9「夢から出ずる影(前編)②

 毎年のように襲ってくる悪夢の季節がやってきて、もう一週間になる。

 

 午前五時二九分。少女は眠りの淵から飛び起きた。

 徒競走を走り終わった後のように呼吸が乱れ、心臓が痛いほどに激しく脈打つ。指先は冷えて痺れているのに、全身に夏の熱気を帯びた生温い寝汗が伝い、シャツの中をぬるりと滑る濡れた感覚が酷く不快であった。寝汗の原因はもちろん夏の暑さだけではない。

 

──また、アレを見た。

 また見てしまった。ずっと昔から見続けている夢。自分が……どうなってしまうのだったか──?

 

 雪菜は毎年この時期になると夜な夜な悪夢にうなされるようになるのだ。しかし悪夢の内容は、目覚めてから思い出そうとするとどうしても思い出せない。直前まで見ていた景色の記憶がプツリと途絶えて、手繰り寄せることも叶わない。

 それでも雪菜は繰り返し同じ夢を見ていることを、なんとなくではあるが理解していた。

 そして毎年、夢を見る度にその内容が長くなっていることを覚えていないなりに察してはいるのだ。多分、どんどん夢の続きを見ている……

 おかげで年々寝起きの消耗具合が激しくなってきている。

 

 午前五時三十分。平日に設定した目覚ましのアラームが鳴り響く。

 窓の外に明るい空が覗く。昨日一日中泣いて気が済んだのだろう。今日の昼はよく晴れるらしい。

 

 期末考査前の図書室は盛況だった。三日間のテスト期間が明日から始まるとなれば、納得の混み具合であった。

 普段利用しない生徒たちが顔を並べ、小声で出題範囲を教え合っている。新しく入ってきた生徒も空いている座席が無いと見るやすぐに踵を返していった。

 

 テスト一週間前から全ての部活動が停止となっているため、普段は図書室に親しみのない十夜とうやみのりもここで勉強してやろうと、こうして足を運んでいた。

 周りの勉強している空気に当てられれば、誘惑の多い自分の部屋やリビングよりも集中できるはずと見越して来た。幸いにも一人がけの仕切りのある机が空いていた。

 特にここ最近、稔はすごく調子がいい。頭の中がスッキリとしている。

 少し前までは、別のことに熱中していないと部活や家族関係のあれそれの雑念がすぐに頭をもたげてしまい、授業中も落ち着きがなく過ごしていたが、今はそれがない。いつやるのか、と聞かれたなら無論、今と返せる気概があった。

 

 陸上部の先輩から賜った昨年度の過去問を広げ、シャープペンシルを構えた矢先。放課後になり電源を入れていたスマートフォンがポケットの中でブルリと振動したのだ。

 通知を確認すると、過去問をくれた先輩からのメッセージが入っていた。

 

『まだ学校にいる?』

 

 すかさずロックを解除して既読を付けると同時に、返事を出す。

 

『図書室にいます!』

『今からそっち行ってもいい?』

『大丈夫です!』

 

 部活動が停止されて早数日が経つ。ほぼ毎日顔を合わせていた先輩にも久々に顔を合わせられる。

 ふっ、と高揚した心も図書室の厳粛な空気に飲まれたのか、気がつけばすぐに収まっていった。

 

 先輩が稔の元へ現れたのはそれからすぐのことだった。私語厳禁の図書室で、なるべく音を殺した小声で彼女が話しかけてくる。

 

「急にごめんね。あの後、しばらく顔合わせなかったから。気になって」

 

 彼女には先日、稔の雑念について相談をしていたのだ。彼女から、酷く思い詰めた顔をしていると指摘され、そのまま不満は吐き出すべきだと指南されたところであった。

 独りで抱えていると、気持ちが沈んでくるから。そう教えてくれた彼女の目には真に迫るものがあった。二人きりの更衣室。ポツリポツリと零した暗い感情も、優しく背中を摩られているうちに、稔を泥沼から引き上げるようにどこかへと昇華して霧散していったのだ。

 

「はい! おかげさまで、最近すごく調子がいいです!」

 

 小声ではあったが、元気であることを伝えられるように稔がハキハキとした返答をすると、彼女は安堵の表情を見せた。

 

「よかった。テスト頑張ろうね」

「はい! 麻美あさみ先輩も!」

 

 去り際に彼女に肩を叩かれれば、ほんの少し身が軽くなった心地がした。

 稔は自身に喝を入れ、背筋をピンと伸ばしてシャープペンシルを握り直した。

 

「雪菜ちゃん、どうしたの? そんなに疲れた顔しちゃって」

 

 朝の人が少ない教室で、雪菜に声をかけたのは秋だった。おどけた調子のない声色が、からかいの言葉ではないと裏付ける。無論、秋は冗談を言うような生徒ではないが。

 

「マジ? そういう風に見える……?」

「うん、朝勉強もしてないし、ため息ついちゃってたし。何かあった?」

「ちょっとね、最近よく悪夢を見るというか……」

 

 期末テストも終わり、勉強をするのにも身を入れる必要がないために、ここ数日は机に突っ伏して雨音を待つことが多かった。

 悪夢を見ることによる実害は主に寝苦しくなるということと、起きる時にやたら精神力を消耗してるように感じるくらいで、睡眠時間的には十分なものであった。

 

「確かに疲れるよね、怖い夢とか見ちゃったりすると。夜中に起きちゃったりしたときとか、もう一回眠るのが怖かったりするし……寝たら寝たで夢の続きなんか見ちゃったりしてさ」

「夢の続きなんて見れるんだ」

「うん、たまにあるよ。あとは時間がすごーく経ってるのに、夢の続きを見たこともあるよ。起きた後にあぁ、これって続きだったんだって気づくんだけど……」

「二度寝で夢の続きかぁ。経験ないな」

「雪菜ちゃん二度寝はしなさそうだもんね」

 

 そういって微笑む秋を見ると、雪菜は安心したように微笑み返した。四階で遭遇したあの日から、テストが無事に終わったのも相まって秋は憑き物が落ちたように明るい顔つきになっていた。何かのきっかけが掴めたのであれば、良い兆候だろう。

 八時近くになり雨音が教室に入ってくると、秋はすぐに自席に戻ろうとした。あの生霊の一件以来、雨音が苦手になったようだった。

 

「じゃあ私はこれで。今日は金曜日だし、帰ったらゆっくりしてね」

「うん、ありがとう秋ちゃん」

 

 窓際まで来た雨音が朝の挨拶をするや否や、早速「何を話していたの」と聴取をしてきた。

 雪菜は挨拶を返すと簡単に、「夢のはなし」とだけ答えた。

 

 今週全ての授業が終わった金曜日の放課後。

 

 日課の見回りを終えた帰り道に、曇天の空の下二人は明日の約束を再確認してから別れた。

 此の花学園への偵察については、明日土曜日の朝九時に駅前に集合する約束を取り付けた。

 朝のまばらな登校より、下校時の方がたくさんの生徒が同時に移動すると踏んだのだ。土曜授業は午前で終わるらしいので、妥当な時間だろうと雪菜が決めた。

 

 家に帰った雪菜は、制服から着替えると外出用のショルダーバッグを持ってすぐに家を飛び出した。

 走って向かう先は最寄りのコンビニエンスストア。入って真っ先にレジ前を確認する。商品一覧と一体となった縦長のポスターを見ただけですぐに状況がわかった、売切れだ。早朝に来た時にはまだ陳列すらしていなかったのに。

 何も買わずに店から出た雪菜はすぐに別の店を目指す。

 

 本日の雪菜のお目当ては俗に言う六百円くじだ。その名の通り六百円税抜で一回引ける全等賞アタリ、ハズレなしのキャラクターグッズが当たるくじ。……とは謳われているが、その実やはり位の高い賞ほど希少で当たりにくく、位の低い賞は商品によってはハズレという扱いをしてしまう。

 特に低い賞はトレーディング要素も兼ね備えていることも多くあり、中身がブライドされている場合には、そこから欲しいデザインを当てることも少々の困難であった。

 先ほど確認したポスターは店側が購入済みのくじの半券を貼り付ける台紙であり、買い手が残りの賞の在庫確認に見るためのものだ。レジ前に商品の陳列が無いことと、半券がびっちりと貼り付けられた台紙が揃っていたら、もう売り切れだと判別できる。

 

 雪菜は本日から発売開始のくじを求めて取り扱い店をはしごするハメになっていた。しかし労力に見合わず、行く先々で見つけたものは空の商品棚であった。

 どうしてこんなにもありつけないのか。簡単なことだ。今回のくじの内容が人気の作品とタイアップしたものだったからだ。

 原作が人気のものであればあるほど需要も高い。単に手に入れたい欲求から転売目的まで、こういった場合には欲しい賞が出るまで、あるいは入荷ロットを根こそぎ大人買いをする人々がいた。

 

 一度でも引けたら満足なのに。コンビニエンスストアから書店まで、事前に調べていた取り扱い店を渡り歩く雪菜はついに隣の街にまで脚を伸ばして来てしまっていた。

 

「こりゃ今回は諦めるかなぁ……」

 

 買う前から運がなかったんだ、そう自分に言い聞かせて歩く帰り道。

 雪菜は最後に寄った書店で買った漫画の新刊入りの手さげ袋をカサカサいわせながら、久々に踏み入った街の景色を見渡していた。

 

 久々とはいっても、年に一、二度は散歩がてら通る街並みだ。何年かぶりに訪れたわけではない。目新しいものなどはほとんどなかったが、それとなく覚えていた道を更新するようにして辺りをキョロキョロと見回していた。

 駅前を抜けて、住宅地の方面へ、そこから路地裏を抜けて公園の方へと、帰るついでの散策で見聞を広めている。

 

 時刻は午後六時。太陽がそろそろ西の方からと赤い光を放つ頃になっていた。公園からは複数人の小学生らしき少年たちの声が聞こえてきている。

 

「オレらが先にいたんだぞ!」

 

 友人同士の掛け声とは異なる怒号に近い声色から察するに、事態は平穏ではないようだ。

 揉め事だろうか、何が起こったかは雪菜にはわからなかったが、遠巻きに観察した限りでは今のところは口喧嘩をしているように見えた。

 目視できたのは数人の小学生らしき子どもと、彼らが見上げる遊具には学生服を着たおそらく中学生たち三名。年下相手に口喧嘩とは、雪菜は呆れた顔つきで様子を見守る。

 

 集団のいる大きな複合型遊具の辺りを見渡せば放り出されたランドセルが目についた。そしてそれがもう一つ、空から落ちてきた。

 どちらが発端かは分からないが、この一場面を見れば今どちらが悪いのかは明白に分かる。他校の生徒を複数相手取るのには若干ためらっていた時だった。

 

「痛ぇっ!」

 

 唐突に、中学生の方が声を上げた。

 ついに戦いの火蓋が切って落とされたのか。直接の暴行はいけない。微力でもと制止のため集団に駆け寄った雪菜が見たものは

 

「かまいたちだ!」

 

 痛みで右腕を押さえる中学生を指差しながら、小学生男子が声を上げた。

 

「オレらにイチャモンつけてくるからバチが当たったんだ!」

「やーいバーカバーカ!」

「うるせぇ! ──痛っ!」

 

 また別の中学生が顔を歪めた。

 夏用の半袖シャツから剥き出しになった彼の白い腕。反射的に腕を押さえつけた手の隙間からは赤い血が滲んでいた。

 

「かまいたちがお怒りだぞ!」

「早く帰れよ!」

 

 アレはなんだ。

 遠目で、更に一瞬だけだが、雪菜の目は確かに鞭のようにしなる〝影〟を捉えたのだ。

 

「かーえーれっ! かーえーれっ!」

 

 雪菜はすかさず辺りを見渡した。その場を走り去る不審な〝影〟を捉えた雪菜は、影に向かって走り出す。公園が遠のくとともに、少年たちの声は背中の方へと消えていった。

 

 目の前の走る影はゆらりと蠢き、その輪郭を捉えられない。男なのか、女なのか、子どもなのか、大人なのか、そもそも人間であるのか。

 

 引き続き角を曲がって正面の影を追いかける。走り出した時からすでに距離が開いてはいたものの、雪菜はその視界に影を映し続けることが出来ていた。

 

──それにしても、速い。

 

 雪菜も日頃走り続けている身。タイムはともかく、持久力に自信がないわけではなかったが、目線の先の影とは中々距離を思うように縮められずにいた。

 腕を振るたびに書店の手さげ袋がガサガサとうるさく音を立てていた。

 

「待て!!」

 

 あれが噂の心霊通り魔・かまいたちであることに疑いはなかった。影は再び方向を変えて左折すると、雪菜も追従して左折する。

 と、ほんの数メートルの目前に加速度を失った影が立っていた。

 

「?!」

 

 揺らめく影がはためいて、中に閉じ込めていた色彩が目に飛び込んできた。服だ。影の中に人がいる。つまり、このままでは、ぶつかる。

 

 スピードに乗った体に急ブレーキをかける。スニーカーのゴム底がコンクリートと激しく摩擦して、熱を発して甲高い音を上げる。殺し損ねた勢いが上半身を大きく前に出す。

 あわや転倒、思い切り手を前に出した時。耳元を生温い風が撫でた。

 

『私に関わらないで』

「えっ」

 

 コンクリートの地面に顔を擦り付ける前に、目の前が真っ暗になった。手のひらに痛みもなく、闇の中でも生きている平衡感覚によれば、ちゃんと二つの脚で立てているようだ。

 顔に何かが貼り付いている感覚が消え、視界に再び光が戻ってきた時、そこにはもう揺らぐ影の姿はなかった。

 

 

 

 

 

『あーあー。ダメだなぁ』

 

 頭を覆ったフードの中で、少年の高い声が響いていた。身体を包み込んだローブが、じわじわと内側に迫り上げてきて柔く少女の四肢を撫でるように絞め上げる。

 

『何の為の練習だ? 雪菜一人だった。絶好の機会だったんだぞ』

「……すみません、心の準備が出来ていなくて」

『もう出来ただろ?』

「……はい」

 

 ローブの下の緊張が解けると、少年の声も聞こえなくなっていた。

 

 夕焼けの街を少女は歩く。

 体にまとわせていた闇色のローブを足下の影に収めると、少女本来の輪郭が現れ出る。

 

 

──あれが、アカホシユキナさん……

 

 もう二度と会いませんように。

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