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4「消えたあの子とワームホール 

 千夏から裏日誌の書き込みを聞いた雪菜は固唾を呑んだ。七年前にもいたらしい「悪魔様」が今現在も七不思議のような振る舞いをしているらしいではないか。今まで一度だってそんなものは視たことないのに!

 

「それって、七年前からいるってこと?」

「うーん、本当にいるかはわからないかも。ただね、それには『父親から聞いた話』って書いてあったの。その人のお父さんもこの学校だったらしいのね。だから、少なくとも三十年くらい前にもいるって言われていたってことなんだと思う」

「三十……」

 

 この校舎が建て替わる前のことだ。そんな歴史のある伝承も、昨年の検証どころか噂でも少なくとも雪菜はひとかけらも実在を裏付けるものを視なかったというのに。生徒会の裏の日誌では存在するかのような記載がまことしやかにされているのだと言う。

 雪菜には視えないモノが、ずっとこの校舎に潜んでいたのだとしたら。何もいないと高を括っている中で、その根を静かに伸ばしていたのだとしたら。

 

「──ぉぉ」

 

 突然、叫び声が聞こえてきたのだ。男のものだと分かるが、何を言っているかまでは聞き取れなかった。千夏は大きく肩をびくつかせて正面の雪菜に咄嗟に抱きついた。まだ遠い、大丈夫、と千夏をなだめながらも、雪菜は先程の声に聞き覚えがあるように考えていた。

 雪菜や千夏と同じく、校内からこちらに迷い込んできてしまったのかもしれない。

 声の主と同じ階に出るかは分からないが、外の状況を確認しようと、雪菜が教室の出入り口を開いた。瞬間、脚の間を生暖かい空気が通り抜ける。視線を落としてみれば、廊下から一気に黒煙が流れ込んでくるではないか。

 

──しまった、油断していた!

 

 ついに教室の扉の向こうは四階へと繋がってしまったのだ。急いで開きかけの戸を閉めようとするも、まるで岩の様に重たくなった戸は動かすことが出来なくなってしまっていた。

 

「雪ちゃん、どうかした?」

「ちなっちゃん来ないで!」

 

 唐突に叫ぶ雪菜に千夏は怪訝そうな顔を向けた。来ないならそれでいい。

 ここは二階の教室だ、盛り塩なんて置いていない。廊下からの瘴気は遮られることなく教室へと入ってくる。千夏は雪菜が知る限りでは幽霊はおろか、瘴気すら見えないはずだ。

 

 どうする? 扉は閉まらない。廊下へ出ても、きっと階段は使えない。別の教室へ行く?

 

「どうしたの? 扉、開かない?」

「ちなっちゃん、とりあえず今はこっちに来ちゃだめ! もっと窓際に行ってて!」

 

 瞬間、這いずるような寒気が雪菜の脳髄から全身を駆け抜けた。一斉に粟立った冷たい肌が生暖かい空気に触れ、膝下の力が逃げていく。本能的に悟った。

 

 悪魔だ。悪魔がいる。

 姿はまだ視えていないが、確かにこの階にいる。

 

 どうする どうする どうする

 

 気づかれるかもしれない。千夏を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。

 今なら気付かれていない? 今なら別の教室へ行って逃げられる?

 

 早く決めなければ、考える時間は無くなっていく。入り口にしがみ付いて、こっちに来るなと叫んだ雪菜が今度は千夏に駆け寄った。

 

「今から廊下に出て、出来るだけ早く別の教室に入るよ」

「え? え?」

「理由は後で説明するから、行くよ!」

 

 要領を得ていない様子の千夏の手を引き、開きかけの戸を全開にする。開ける側へはなんとも軽快に動いてみせるものだ。廊下からは色濃い瘴気が一気に流れ込んできた。

 雪菜は怯むことなく、千夏の手を引いて教室の外へ、廊下へと出て行く。

 

 周囲を見渡して状況を確認。

 遠くに小さく影が見える。恐ろしく黒い、影そのものであった。廊下の闇を一箇所に集めて濃縮したかのような闇を遠目に見据える。悪魔とはまだ距離があるようだった。すぐさま影とは反対側へ走り、選択教室の扉に手をかけた。鍵がかかっているかは博打だった。右側へと力を込めると、止まることなく戸が滑っていく。

 

 目が、あった。

 戸の向こう、悪魔は雪菜の目の前にいた。

 雪菜とそう変わらない背丈で、真っ黒な体の闇に二つの剥き出しの眼球が浮かんでいるようだった。

 

 こころなしか、影がこちらに笑いかけた気がした。

 

 反射的に戸を閉めようと試みたが、案の定動かない。「あっち行くよ!」と一言発して、雪菜は千夏を押しながら全力で走る。

 心臓の爆音が体の中から響いてくる。胸が強く、強く鼓動を打つ。

 

 四階の一番端の教室の扉を開けて、千夏を先に押し込んでから自分も入る。取手を持ち直し思い切り右側へと払う。戸が動く!

 引いた勢いに任せてそのまま──完全には閉まらない。何かが引っかかっている。わずかな痛みを感じて、自らの足元へと視線を落とす。

 捕まれていた。煙のような細長い黒い紐が、雪菜の足首に絡み付いていた。戸で押しつぶせないどころか、ふわついた外見からは想像もできない硬い感触が、痛い程に指定ソックス越しに皮膚を絞め上げてくるではないか。

 雪菜は状況を察するとすぐさま扉を開き廊下側へと身を乗り出した。

 

「ちなっちゃん、ごめん。ちょっと待っててね」

「雪ちゃ──」

 

 扉は勢いよく閉められた。

 廊下へ出た雪菜は、悪魔と自分との距離を測る。

 まだ、距離はある。

 

 雪菜はスカートのポケットに手を入れて、小さな巾着袋を取り出した。

 巾着から石を取り出し、右手に握りしめる。

 

 私がやらなきゃ、私しかいない。

 

 雪菜は胸に手を当てて、拳を作る。

 少しうつむき、作った拳を更に握りしめ、目をつむり、強く念じる。

 

 練習、してきた。投げ方は分かる。的は──

──ペットボトルよりデカい!!

 

 目を開き、顔を上げると雪菜は走り出す。

 距離、十メートル。それを一気に縮めて、

 

「ここ!!」

 

 五メートル程の距離から石を投げつける。

 助走を乗せて、強く、素早く投げた石はほぼ直線に進み、並んだ二つの球のど真ん中、眉間の真下に深く沈み込む。

 

 

 閃光。影の塊を引き千切る光の花が咲く。二度目に聞くこの世のものとは思えない叫び声。牛の唸りように低く響く声と空気を裂くような金切り声が同時に響いた。

 真っ黒な闇は散り散りに空へ放たれる。弾け飛んだ二つの球が転がり、転がり、床の上で衝突した。

 

 拡散。拡散。凝縮。

 散らばった闇は二つの球体を中心として集まり始める。

 

 大きさ百センチメートルほどになった闇は、二つの白玉をぐるぐると這いずり回らせて、頭の位置へと再び体裁を整えた。

 闇との距離は三メートル。

 深い深い暗闇は小さな石一つでは消し去ることが出来なかった。

 

 ……ここまでか。

 雪菜はゆっくりと瞳を閉じた。

 

「よく頑張ったね」

 

 暗闇の中で声が聞こえた。この一週間でもう聴き慣れてしまった声だ。

 瞳を開くと、目の前には影、そしてその手前には、金色の指輪。

 

 眩い光に包まれて、雪菜の意識も真っ白な視界の中へと溶けていった。

 

 

『あいつ……! どうやって!』

 

 鎖をジャラジャラと鳴らし、ナニカは声を荒げた。

 

『何が混ざっているのか見られると思ったのに!』

 

 地団駄を踏むと、カツカツと音が立った。

 

『……まぁいい。まだ待てる。まだまだ、整うまでは、我慢……』

 

 ナニカが脚を上げると、正面に浮かぶ姿見は解けて消えていった。

 

 

 雪菜は気が付くと一階の保健室のベッドの上に横たわっていた。寝起きの目には蛍光灯の明かりは眩しく、唸り声を上げながら目を細める。

 

「気が付いた?」

 

 上から覗き込む頭に声をかけられ、一気に目が覚めた雪菜は勢いよく起き上がった。

 

「雨音! 良かった無事で……」

「私は大丈夫。君の方が心配だった」

 

 雨音は座っていた丸椅子から立ち上がると、上体を起こした雪菜の頭を撫で始めた。

 

「お疲れ様。一人でよく頑張ったね」

 

 しばらく撫で続けられると、日常に戻ってきた安堵感で胸が満たされていくようだった。緊張の糸が切れたのか、力が抜けるように再び横たわってしまった。再び雨音の顔が天から覗き込んだ。

 

「余計な事したかな」

「いいや、めっちゃ落ち着いた。ありがとう」

 

 雪菜がベッドの上で微睡み始めたのを見かねて、雨音はそのまま現状を説明し始めた。

 

「北原さんは四階にいたから、事情をぼかして伝えて帰ってもらったよ。目立った外傷は見当たらなかったし、気分も悪くはなさそうだったね。後、君の鞄。三年生の教室で見つけたから、回収しておいた。部室の鍵は勝手に拝借して返しておいたよ

「そっか。色々とありがと……ん?」

 

 覚醒して数分、ようやく首回りの違和感に気がついた。首筋に手を添えると細い鎖が当たった。引っぱってみれば胸元で動く感触がした。

 意識を飛ばす前に目の前で見た、金色の指輪のネックレスが雪菜の首にかけれていた。

 

「あぁそれ、一応着けておいたんだ。気分はどうだい?」

「悪くはない……っていうか、むしろいい感じかな。なんだかすっとした感じというか。これも指輪の効果なの?」

「そうだね。君の体内に蓄積されてしまった瘴気を浄化した、という所かな」

 

 それからしばらくして、雪菜が起き上がれるまで回復すると二人はやっと帰路につくことができた。下校時間を告げるチャイムを聴きながら校門をくぐり抜け、ようやく学校の敷地外へと出て行くことができた。

 

「今回起こったことは、恐らくかなりの力を持った悪魔の仕業だろうね」

「あー……だから、石一つじゃ効かなかったのか」

「君が遭った奴はまた別の個体だよ。あの程度の奴にあんな大掛かりな真似は出来ないだろう」

「やっぱり、学校には『悪魔様』がいるってことだね」

「『悪魔様』?」

 

 雨音の視線は自然と鋭くなっていた。この目を見るのも二度目だ。四階に初めて向かった時に見せた顔をしていた。一瞬のことだったが、まだ打ち解けていなかった頃に戻った心地がして、雪菜は少しドキリとしながら話を続けた。

 

「七不思議だよ、初日に見せた。あれがここ最近の話題になっているらしいよ。なんでも、『鏡の中の悪魔は願いを叶えてくれる』そうでね」

「それは景気の良い事で」

 

 時刻は午後六時半過ぎ、道には街灯がつき、陰り始めた通学路を明るく照らし始めていた。

 裏日誌、「悪魔様」、視えていなかった七不思議。詳しい話はまた明日。雨音が転校してきた日と同じように二人して雪菜の家の付近まで来ていた。

 

「今日のこと、またちゃんと説明してくれるよね」

「勿論だよ。それじゃあ、また明日。今日はゆっくり休んでね」

「ありがとう。また明日」

 

 

 お別れの挨拶を済ませ、また別々の方向へと歩き始める。

 光が視えた。雪菜は無意識に胸元に手を当てていた。影も視えた。私にも、まだ出来ることがある。とくんとくんと均一な音を感じながら、今日も雪菜は二本の足で、しっかりと地面を踏みしめていく。

第四話「消えたあの子とワームホール」おわり

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