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6「ハッピーバースデイ②」
★
「今日家まで渡しに来てよかったよ。私も翼さんのお母さんが帰ってくるまで一緒に留守番するよ」
雨音は渡された盆をテーブルに置くと、再び座布団に腰をかけた。夫人がいなくなったため雪菜も気楽に胡座をかく。ガラスコップに麦茶を注ぎ終えるか終えないかの時に、雨音から口を開いた。
「君の誕生日はいつ頃なの?」
「私は十二月。なんたって雪だからね」
「その時に今日のお返しをさせてもらうよ」
「やった! 楽しみにしてる」
雪菜が笑うと、雨音が続けて質問した。
「……君って、君達って、いつもどんな誕生日を過ごすんだい?」
雨音の言葉に、今度は雪菜が面を食らった表情を見せた。雪菜も多少は地域差が出ることだろうとは考えもするが、正月や節句など古くからの祝いや節目の日と重ならなければ、同じ国においてそこまで意味合いが変わってくるものでもないとも思った。
改めて聞かれたためにぎょっとしてしまったものの、時森や赤星の家に特殊な風習はなかったため、特に伏せることもなく誕生日の丸一日を思い出したままに口にしていった。
「私はそうだなぁ、えーと、去年は零時ピッタリにメールもらった。寝ちゃってたから返信は朝にしたけど。それから朝に親から誕生日プレゼントもらえた。学校に行ったら朝から祝ってもらえて。昼はいつも通りで、夜ご飯には好物出してもらえた。そんで、食後に姉お手製のバースデーケーキが出た。誰かが誕生日知ってたら基本学校ある日なら祝ってもらえるかな。そしたら便乗祝いしてもらえるし──」
ここで雪菜は違和感に気付いた。今日一日、学校での出来事になにも変わりがなかったことを。
「──あれ? 雨音って他の人のプロフィール帳も書いていたよね?」
それにしては、隣の席へのお祝いの言葉一つも耳にしなかったことに気が付いた。向かいの席の雨音はちょうど茶を飲む動作に入っていて、返答までの時間がやけに長く感じた。手にしたコップをテーブルに置くと、すぐさま答えが返ってくる。
「あぁ、他のカードには書かなかったから当然だよ。生年月日は占いに使うとも言うし、よく知りもしない人に、隅から隅まで自分の情報を伝える気にはならないのでね」
「うーん、雨音らしいというか……」
「それに、君に祝って貰えただけでもう十分だよ」
雨音の言葉を聞いた雪菜は笑った。雪菜は言葉だけでも祝われたら祝われた分だけ嬉しく思うが、欲がないのも雨音らしい。
「なら、これから翼さんたちにも祝われるんだから今年はもう十二分だね」
「そうだね」
答える雨音はおもむろに着けていたヘアピンを外し、手櫛で元の前髪に戻した。もう取ってしまうのかと不服そうな雪菜に対して謝ると、外したピンを見つめた。
「ごめんよ。なんだか慣れなくてむず痒いんだ」
「うーん……まぁ、もう雨音のものだからね。好きな時に着けて、好きな時に外していいんだよ。間違ってない。それでも私としては普段使いして欲しいなぁ」
雪菜がそう言い終わる前に、雨音がピンを持ち直し、制服の胸ポケットに挟んだ。金色のローマ数字を模した学年章の横に、銀色の星付きのピンが並ぶ。ゴテゴテの華美な装飾でもないので、他の学生に比べたらよっぽど質素なオシャレだ。むしろペンの金具に見えないこともない。
「もう一本は使わないの?」
「それは保存用。或いは予備」
確かに破損はしやすいものだろう。納得しながら満足そうに頷く雪菜を見て、雨音は口元を少しだけ綻ばせる。雪菜は雨音の顔色の変化を注意深く観察しながら、先ほど新しく生まれた小さな疑問をぶつけてみることにした。
「あのさ、質問を返すようで悪いんだけど……雨音はどうだったの? 今までの誕生日」
もちろん、答えたくなければ答えなくてもいいという言葉を添え、相手の様子を伺う。
雨音は先程雪菜から贈られたマグカップを手に取って眺めながら答えた。
「身内にはそれなりに祝ってもらったよ」
「友達からは……?」
「友達なんていなかったからね。だから、君みたいに学校で祝われるなんて経験はないよ」
「ごめん……」
「どうして謝るんだい?」
雨音はプレゼントから雪菜へと視線を移した。お互いの目が合う。
「だって、嫌な気持ちにさせるようなこと聞いちゃったから……」
「少なくとも、当時の私は何も感じていなかったよ。私の育った土地では、此処とは違って誕生日は特別祝う様な日ではないし、むしろわざわざ他人に祝われた方が不快だったと思うくらいだ」
真っ直ぐな視線に射抜かれながら耳に入ってくる内容に思わず目を見開いた。
誕生日を祝う風習がないというのは、一体どのような場所で生まれ育ったというのだろうか。節句や行事で子どもの成長を祝い祈ることが根付いたこの国で、否、この国以外であっても、特殊で稀有な環境に身を置いていたのは間違いない。産まれた日にちを隠秘すべきという思想もそこで植えられたものに違いない。
雪菜の悲しげな表情を見かねたのか、雨音はマグカップを胸の前まで持ち上げて、言葉を付け足す。
「でも君は違うよ。僕の友達は君だけで、そんな君に祝わって貰えて今日はとても嬉しいよ。勿論、三神の人たちもそう。悪意さえ向けられなければ、とても嬉しい」
雨音が紡ぐ言葉の多くが雪菜の中の常識とは結びつかない。現代的な知識に疎く、どうにも浮世離れしているとは思っていたがここまでの深い溝があるなんて雪菜は想定していなかった。
君だけってなんだ、悪意が向けられる誕生日ってなんなんだ。一体この子は、どこで、どんな目を向けられて育ったのだろう。
なんて言葉をかければいいのか、また無神経なことを言ってしまうかもしれない。ただ、今すぐ否定しなければならない。そんな場所を、環境を受け入れたままにして欲しくない。少なくともココでは。
「……ちょっと失礼するね」
ざわつく思想の中にいる雪菜を置いていくように、すっと雨音が立ち上がった。
直感的に思う。このまま行かせてはダメだ。
ガチャンと音が立ち、雨音が振り返る。低い折りたたみテーブルに手をついた音だった。背を向けて立ち去ろうとする手を、雪菜は反射的に掴んでしまっていた。
「どうしたんだい」
いつもの落ち着いた声ではなく、少し上ずった声だった。雪菜が今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。すぐさま雪菜の前へと跪くと、咄嗟に肩を掴まれた雨音は驚いた様子で目を丸めていた。
「もっと、楽しいことしよう。好きなことしよう。そういうのなんだよ、ここでの誕生日は」
雪菜はゆっくりゆっくりと言葉を吐き出した。取り乱すことなく、言葉に出すことで徐々に落ち着きを取り戻していく。
「いいや、誕生日以外でもいいんだ、もっと楽しくいられるよ、ここはきっと。郷に入ったら従ってさ、もっと享受してよ」
「……うん。君が言うならそうしてみるよ」
「雨音」
名前を呼ばれ、肩を掴んでいた力が緩んだかと思えば、今度は両手が包み込まれた。気持ちが昂っているのか、雪菜の手のひらの温もりは以前よりも熱く感じられた。
「お誕生日おめでとう。産まれてきてくれてありがとう。時森に来てくれてありがとう。雨音に出会えてよかったって、心の底からそう思う」
「……それは──参ったな、そこまで言って貰えるなんて思っていなかった」
握られた手を伝って雪菜の熱が移ってくる。手だけではなく、発熱をしたかのように全身が熱くなって少しくらりとする。花が咲く様にニッと笑いかける雪菜の目から、面映くて目を逸らした。
先ほどまでの威勢はどこへやら、雪菜が慌てた様子で「ごめん、重かったかな?!」と言い出したので、雨音は否定のために首を振った。
そしていつもの様に、真っ直ぐと向き合って応えた。
「確かに身に余る言葉だ。だけど嬉しいよ」
はにかんで微笑んだ雨音を見て、雪菜はホッと胸を撫で下ろした。
「おまたせ〜!」
突如襖が開け放たれ、現れ出たのは三神夫人であった。思いがけぬ来訪者に雪菜は硬直してしまったが、雨音は普段通りの調子で「お帰りなさい」と声をかけていた。どうやら先ほど雨音が立ち上がったのは、玄関先に夫人が戻ったのを察知してのことだったらしい。
「お取り込み中にごめんなさいね、ケーキ、雪菜ちゃんの分も買ってきたから、よかったらどう? お紅茶もありますからね」
「は、はい! 食べます!」
好きなのを選んでね、と見せられた箱の中身は雨音が希望を絞り出した通りの〝苺が乗っているやつ〟が一つずつ複数種類詰まっていた。
雨音がどれでもいいなどと宣うため、雪菜が箱の中で一番見栄えの良い高価そうなケーキを見繕って選ばせた。
おたんじょうびおめでとうのチョコレートプレートを添えられた皿を前にした雨音の瞳は、いつもよりも生き生きとしたものであった。
何かを思い出したかの様に、おもむろに立ち上がった雨音が部屋の隅にある洋式机からレンズ付きフィルム──使い捨てカメラと一般的に言われる──を手に持ってダイヤルを巻き上げながら戻ってくる。夫人が手早く洗ってきてくれたマグカップを横に添えて、雨音はファインダー越しにケーキを覗き込んだ。
★
「また遊びにいらっしゃってね」
「はい! 今日はありがとうございました。ケーキもお茶も美味しかったです! お邪魔しましたー!」
三神夫人に見送られながら、二人は鳥居を抜けて、石段を降りていく。
時刻は午後六時半過ぎ。日も傾き始め、空は夕暮れ模様になっていた。段々とオレンジ色になる空を眺めながら肩を並べて一歩一歩歩いていく。昼からの快晴で明日以降も晴れが続くからだろうか、夕焼け空も一際鮮やかな色彩に染まっていく。
「カメラを持ってくればよかった」とつぶやいた雨音の横顔を雪菜が持参していたデジタルカメラで捉えた。このカメラには先ほどのケーキ撮影時にも撮られていた。フラッシュを焚かずに、「ピピ」と短い電子音だけが鳴る。
「代わりに撮っておくね」
「それを借してくれないかな」
「だーめ、雨音の写真消すだろうから」
「盗撮写真だろう」
「なんて人聞きが悪いことを……! これはね、思い出のいちページっていうの」
カメラを奪われぬように鞄に深く仕舞い込みながら歩いていると、踏切に差し掛かった。
遮断機のランプが赤く左右に揺れ、カンカンと警告音を鳴らしている。電車が接近していることを告げる音が響く中、黒と黄色で塗られた遮断棒がゆっくりと弧を描き始める。
棒が降り切る前に足早に駆け抜ける人の他に、足を止める者は二人以外にいない。
カンカンカンと音が鳴り続く。対岸から、雪菜たちと同じ中学校と思しきセーラー服の少女が歩いてきたのが見えた。しかし、その動きがどこかおかしい。雪菜はざわつく胸を押さえつけるように、右手で拳を作っていた。
緑色に塗られたゴム底の上履きを半ば引きずりながら、ふらふらと左右に揺れている。制服の少女が迫り来る遮断棒を頭で受け止めながら線路の中へ入ると、あろうことか手前の線路のど真ん中、二本のレールの間にそのまま立ち尽くしてしまった。侵入を許してもなお、遮断機は警告音を響かせる。
「え?」
遮断機が降り切る前に、少女の顔が見えた。虚ろな瞳とは視線が交差せず、雪菜は状況を理解しきれなかった。しかし目の奥の闇を視たのと同時に、体を動かしていた。
遮断機の棒の下を潜って線路に出ると、すぐに少女の胴へと腕を回し、そのまま侵入してきた方向へ全力で引っ張った。
「雪菜っ!」
雨音の声が聞こえてきた刹那、襟首が掴まれ引き上げられる感覚がした。少女の胴を離さないようにと可能な限り力を込め、雪菜は勢いに乗るようにして強く地を蹴り、少女を線路から引く力を重ねた。
浮き上がる感覚がした後、遠のいていく線路と遮断機が見えたのも束の間。視界にオレンジ色の空が映り込んだかと思えば、すぐさま背中に強い衝撃が走った。
「っ────!」
線路を滑っていく轟音と共にカンカンカンという甲高い音が再び耳に入ってきていた。
抱える少女の重みを押しつぶされる様に感じながら、雪菜の眼は少女の体から黒い霧のようなものが放出されていくのを捉えていた。
天を仰ぐ視界に雨音が入ってくると、上に乗った少女を転がして雪菜を起き上がらせた。アスファルトに無防備な頭をぶつけた少女は声を上げるとその場でうずくまってしまったが、当の雨音は一切構わずに雪菜に告げた。
「確かに守ると言ったけれど。こんな考え無しの事は二度としないで」
「…………はい」
どうやら雪菜は遮断機から二メートルほど飛んできた様子で、火事場の馬鹿力というものを信じるには十分すぎる結果に思えた。
突発的に湧き上がったアドレナリンが切れてきたのか、打ちつけた背中の痛みが増してきていた。それは横に転がる少女も同じ様であった。
「痛った〜! ちょっと、何?!」
「君、電車に轢かれる直前だったんだよ。覚えてはいないかい?」
雨音が少女を見下ろしながら問いかけると、少女はゆっくりと上体を起こした。
「は? なにソレ。なんの冗談? っていうかドコここ? 学校じゃない……っう、頭痛い……」
「えっと、大丈夫ですか、帰れそうですか?」
聞くに、制服での見立てに間違いはなく少女は時森第一中学校の三年生で、雪菜たちの上級生であった。彼女は本日学校を後にした記憶もまるでなく、自分が閉まりゆく踏切の中に無理矢理侵入したと聞いても半信半疑であった。
情報を断片的にだが理解した上級生は、去り際に二人に一言礼を言ってくれた。
遮断機が上がると、再び踏切を超えて、急足で学校へと引き返していった。午後七時前、今から行けば恐らく校門もギリギリ施錠されていないことであろう。
上級生の体から瘴気に似たものが剥がれ落ちていたことは雨音も認識しており、彼女の様子が直前まで異様だったこともそれが原因だと予想していた。先日記述を見た「悪魔様」の仕業であると断定する材料には未だなり得ないが、その可能性も念頭に置いておく方針となった。
「思うに、あれは呪いの類だね。恐らく校内でかけられて、ここまで操られて来たんだろう」
「それって、誰かがあの人を殺そうとしたってこと……?」
「少なくとも怪我を負わせるくらいの事にはなりそうだったね。そういう事なんだろうよ」
雪菜の脳裏には、上級生の少女の尋常ならざる身のこなしやどこにも向けられていなかった朧げな表情が浮かんでいた。あんな自分を失った状態で命が絶たれる可能性があるだなんて、身の毛のよだつ話だ。人の尊厳を踏み躙る、卑劣極まりない呪いの犠牲者が今後一体どれほど出てきてしまうのだろうか。
雪菜は再び波立つ心を押さえつける様に胸の前に拳を作っていた。
「早く何とかしないと……」
◆
同刻。夕焼けに照らされる線路沿いを大きな姿見が映し出す。何重にも巻かれた鎖で出来た金属の塊が、姿見を覗き込んでは落胆するように息を吐いた。
『──結果は振るわず、か』
目下に広がる異形のカーペットを踏みつけながら、緑の眼光は伏せられた。
大禍時の赤色が染み付いた教室には瑞々しい草花が生い茂る。草が根付いたのはフローリングの床板ではなく、その上にへばりついた毛むくじゃらの苗床であった。
苗床は不規則に脈動をするだけで、根が深くまで入り込んでしまった今となっては、もはや自分の意思で動くことは叶わない。動いているように見えるのは、突き刺さった根が苗床から中身のすべてを奪い取ろうとして急速に啜っているからだ。
苗床が徐々に形を失っていくにつれ、小さな草原には花が咲き誇る。風もないのに花々が嬉しそうに揺れた時、獣だったものは遂に事切れた。亡骸が黒い砂となり辺りに溢れ広がると、空気に触れた端から溶けて消えていく。
地形が変わり、無人の教室で鎖の擦れる音だけがジャラリと鳴り響いた。
願いの内容は確か、「大人しくなるような痛い目を見せる」だったか。審判が下ったか判るまでに時間がかかりそうだ。対象が物言わぬ屍になっていれば、間違いなく叶ったとされたことだろう。
ほんの思いつきだった。
自身の危機だけではなく、他人の危機的な状況を目の当たりにしたときにも同様の作用が得られるのではないかと。それなら生き餌を丁重に扱う必要も無くなり、遥かに楽になる。
目星が外れようが、どうせなら〝死〟に対する意識を色濃くしてもらおうと。
願いの対象の生徒には校内の適当な所で派手に落ちてもらっても良かったが、あえて外で見せつけるためにわざわざ突貫して歩かせた。意外な展開の方が、客席は近い方がより鮮烈に残るだろうと。
結果として、他人の危機までも自らのものとする悪癖を披露されただけで、目的とした仮説を証明できる様な新たな知見が得られなかった。都合のいいように出来ていないのは世の常だ。
悠長に構えていればいい。焦りは失敗を招く。最後の鎖が落ち切るまで、まだ時間はあるのだから。
第六話「ハッピーバースデイ」おわり
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