12「空蝉 春の記憶①」

 

 梅雨もまだ明けていない七月中旬。蝉の声が聞こえずとも、炙るような日差しと立ち込める湿った熱気とが否応なしに夏の到来を身体で感じさせる。

 そんな夏日であるにも関わらず、月白麻美は冷や汗を垂らしながら己がうちに渦巻く強烈な悪寒に震えていた。日差しに焼きつけられながら、立つこともままならず近場の壁にもたれかかる。その身に呪いを受けたと理解するのに時間はかからなかった。

 

 寒い、頭が痛い、吐き気がする、気持ちが悪い。

 喉元まで来てしまっていたものを溢さないよう、尊厳のために体の奥へと押し込める。

 

 先ほどまで目の前にいた人物の顔が思い出せない。酷く冷めた目をしていたことだけは頭の深くに刺さったまま、それ以外の輪郭が徐々に朧げになって消えていく。

 それの声を、言葉を聞いたはずだった。何を言われたのかが分からない。鼓膜を震わせたはずの声すらも、それがどんな音だったのかを認識できないでいる。

 

「           」

 

 今にも胃の中身を全て吐き出してしまいそうだった。脈打つ頭痛の中でチカチカと弾ける痛みの信号のように、脳裏では知らない景色が明滅していた。

 ベニヤ板で光を遮られた薄汚い廃倉庫。腕に当たるざらついた壁材が、剥き出しの冷たいコンクリートと重なる。あの日、力と共に失った記憶の断片。全ては思い出せないけれど、萎んだ胸の内に黒い感情の空気が入り込むのを感じていた。

 波のように襲いくる不調に耐え忍びながら、麻美が再び動き出すまでにはしばらくの時間を要した。

 

 

 

 数十メートルほど離れた住宅街では、小柄な少女が大きな買い物袋を肩に提げて歩いていた。

 じわりと蝕む暑さと重たい荷物が相まって額には玉の汗が浮かぶ。店内で冷やされていた身体は帰宅までは保たず、両手が塞がっても日傘を差すべきだったと後悔をし始めていた。

 道のりは残り半分をとうに過ぎていることもあり、わざわざ立ち止まって傘を広げる時間の方を億劫に思ってしまい、そのまま歩き続ける。

 

「ひかり」

 

 少女を呼び止める声が聞こえたと同時に、追いかけるようにして頭上に日影ができた。振り返ると、キャップをかぶった青年が広げた傘を差し出していた。

 

「わっ、亮くん」

 

 少女より頭ひとつ分背の高い彼を見上げる。彼にしては珍しい帽子姿が、傘の作る日陰が少女のためだけのものであると如実に物語る。

 

「随分とたくさん買ったんだね。持つよ」

「ありがとー。切らしてたものが多くて」

 

 重いから気をつけて、とすんなり買い物袋を青年に手渡し、身軽になった手で即座にタオルハンカチを取り出して額の汗を拭う。お互いに休日とはいえ約束も無しに平日のこんな道端で、しかも汗だくのまま恋人に出会うとは予期していなかった。

 

「亮くんはお散歩?」

「うん。野暮用で出たんだけど、今日もひかりに会えて嬉しい」

 

 帽子を取りながら青年が整った顔立ちを柔和に崩すと、少女もつられて微笑みを返す。

 当然のように出来上がった快晴の下の相合傘は、その下で広がる会話を長引かせるべくゆっくりと進んでいった。

 

 

『叶ったようだな』

 

 中空から突然落ちてきた鎖が床に叩きつけられると同時に、光の粒となって大気中へと舞い上がる。

 

 学生服の少年は目を丸くしたまま、目の前に突如として現れた大鏡と、そこに映り込む異形の塊を凝視していた。

 

 草食獣を思わせる大きな一対の角と、蹄を備えた毛むくじゃらの二本脚が生えているのは、自分の妹と年齢が変わらなさそうに見える子どもだった。色白の人皮と毛色の濃い獣の脚の境目は布に覆われてうかがえないが、どちらも紛れもなくの異形のものであろう。

 ヒトの上半身についたヒトらしい頭は年老いたような色の抜けた白髪ながらも、幼い顔立ちの中には鮮やかすぎる緑色の双眸が浮かぶ。

 何よりも、囚人を思わせる鎖の束に縛られたその姿が、これ以上関わってはいけない存在であると少年の警戒認識を強めさせた。

 

『おい、何か言ったらどうだ』

 

 チグハグな存在は鏡の中にふよふよと浮かんだまま、上半分の容姿を裏切らない高い声で少年へと話しかける。

 意識が現在へと戻ってくると、少年は慌ただしく姿勢を正して直角に腰を折り曲げた。

 

「ありがとうございましたっ!!」

 

 顔を上げるや否や、逃げるようにして教室を出て行く少年は図らずも悪魔から一本取ったらしい。豆鉄砲を食らった鳩のような呆気に取られた様を、直後の来訪者に見られてしまった悪魔は不機嫌そうに眉をひそめた。鏡の中に現れ出た来訪者は何事もなかったかのように話を進める。

 

「ああいう律儀な人もいるのね」

『……図々しいお前とは全く違うな』

「ヨモギちゃんだって、もったいぶって私のお願いまだ叶えてないくせに。夏休み始まっちゃうけど?」

 

 悪魔を一瞥すると、来訪者はいつものように本を出しながら催促を始めた。家で読んでろと悪魔が文句垂れようが、本を広げた日は下校時間までお構いなしに居座り続けるのだ。

 

『この忌々しい呪縛にも終わりが近い。この分だと数日中に片が付く』

「ふーん。ならいいけど」

 

 必要な言葉の応酬が終わると、来訪者は本に視線を落とした。

 週明けの時森第一中学校の夏休みまであと五日。せこせこと蒔いた噂の種が芽吹いて、ここ数日では特にハイペースに学生が悪魔の下を訪れるようになった。

 日に日に身軽になっていく身体にも実感が伴ってきた。ようやくこの地獄のような退屈から解き放たれる。そして、もうすぐ。この舌の上に──

 唾液腺から湧き出る欲を、渇いた喉へと流し込む。煩わしい鉄筋コンクリートの檻から逃れるための準備も終わりを迎えようとしていた。

 

 夏休みを目前に控えた金曜日の放課後。雪菜が麻美から謎の種が入った小瓶を受け取ってから、早くも一週間が経過しようとしていた。

 

 元の持ち主曰く、悪魔から栽培を委託されたこの植物の種は、人の身体に寄生してとりわけ悪い感情を糧に育つらしい。伐採にはこれまた悪魔由来の影の力が使われ、回収した花を悪魔へ上納していたと聞く。

 人に生やした根を無理やり引きちぎったらどうなるだとか、花が咲いた後に種はできるのかだとか、そういったマニュアルにない知識を麻美は持ち合わせていなかった。よほど従順で盲目的だったようだ。

 

 負のエネルギーを蓄えた植物が悪魔にどう取り扱われていたのかさえ当然麻美は知り及んではなかった。しかし、なんらかの方法を使い、悪魔が植物内部のエネルギーを利用していたことは想像に易い。

 悪魔には中学校内の生徒を操ることもできたはずなのに、わざわざ外部の人選を行い、他人の手を借りていたこともひっかかる。

 この件について雨音は、以前より言及していた〝なんらかの制約〟に基づいているのだと考えているようだった。

 

 影の能力を持たされていた頃の麻美は自身に種が巣食う危険がなかったため、素手で触ったりなど相当乱雑に扱っていたらしいが、雪菜たちに同じ手順が踏めるわけもなく。指輪を身につけた状態で小瓶を持っても何も起きなかったことから鑑みて、現時点で雪菜たちが簡単に処理できない代物であることは確かだ。

 

 後処理を安請け合いしたことを雪菜は少し後悔したものの、種自体を視ることのできなくなった麻美が所持している方が危険なのは考えるまでもない。

 

 容器となっている小瓶は物理的に触ることができるが、底に掘られた謎の模様と種の様子から推察するに、最悪の場合、開けて出したら元通りに戻せない可能性もある。火で炙ろうが炭にならない場合には、処分のしようがない。

 雪菜には種から知見を得るべく色々試してみたい気持ちもあったが、「現状で安定してるのであれば、妙な危険を冒すべきではない」という雨音の言で、得体の知れないうちは開封を禁じられた。

 

 今の小瓶は不本意に触れられないよう、コルク栓の上からテープでさらに密封され、おまけに緩衝材で包んでから巾着の中に納められている。

 家や部室に置き去りにして、他人が万が一にも触れないように雨音が持ち歩くことになった。

 

 そして、その雨音が「用事がある」と言って珍しく先に帰宅したのが少し前のこと。

 

 雪菜が夏休み直前の浮足だった放課後にわざわざ部室に居座っているのは、四階の見回り中に活動日でもない部室の電気がついているのを見つけたからだ。

 引退した三年生の木下元部長が机に伏している様を目撃した時には体調不良かと焦ったが、近づいてみると健康そのものだと分かり胸を撫で下ろした。

 

「このまま予備校漬けになるのも名残惜しくてさー」

 

 自分のクラス教室はと問えば、声の大きい女子達からの出て行けと催促する圧力に文化系男子一人では立ち向かえなかったという。

 

「部室なら誰かいるかなーと思ったら誰もいないのね。鍵借りてきちゃったよ」

「夏休みに四階が使用禁止になるの知ってます? よく鍵借りられましたね」

「昨日の掃除に参加できなかったので、私物片付たいです。って言ったらね」

 

 夏休みと同時に、現部室を含む四階教室の使用禁止となる旨が言い渡されたのはつい先日のホームルームでのことだった。

 昨日が夏休み前最後の活動日となった写真同好会の面々は、当日出席の部員全員で部室の清掃を行った。その場に木下もいたはずなのだが。

 夏休み中の部活動は各部の希望日数を元にスケジュール調整がされ、原則学校が指定した日時に指定された教室にて行われることとなり、弱小同好会が活動場所を追われるという事態は避けられた。

 

 原因不明の体調不良者を輩出し続ける四階の、ここ数日での変容ぶりには目を見張るものがあった。雪菜の目に映る黒霧は更に深さを増し、あまりの瘴気濃度に電子機器までもが不可解な動作をするようにまでなっていた。教室内の掛け時計は何度直そうともデタラメな時を指し示し、生徒の持つ携帯電話も電源がついているとひとりでにノイズを吐き出したりハウリングを起こす始末である。下校時間に見回りをした教職員も肌で異状を感じとれたほどで、学校側は夏休み中に詳しい調査を行うという触れ込みだ。

 しかしながら、案内文書内に「妙な電磁波が計測されている」と明記されたのにはたまげたものだった。クラス内には、本当は心霊現象なのに科学的な理由をつけて生徒の恐怖心を和らげようとしてる、と猜疑的な捉え方をしている者もいた。

 雪菜からしてみれば、見えないものが現実に作用し始めている物証が出てきただけだ。

 

 現実に健康被害が出ていることから、学校からは必要のない場合には立ち入らないようにと促されていたものの、怪電波見たさで四階に上がってくる生徒も少なくはない。

 その多くは携帯電話のスピーカーが異音を発しただけで満足して帰っていくので、訪れる生徒が増える一方で倒れる生徒数が減っている現状は四階に対する恐怖を緩和することに拍車をかけていた。

 

 呑気に四階にやってきて「早く普通に戻るといいね」などとのたまう木下も、雪菜が部室を去った後にどうなってしまうのか分かったものではない。部室の盛り塩の効果はまだあるが、廊下を飽和させる勢いの瘴気に耐え切れなくなるのも時間の問題に思えた。

 木下の帰宅を待ちながらも、雪菜はいつものように他愛のない雑談に応じていた。

 

「そういえば水無月さんは? 最近よく一緒にいるよね」

「雨音は用事があるとかなんとか、先に帰っちゃいました」

 

 思えば、雨音と初めて出会った日以来、雨音がいない放課後は初めてのことであった。

「あぁそうなんだ、また明日」と先に帰る友達に言うのは普通で当たり前なことのはずなのに。二ヶ月続いた習慣が崩れることでどうにも不思議な心地がしていた。

 

「ちょっと前は橘さんと一緒にいたよね」

 

 木下の口から出た言葉に、本当によく見ているなと驚きつつも雪菜は少し昔を思い出していた。

 

 

 赤星雪菜と橘風花の出会いは三ヶ月前に遡る。

 四月某日。新入生を迎えてから一週間ほどが経ち、桜もほとんど散り終えた頃。校舎の四階が瘴気まみれになる前のことだ。

 春が来たというのにまだ冬を引きずっているように肌寒く、短い日の時間が陰り始めた、夜の入り口での出来事。

 

 新学期が始まって間もないその日も、放課後には部活動を見学する新入生たちが多く校舎内に残っていた。しかし夕日も沈んでしまった六時近くになると文化部の生徒は活動を終えて、人気のなくなった校舎には外から運動部の掛け声が響き渡る。

 

 四階の写真同好会部室ではこの日、本来の活動日ではないものの見学希望の一年生に向けて案内を行っていた。とはいっても活動日でもないので説明することも少なく、前情報のない新入生は自前の写真も持ってきていないため批評会の体験もできない。歴代部員の過去作品などの閲覧も下校時間前にはとっくに終わってしまっていた。

 

 下校時間のチャイムがなる頃には、用事もないのに宿題や予習をしながら居残っていた雪菜が帰宅の準備を進めていた。

 切りの良い所で止めようと思っていたら思いの外手間取ってしまい、ついついこんな時間まで残ってしまっていた。任された戸締まりを終えると鍵を返却した足で下駄箱へと向かう。

 

 日が落ちた空は大分暗くなってしまっていた。昼間よりも急激に気温が下がり、肌寒さに中にもう一枚くらい着てきても良かったか、と靴を履き替えながら一人身震いしていた。

 

 学校の敷地を出ると、六時を回った薄暗い夜道には街灯が灯り始めていた。部活終わりの集団が落ち着いた微妙な時間帯には歩き回る人影も少ない。少し歩いて路地に入ってしまえば、途端に前を歩く人の数も減る。

 角を曲がったその時に

 

 ──〝事〟は既に起こっていた。

 

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