8「鏡像複体(後編)②

 

 瘴気を祓う指輪を秋の首に着けてやり、しばらくすると秋の表情から険しさが消えていった。

 雪菜が秋の指先に視線を戻すと、そこには先ほどまでの異色な肌はなく、真正面の秋と同様の色をしていた。

 息をついたのも束の間。

 

「ねぇ、一体何が起こっているの? これから私はどうなっちゃうの……?」

 

 震えが止まった秋は自分の置かれた状況と、先ほどの体調不良とで、とてつもない不安感に襲われているようだった。

 

「空は真っ赤だし、それで教室も気持ち悪いくらいに赤いし……急に気持ち悪くなるし……急に治まるし……! それに自分が縛られているし……!」

『縛ったのは自分じゃない』

「うるさい! うるさい!」

 

 声を荒げて耳を塞ぐ秋の言葉に違和感を覚え、秋をなだめる前に雪菜は窓の外を見ていた。

 ──空なんて、何も視えないじゃないか。

 

 窓の外にあるのは、光の反射も許さない闇のような黒だ。校舎内に赤い陽が差し込み、照らされた屋内が赤く染まっているのは雪菜にもそう視える。ただ、これは赤いというよりは──

 

「一つ、質問だけれども」

 

 雨音の声が聞こえ、秋の方を向き直すと彼女の耳を塞いでいた手を腕を掴んで乱雑に引き離しているのが見えた。落ち着いた声と反した強引な行動から見るに、雨音には恐怖に慄く秋を説得する姿勢は一切ない。

 

「東宮秋、君には一体ここがどう見えているんだい」

「どうって……さっきも言ったじゃない! 気持ち悪いくらいに赤いって!」

「本当にそれだけかな。君の足許には何が見える?」

「足元も赤いわよ!」

 

 秋は声を吐き出すと、そのまま瞳からボロボロとこぼして俯いた。重力に従って、眼鏡のレンズに涙の雫が浮かんだ。

 そう、と短く返事をした雨音が手を離すと、そのまま声を上げて泣き出してしまった。

 

「赤いって──」

 

 ──やっぱり、瘴気が視えていない。

 

 トントンと音が聞こえ視線を落としてみると、雪菜の手前、指輪を着けた秋が爪先で床を叩いていた。

 床一面に薄く広がった黒の気体が、秋のタップで出来た空気の流動に乗ってとぐろを巻いている様子が目に入る。

 

『ふぅん』

 

 こちらの秋の一投足は、さも瘴気が視認できているかのような振る舞いに感じた。視えるものに差異があったところで、ここから何が結びつくのだろう。

 『悪魔様』に霊視能力を付与するような芸当ができるなら、最初からそのように秋を〝変化〟させれば、願いはそれで叶ったのではないか。

 そもそも、この秋は本当にヒトであるのだろうか。指輪が効かないからといって、魔のものではないとは言い切れない。しかし実体はあり、秋にも見える存在だ。縛って拘束することもできた。

 

 一方で、思考の深みに沈んでいく雪菜をよそに、膝をついた雨音が泣き喚く秋の周辺を見つめ始めていた。床を撫でるように手をついて、顔を近づけてキョロキョロと眼球を動かす。

 すると、何かを見つけたのか、ほぼ床に近いところの空気をすくい上げた。すくい上げた手の平から東宮秋へと視線を動かしていく。

 手を空気をすくう形のままにして立ち上がり、雨音はスカートを反対の手の甲でパッパッと払った。

 

「あんたは一体何なんだ、手足は変色するし、実体はあるし……」

 

 雪菜は秋の肩を掴むと、人間のそれの熱や骨張った感触、制服の生地の肌触りが手の中にしっかりと伝わってくることを感じていた。

 雪菜の問いかけに秋は顔面を真上に向け、雪菜と目を合わせ、細めて言う。

 

『だからぁ、東宮秋だって言ってるじゃない』

「その通りだよ」

 

 立ち上がった雨音はつかつかと雪菜の方へと歩み寄る。手には先ほどすくい上げた空気をそのままに、まるで何かを手の平の上で滑らせているかのように、腕の位置は一定な高さだった。

 

「そもそも、彼女を『東宮秋に限りなく近い何か』として捉えていたことが間違いだったんだ」

「じゃあ雨音はこの子が何だって言うの。まさかアメーバみたいに分裂しただなんて言わないでよ」

『ちょっとびっくり、なかなか鋭いのね。糸も見つかっちゃったみたいだし』

 

 雨音の手の平を見ても特に糸と言われたようなものは視えず、雪菜は首を傾げた。雨音は説明は続く。

 

「彼女は間違いなく『東宮秋』だ。より正確に言うのならば、彼女は『東宮秋の霊体の一部』だ」

 

 雨音と過ごした中でも、初めて聞く単語が出てきていた。霊体という言葉が魂の意味合いに近いのだろうということは雪菜にもニュアンスで理解できた。そしてそのイメージを知っている言葉に結びつける。

 

「それってつまり幽体離脱しているってこと?」

「ある意味では幽体分離とでも言った方が正しいかもしれないね」

 

 部分的にであっても幽体離脱、つまり自身が幽霊ということなら、確かに霊視ができても自然なことのように思えた。秋自身が飛び出たと仮定すれば本人に知覚できて当然だ。

 しかし幽霊というものは、本人ならともかく、他人からでもこうもしっかりと触れるものだろうか。

 その疑問を補完するように、雨音が手の平をずいと雪菜の目の前にまで持ってきていた。

 

「これこそが彼女を東宮秋であると決定付ける証拠だよ。君には視えるかな」 

 

 差し出されたそれを今度は凝視すると、半透明の、何やら細い紐状のものを見出だせた。

 

「……紐?」

 

 雪菜が紐の先を視線で伝っていくと、それはどうやら秋の本体から分身の秋へと繋がっているように見えた。先ほど秋はこれを糸と言っていたようだ。

 秋の本体と、魂の一部が繋がったままであるという証拠。幽霊というよりは生者に近いということかと雪菜は理解した。

 

「……もしかして、生霊ってやつ?」

「そんな風に言う事もあるだろうね」

「生霊……? あはは、二人はそれが私の幽霊だって言うの? 二人とも幽霊なんて信じているの?」

「君は今、この状況下で幽霊も信じられないのかい」

 

 にわかに信じ難いという様子の秋に向かい、少しだけ機嫌を損ねたらしい雨音の言葉はいつも以上にトゲトゲとした物言いだった。冷たい言葉を浴びせられた秋はきまりが悪くなってすぐに黙り込んでしまった。見かねた雪菜が話を本筋へと戻す。

 

「えっと、生霊って、よくある話だと怨念やら強い願いやらで生まれるものだよね」

 

 雪菜の言葉は秋に向けて、優しい声色で発せられた。

 

「そ、そうなの? その手の話はよくわからないけれど……とにかく私はどうすればいいの?」

「うーん。東宮さんの気持ちから生まれたんなら、元に戻るように祈る。ってのはどう?」

「な、なるほど。一回やってみるね」

 

 結果から言うと、試みは失敗だった。

 雪菜の提案を受け入れた秋は目をつむると、力を込めているのか眉間にシワを寄せて「戻れ戻れ」と繰り返した。

 秋がいくら願おうが、声に出して唱えようが結果は変わらず。秋の目の前には鏡合わせのような自分がいるままだ。

 

『あはっ、お祈りが足りないんじゃないの?』

「うるさい!」

 

 すでに肉体的にも精神的にも疲弊している秋は、秋から煽られるとすぐに怒鳴り声を上げた。

 しかし深いため息が耳に入ると、秋はびくりと身を跳ねさせた。ため息の主は、いつの間にか指輪を着けた秋と雪菜との間にまで身を滑り込ませていた。秋の肩に添えていた雪菜の手を引き剥がすと、さらに二人の間に割って入っていく。

 

「簡単な話だろう、生霊を消す事だなんて」

 

 雨音は少し屈んで、秋の腕と椅子のパイプとを繋いでいたタオルと巾着紐を解きながら、秋の背中を押した。

 

「やりたいことをやらせてやればいいんだよ」

 

 秋を拘束していたものが解け、何が起こっているのか理解できなかった雪菜と秋が唖然としていた。

 更に雨音はそんな二人にお構いなしに畳みかける。「そら、君のだろ」と言って、あろうことか回収したナイフを秋の手元へと返したのだ。

 

「みみ水無月さん?!」

『へぇ、なかなか話が分かるじゃないの……!』

 

 呆気に取られていた雪菜の初動が遅れ、その隙に雨音は両手首を掴んで雪菜を抑え込んでいた。気がついた時には抱きつかれるように後ろ手に回された腕はびくとも動かず、雨音の細腕が振り解けない。雨音の肩越しに雪菜の目は秋が襲われる様を捉えていた。

 

 椅子から弾けるように立ち上がった秋が真正面に座っていた秋に飛びつき床へと落として、その上に馬乗りになっていた。

 手の中にもナイフが戻ってきており、廊下で出会う前の状態に逆戻りしたとも言えよう。

 刀身を出したナイフを振りかぶり、海老反りになった秋は上下反転した雨音の後ろ姿を見ると、満面の笑みを見せた。

 

『ありがとうねぇ水無月ちゃん!!』

「なんで?! 嫌だ……やだぁ!」

 

 笑う生霊と対照的に秋は自身に再び襲いかかった危機に怯え、ボロボロと涙をこぼしている。

 雪菜は血相を変えて身じろぎするものの、一向に雨音の細腕を振りほどけないでいた。

 

「辛いだろうけど、このまま見ていて。大丈夫、僕を信じて」

「──!」

 

 耳元で囁く声が聞こえたのと同時に、今に刺されるという秋の姿を目に入れているにも関わらず、雪菜は身を強張らせながらも抵抗の手を緩めていた。

 

『それじゃあね、秋ちゃん!』

「死にたくない!」

 

 

 胸に何かが当たり、カランと床に落ちる音がした。

 

 秋がゆっくりと瞳を開くと、滲んだ視界には汚れたレンズ越しにいつもの通りの教室の天井が映るだけだった。

 体内を暴れ回る心臓の鼓動がドクンドクンと鳴り響く。

 溜まった涙が目尻からこめかみへと流れていくのを感じると、吹き返すように酸素を求めて息を吸い込んだ。

 呼吸を止めていたことを思い出したのはその直後だった。

 

「……っはぁ! ……はぁ……はぁ……」

 

 何が起こったのかわからない。

 刺された? 多分そういう痛みじゃない。床に叩きつけられた背中が痛い。

 

 あいつは? ……いない。……消えた?

 生きてる? ……死んでない……? 生きてる……?

 

「……る……てる……生きてる、生きてる……」

「東宮さん!」

 

 気がつくと手を強く握られていた。

 温もりを感じて、秋は顔を人影の方へと向けた。

 

「赤……星……さん……」

 

 秋の右手を両手で包む雪菜の瞳には涙が溜まっていた。

「無事でよかった」と繰り返して言う雪菜に何が起こったのかを聞くと、雪菜は静かに首を横に振り、質問には雪菜の背後に立った雨音が秋を見下ろしたまま答えた。

 

「彼女──君の生霊は君を刺そうとした瞬間に消えてしまったよ。君がそう願ったからね」

「私……消えろだなんて願ってないよ……」

「君が強く願ったことがそれと同義だったということさ」

 

 秋の真横に転がった鎖つきの指輪を拾いつつ、雨音はそのまま続けた。

 

「私が思うに、あれは君の自殺願望だったんじゃないかな」

「じ……さつ……?」

 

 その一言が秋の脳内を駆け巡る。記憶の中の一番深くて柔らかいところに突き刺さった言葉が、反響して耳に残ったまま。

 

「君の願いによって生まれた彼女は、君のより強い生存願望によって文字通り掻き消されたんだよ。最初に止めなければ、直ぐに終わっていたことだろうね」

 

 雨音の説明を聞きながら、秋は言葉の意味全てを飲み込めていないものの「そうだったんだ」と静かに返事をした。

 けれど、どうだろうか。あの時、あの疲れ果てた状況で、もし誰も助けてくれなかったら、自分はあのまま死んでもいいと思うような人間だったのではないか。

 そんな考えが暗い思考の底から、ゆらゆらと泡のように上がってくる。ふと横を見れば、秋以上に泣き出しそうな女の子が手を握ってくれていた。

 

「ごめん……余計なことしちゃった。私のせいで東宮さんを余計に苦しめた」

 

 雪菜が瞬きをすると、目に溜まった涙が頬を伝って逃げていく。涙が床へと落ちる頃、握られた雪菜の手を更に包み返した。

 

「ううん、いいの。いいの。赤星さんが助けてくれて私、安心したから……それにね、きっとあの子に自分を殺すほどの力なんて、なかったんだよ」

「それってどういう……?」

「結局私なら、誰かを傷つける勇気すら持ち合わせていない、臆病者なら。自分さえ殺したりできないよ」

 

 閉ざされた瞼の裏にはある光景が浮かんでいた。──秋の思う自分。

 

 制服のポケットの内側に重く固い感触がある。片手で開く、手のひらサイズのフリッパーナイフ。父親の持つキャンプ用品のひとつ。アウトドア好きだった家族も、もうしばらくの間キャンプなんてしていない。秋がこっそりと自分の部屋に危険な刃物を持ち込もうが、もう存在を忘れてしまったのだろうか、気づかれることはなかった。

 

 秋は過去に数回、ポケットの中のナイフをその手首にあてがったことがあった。もちろん今現在の手首には傷一つだってない。この刃を引けば、という時に秋はそれができなかった。

 

 消えたい、死にたい。これで死ねるよ。でも痛いのは嫌。傷つきたくない。死ぬのも嫌。こんな気持ちを抱えて生きていくのも嫌。このまま眠ったまま明日が来なければいい。それも嫌。恐い。怖い。

 

 そんな自分を臆病者と評して秋は乾いた笑いをこぼしていた。

 

「なんだ、結局私は変われなかったのか……」

 

 秋の声はほんの少しだけ震えていた。涙が重力に従って頬を伝って落ちる。続けて震える口を動かすが、潰れた声では音として出てこない。

 涙が次々と溢れ出す。胸が苦しい。息がしづらい。苦しい。くるしい。

 

 たすけて。

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