどれかがすぐに目についちゃう位だから。もう七年も前なのに受け継がれていってる……っていうか」
「裏付けが無ければ、それも強固な伝統ではなく一過性のものだろうね。ただ一つ、気になる点が」
雨音は付箋のついた八冊のノートを机の上に番号順に並べ始めた。読み終えた雨音曰く、一番番号の大きいものが今現在使われているノートだそうだ。違う会社の製品だがサイズの同じノートは上下を揃えて均等に並ぶ。ただし最新のノートの間には指一本分の隙間が作られた。
「ノートの消費は雑な見積りで一年一冊半程。北原さんが見繕ってくれたノートの通し番号はほぼ連番なのに、一番新しい数字の前は二つも飛んでいる」
「ここ二、三年間は生徒会の人が七不思議について書かなかったってこと?」
「私みたいに漁る人がいなかったとか」
「いや、どの世代にも知っていそうな三年生がいる筈だ。漁る漁らないの問題じゃない。そもそも『悪魔様』自体が記述するような話題ではなくなったというのが妥当か。風化したか、禁忌化したか、或いは──」
こういったグループ内の交流日記において一度出た話題は大抵の場合次の担当者が拾っていくので、付箋の間隔もおおよそ詰まっているのだ。というより、短い時間での検索のため千夏も記憶を辿って話題の塊に付箋を付けたはずだ。
雨音の言うように成功体験が一切書いていないのであれば、この裏日誌内で得られる情報も乏しいはずだ。それでも年に一回は話題に上がる鉄板のネタを出せなくなるような何かがあったということだろう。
「え? 君たち『悪魔様』について調べていたのかい? ……ひっ!」
「ほら、此処にも知っていそうな三年生が」
小さな悲鳴が聞こえ、そちらに目をやってみると少し縮こまった生徒会長が映った。彼の対角線上にいる雨音に酷く怯えているようだが、一体この二人はどういう関係なんだろうか。雨音の視線も同級生に向けるものよりは少し鋭い。
見かねた千夏がフォローに入ってくれた。
「そうなんですよ。最近流行っているそうなんです。って先輩は知ってましたよね」
「有名な話だしね、うん。初めて知ったのは僕が一年の時に三年の先輩から聞いた話かなぁ」
「何という話を?」
会長の話に少し反応した雨音は、相変わらずの少し尖ったような口調で聞いた。
「えぇと、その先輩が二年生の時に悪魔が出なくなったって……」
「出なくなった?」
「い、一年の時には出ていたらしいんだ。それが二年になってから出なくなって、噂も消えていったらしい。だから僕は安心して学校生活を送ってきたのに──」
「どうやら飛んでいる数字はその三年ほどらしいね」
聞けることは聞けたので、雨音は言葉の終わりを待たずに雪菜に話しかけてきた。彼は一体雨音に何をしたのだろう。
それにしても、「出ていた」なんて誰がどうやって確認していたのかも分からないだろうに。噂話というものは尾ヒレがついて広がっていくものなのだろう。
「三年前だったら翼さんも何か知ってるかも」
「いや、翼は特に学校に悪魔が住んでるなんて言っていなかったから多分知らないと思う」
「そっか、うーん。ひかりはそういうの視えないしなぁ……」
「みえ……?」
しまった。このまま視える視えないの話を始められると面倒なことになる。
千夏の頭にハテナが上がり始めたと察すると、強引に話を切り替えていく。
「い、いやぁー! それにしても無償で叶えてくれるなんてすごいなぁ!」
「そうだね。裏がありそうな感じもするけれど」
雪菜もその点については引っ掛かりを覚えていた。そもそも誰も何も叶えてもらっていないならば、何かを支払ったなんて応酬も存在しないのかもしれないが。
急に話を逸らされ、少し疑問を感じた様子ではあるが、千夏が付け足すようにノートの記述内容に説明を加えた。
「そういえば日誌には呪文が一言も書いてなかったね。『合言葉』って言うらしいけど」
「呪文?」
「うん。最近別の経由から聞いた噂では必要だって言ってたけど……わからないことには呼び出せないね」
「えっ、ちょっ、呼び出さないでくれよ?!」
騒ぐ会長を横に、雪菜は雨音に目配せをした。
「呪文探しもしないとかな?」
「それがないと出てこないんだったらね」
雨音より幾分も遅れて雪菜も付箋の箇所をすべて読み終えたものの、やはり雨音の言った通りの情報しか得ることができなかった。
記述者が行った行動は「鏡の前で願いを口にする」が一般的なようだった。願いの内容については記載有り無しがまばらで、叶ったという報告がないため、話題として一年単位で消えていく。しかし話題の始まりには、いつも「他人が願いを叶えてもらった」という謳い文句が来るのだ。無責任にも程がある。まるで、話題を持ち出すことの方が目的のような書き込みではないか。
他の七不思議と違い、四番目の「悪魔様」のみがもてはやされる状況というのも奇妙なものだった。三番目の図書館の呪いの本と比べれば、付随する情報が願いを叶えるとは大変魅力的ではある。鏡以外には情報が乏しいことからも、宝探しでもするかのような感覚に陥らせるのであろうか。
千夏は「また何かわかったら知らせる」と約束をしてくれた。千夏の厚意には驚かせられるばかりであったが、昨日のお礼だと告げられるとくすぐったい心地になりながらも甘えることができた。
★
生徒会室を後にして、時刻は午後四時過ぎ。ここ最近では早くに帰れている方だ。
天気予報通りに昼過ぎから降り始めた雨はまだ止んでおらず、雨傘が水滴を受け止める軽快な音が絶えず耳に入り込む。車の通る度にやけにうるさい音が空気を震わせた。おかげで晴れの日ほど辺りの人影は気にせずに話せるが、話し声も傘で仕切られた空間に反響して少しくぐもった音になっていた。
「雨音はノートの中身、どう思った?」
「『悪魔様』を流布したい連中と、それを一時潰した奴がいたことは分かった」
「潰した方についてはどう思う?」
「然程重要じゃあないね。今は居ない奴の事なんて」
雨音はどうやら、約三年の空白の方は何者かが意図的に作り出したものだと考えているらしい。期間を空けても、続けて同様の事態が現在進行形で起きているなら、〝噂の流行を塞き止めた立役者〟がいたことは推測ができないこともない。会長の証言を鵜呑みにするなら、その存在こそ〝『悪魔様』の存在を一時的に消した〟と言っても過言ではなくなってしまうのだが、果たしてそれほどの人物が都合よくいたのだろうか。
雨音の言うように、もう噂の流行が始まってしまっている今では、その存在について考えることも後回しにして良さそうだ。
「なら、突き止めるべきは噂の出どころの方かな」
「いや、出処を突き止めた所で意味は薄いね。広めようとしたのは本人の意思ではないかも知れないから」
恐ろしいことを言う。雪菜が自分の感じた違和感の中に、雨音の推測と近しいものがあったことに安堵を覚えたのも束の間。生徒が操られていたかもしれない可能性があることを包み隠さないのは雨音らしいが、思わず立ち止まってしまった。
雨音の言うことも一理ある。なんのメリットもなさそうなことで人を動かすならば、相応の報酬がいるはずだ。その人々が自身の願いが叶えられたと添えていない現状を見れば、対価としての流布ではないように思える。
二歩分前方に出た雨音が、雪菜の方を振り向いた。赤い傘が色白の肌を際立たせ、形の良い大きな目の中で、黒の瞳が雪菜を捉えている。妙にざわつく胸を押さえて、なるべく平静を装いながら会話を続けようと試みた。
「やっぱり『悪魔様』が色々な原因になるのかな」
「今の時点では何とも言えないけれど……君は呪文を見つけたらどうするんだい」
「『悪魔様』にこの状況をどうにかしてくださいってお願いする。だって無償で叶えてくれるんでしょ?」
「君、それは本気で言っているのかな」
「半分ね」
それですべてが解決するのであれば、手っ取り早い話だ。本当に存在して、かつ無償で叶えてくれるかについては懐疑的ではあるが。
だいぶ本調子に戻ってきたようで、雪菜は軽く息を吐いた。先ほどのざわつきはなんだったのかに思考を割くほど余裕はない。
「雨音は『悪魔様』を見つける気があるの?」
「君が見つけようとするなら、それを手伝うとするよ」
雪菜が再び歩みを進めると、二人並んで歩き出す。横目に見る雨音の表情は心なしか微笑んでいるように見えた。
第五話「水の月、雨の音」おわり
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