9「夢から出ずる影(前編)③

 再び家に帰ってきた雪菜がまず最初にしたのは雨音への報告の電話だった。

 今しがた隣街でかまいたちと遭遇した出来事を説明すると、雨音にもその判断を仰いだのだ。

 

『心霊通り魔とやらに遭ったが、無傷で帰ってきたと』

「顔を塞がれた時に、四階にいる時と似た感覚がした。多分悪魔が関係してると思うんだよね」

『君がそう判断したならそうなんだろう。それにしても、隣街の話だ。校内の奴の仕業だとは考え難いけれど』

「時森でも噂になってる」

『だから関係がないか君は調べたい。だよね』

「……うん」

『あまりお勧めはしないよ。私としては君に危険な目に遭って欲しくはないのだから』

「わかってる。けど……」

 

 消え入りそうな雪菜の声に重ねて、電話越しにわかるため息をついた後に一言。

 

『分かったよ。ただ遭いに行くのは私といる時にしてくれよ?』

「……ありがとう」

『お礼は守れてからでいいよ。明日の約束はそのまま変えなくてもいいんだね』

「うん、また明日ね」

 

 報告を終えると電話を切った。

 

 かまいたちに遭った夜の夢も、雪菜は引き続き例の夢を見たようだった。

 ただ今朝は昨日までとは様子が少し違う。緩やかな呼吸のまま目を覚まし、ゆっくりと広げた視界にはカーテンから漏れ出た光が入り込む。

 

「あおい……ちょうちょ……?」

 

 夢の続きを見ていた、らしい。掴んで帰ってきた夢の欠片を認識すると、一気に覚醒した脳味噌で先ほどの夢の内容を遡ろうとしたが、それ以外の結果はいつも通りであった。いつも通りに寝汗はかいているし、手先も冷たくなっていた。

 

 目覚めた雪菜が二つ折り携帯電話の小さな通知用画面を覗き見ると、液晶のデジタル表示は午前六時過ぎを示していた。

 雪菜は一瞬驚いた後にそういえば、と目覚ましを遅めにセットしていたことを思い出して脱力していた。それに今日は土曜日だ。待ち合わせの時間を考慮しても、寝坊のうちに入らない。

 安心した雪菜が再びまどろみ始めた時、アラームが鳴り響いた。

 

 開いた携帯電話には緊急地震速報を受信した形跡があり、起き上がった先、朝のニュースでは明け方に大きな地震があったことが報じられていた。

 雪菜の住んでいる地域は多少揺れたようであったが、警報と揺れの抱き合わせでも目を覚ませなかったのには、身体の危機察知能力の足りなさに落胆すればいいのか。十分な睡眠時間でスッキリとした頭にはどちらでもいいことであった。

 

 時刻は午前九時。梅雨の中でも晴天に恵まれた今日、予報では夕方に一時雨となっていることが信じられない程の快晴具合であった。待ち合わせをした駅前で雨音と落ち合うと、定刻通りにやってきた電車に乗って目的地となる香栄野かばえのを目指す。

 最寄りから香栄野までの乗り換えは一回。乗り換え駅はさまざまな路線が通る大きい駅だ。乗る電車を間違えないように、事前に調査済みの手順を参考に、路線の通るホームを頭上の標識で再度確認してみる。

 間違えずに該当のホームに着くと、すぐに乗車する電車が入ってきた。電車の扉が開けば、乗り換えのために車内の多くの人が降りてくる。そのまま郊外へと向かって行く電車に乗り込む人が意外と多いことが印象的だった。

 

 電車に揺られること数十分、無事に香栄野駅までつくことが出来た。乗り入れている路線は二つほどと、先の乗り換え駅と比べれば規模の小さいものだった。

 車窓からも見えていたが、降車するとより一層見やすくなった土地の様相は繁華街と言うほどの騒々しさや人混みはないが、駅近くに百貨店やファッションビル等の商業施設が並び立つためそれなりに沢山の人々が往来していた。

 

 まだ時間は午前十時前。授業終わりの生徒を見るには早すぎる時間帯だ。二人は此の花学園への道すがら散策ついでに辺りを細かく見回してみるが、どうも植物の生えた人は見当たらない。というよりも、この人出では地元住民との区別がまるでつかない。

 

 駅前の商店街を通り、散策を続ける二人。さすがに土曜日、休日とあってアーケードを備えた商店街はそれなりの混雑具合を見せていた。

 活気で溢れた商店街には服屋、本屋、雑貨屋、ファーストフード店、薬局など様々な店が軒を並べている。

 少し歩けば肉屋のトンカツの香りであったり、ラーメン屋から溢れ出てくる醤油の香りが鼻をくすぐる。

 

「ひゃー色々あるねぇ、お腹空いてきちゃう。あっ、ちょっといい?」

 

 雪菜は通りかかったスーパーマーケットの前に並ぶ小型の自販機、カプセルトイを指差して、雨音を連れて行く。

 行儀よく並んだカプセルトイのラインナップを一通り歩きながら眺めると、その中の一つに狙いを定めた。台の前にしゃがんで、財布から出した百円硬貨を二枚機械に投入する。ハンドルを回して中からガチャリとプラスチック製の薄い青色がかった透明のカプセルが出た。

 カプセルの中からはビニールに包まれた景品と、短く折られた景品の説明書きの紙が出てきた。

 

「何を引いたの?」

 

 雨音が雪菜の手元を覗き込むと、見えたのは二等身程のキャラクターにボールチェーンが付いたストラップだった。

 ボールチェーンを指で摘み、キャラクターを揺らして微笑みながら雪菜が答える。

 

「カフェラテちゃん。ミルクラちゃん狙いだったんだけど、可愛いから嬉しい」

「ふぅん。私もやってみようか」

 

 今度は雨音がしゃがみ込み、硬貨を入れてハンドルを回す。今度は白色半透明のカプセルが出てきた。

 立ち上がりカプセルを開ける手つきを雪菜も覗き込む。

 

「あっすごい! シークレットじゃん。引きがいいね」

 

 中から出てきたのは先程と同じくキャラクターマスコットであったが、形と何より素材が違っていた。雨音の引いたそれはメタリックカラーなだけではなく、金属を使った重みも感じられた。

 

「いいなぁメタリックミルクラちゃん。おめでとう! レア物だよ!」

「あげるよ」

「うぇ?!」

「ならそっちと交換しよう」

 

 雪菜の持っているカフェラテちゃんを指差しながら、雨音はそう言うとすぐに雪菜のカフェラテちゃんを取って、自分の金属製のミルククラウンちゃんを置く。「いいの?」と言いつつも雪菜は手の中のマスコットを眺めて、その重みにただただ頬を緩ませていた。

 

 午前十一時よりも前のことだった。遂に下校中の此の花の生徒を見かけだした。かなり数の生徒が商店街を抜けて駅を目指す。生徒達から漏れ出す言葉の端々が次々に耳に入ってくる。

 

「今日は英語やろっかなー」

「昨日何時間くらい勉強した?」

「ねぇねぇ、最後の問題やっぱり答えπだったよね?」

「ほら、あれは授業中言ってたじゃない。ちゃんと図説にも書いてあったよ」

「やばい、赤点かも……」

「今回は結構自信ある!」

 

「……これは駅前に戻った方がいいかな」

 

 二人は流れてくる此の花の生徒たちの波に乗って、再び駅を目指す。生徒たちを不審がられない程度に眺めた二人であったが、どうも植物持ちの生徒は視当たらなかった。

 駅前に再び戻ってきた二人は、改札前で下校中の女子学生を眺めるだけという至って不審な作業をしていた。葉の生えた生徒がいれば、その場で追えるようにICカード乗車券に電子マネーを継ぎ足しておいた。

 

 最初に押し寄せてきていた此の花の生徒の大群が去ると、あとはちらほらと生徒が通っていった。単語帳やテキストを広げた生徒たちが多く見られ、会話の様子から察した雪菜が口を開いた。

 

「そっか、もしかしてテスト期間だから帰りが早いんだな。でも好都合だね、皆寄り道なんてしないで真っ直ぐ帰ってくれるんじゃない?」

「日曜日があるし、そうとも限らないんじゃないかな」

「うーん、そっか」

 

 時間は正午過ぎ。そろそろ空腹を感じてきたところではあるが、またしても此の花の生徒の大群が押し寄せてきていた。一時間前の大群よりも身長や顔つきから年齢層が高くなっていることが見て取れる。おそらくは高校生だ。

 目を皿にしてよく視ても、やはり植物を生やした少女は一人もいない。

 

「うーん不発だったかな……」

 

 そう漏らした時であった。雪菜は視界の端にある女生徒を捉えた途端、悪寒とはまた違った皮膚が粟立つような奇妙な気配を感知した。

 今までの人生の中でも知らない感覚だった。学校に出た悪魔や、かまいたちと対面した時に感じた本能的な恐怖や危機察知とはまた別の第六感。四階で初めて瘴気を見た際に感じたものとは近くて遠い、形容できない〝嫌な予感〟。

 それと同時に湧き立ったのは、「目を離すべきではない」という使命感にも似た直感だった。

 

「雨音。あの子、あの、短い三つ編みした子。赤いカチューシャの子の奥。なんか変だ」

「……そうかな。どこがおかしいと思う」

「なんというか、気配に嫌な感じがする。あの子だけ、そう視える……」

 

 説明の出来ない感覚を無理やり言葉にしようとする雪菜がなおも女生徒から目を逸らさずにうなっていると、手を引かれた。掴んだのは視界に入った雨音だ。

 

「君がそう言うなら、追いかけてみようか。近くで見たらよく解るかもしれないよ」

 

 改札の中へと消える少女の背中を、悟られないよう気を回して追いかけた。幸いにも電車が分断されず、少女と同じ車両に距離をとって別の扉から乗ると、勘付かれない程度に少女を視界に置いたまま遠目で眺める。

 

 乗車直後に座席に座った少女は学生鞄からポーチを取り出し、中から黒色のイヤフォンを出した。耳に当ててその先に付いている音楽プレイヤーを操作すると、瞳を閉じて音楽を聴いているようだった。

 微動だにしない少女は寝てしまったかのように思われたが、停車駅に着く度に目を開き駅名を確認しているようだ。

 駅構内で雪菜が感じた違和感も引き続き残ったまま。そのモヤモヤとした感覚を的確に表す言葉が思いつかず、胸のつかえが取れない。やはり言うなれば直感かもしれない。

 車内で口を開いたのは雨音からだった。

 

「確かに、良くはない感じがするね。……それで、君がこの後に何がしたいのか大凡の想像がついてしまったよ」

 

 雨音は深くため息をつくと、続ける。

 

「六月の時みたいにそれで解決するならいいけどね」

 

 電車に乗って、数十分後。

 行きに雪菜たちも降りた大きな駅で少女が降車した。その後を追いかける。

 駅の中を抜けて、改札を通り、また別の路線電車のホームへと向かう。またしても、雪菜たちが使ったのと同じ路線だった。

 

「……もしかして近所の子なのかな? そうしたらやっぱり」

 

 イヤフォンで耳が塞がっていても、少女に聞こえないよう小声での会話を努めていた。

 

「確認をしそびれていたけれど、君が先週見たのはあの子だったのかい?」

「いや、あの子じゃなかった」

「色々と不自然なことばかりだね。捕まえられたら手っ取り早いのだけど」

「まさか初対面の相手にそんなこと出来ないよ」

「その初対面の相手を尾けているわけだけども」

「今の所は帰り道だからセーフだって」

 

 再び同じ車両に離れて乗ると、また十数分を電車に揺られて過ごした。次の少女の降車駅は、雪菜たちの最寄り駅の一つ手前であった。

 隣街の駅に降り立った少女は、そのまま地上出口を目指す。二人も少女を追って地上階への階段を登る。

 地上に上がった後も、尾行は続く。

 少女と距離を近づける程強まる気配に、雪菜はもう既にこの少女が悪魔と関連性を持っているという確証を得ていた。故に雪菜の目的は、彼女から悪魔を祓うことにすり替わっていたのだ。

 

 ただ迷っていたのはその方法。

 おそらく四階でのパトロールよろしく雨音の指輪の効果範囲に触れさせることが出来れば叶うと思えたが、テスト期間だからか音楽の趣味からなのか、目の前の彼女は降車後から異様に早歩きをしている。

 十分にとった距離から近づき、背後から彼女を追い越しながら軽くぶつかることは悪意を持った当て擦りに見え得る行為となってしまう。走りながら身体を触りに行くのももはや痴漢の所業だ。どちらにせよ道幅があるのにあえてぶつかりに行くのは不自然過ぎた。

 解決しなかった際の次の手に支障が出る行いは避けたい。決定打を選び取れないまま、少女の後ろをただただ付いていく。

 このままだと自宅を特定してしまうことになる。最終手段としては通り魔的な犯行になることは覚悟していた。

 

 踏ん切りがつけられない内にふと気が付いた。住宅街を抜けだんだんと、人通りの少ない所に来ていると。日の当たる通りから抜け、建物同士の日陰が折り重なる裏の道の方へと出てきている。いくら昼間と言えど、女子高生が通学路に選択する道ではない。

 雪菜が脚を止めても、少女は歩みを止めない。

 

 勘付かれたのか? だとしたら、人通りの少ない場所にきて撒こうとするのはおかしい。……もしかして誘導されていた?

 雨音の方を振り向けば、雪菜が何を言おうとしたか分かっていたとばかりに「好都合だ」と肩を叩きながら返ってきた。雨音は最初に提案した通りに、捕まえる派らしい。

 

 再び二人が角を曲がった少女を追いかけると、そこにいたのは揺らめく影。否、影を纏った少女。まるで漆黒のローブのような影は、その輪郭を覆い隠しながら揺らぐ。

 

「かまいたち?!」

 

 昨日見た影と再び対面した雪菜は、無意識の内に胸の前に拳を作っていた。胸の中では少女を見た時に感じたざわつきが最高潮に達していた。

 昨日追った背中を、今日も追いかけていたらしい。しかし昨日は感じなかった恐れのようなものが湧いてくるのは、相対している影の気配が変わっていたからだ。より濃く感じる禍々しさの中に得体の知れない恐怖心が背筋をうずかせた。

 

「鎌鼬。へぇ、アレが」

 

 一方の雨音は初めて見る心霊通り魔に興味を示しているようだった。視線の先の揺らぐ影を品定めするように隅々まで目を通す。光を吸い込むかのような闇の色をしたそれは、一体何処に隠してあったのか。

 

『関わらないでって、ちゃんと言ったじゃない』

 

 少女を纏う影は、少女の合図でその形を大きく変えた。立ち昇るように現れ出たその姿は、さながら巨大な蛇のようだった。大きく広げた口から瘴気のガスを吐き出して、音もなく威嚇の動作を取る。

 

「鎌にも鼬にも見えないね」

『……』

 

 雨音が話しかけても反応が鈍く、相手方にはどうやら話し合うという選択肢はなさそうだ。

 雨音はかまいたちの視界から遮るように雪菜の前に立っていた。相手の出方を伺う。

 が、瞬間。雨音と雪菜との短い間に、足元から影の壁がそびえ立った。道幅の全てを仕切るように現れたそれに視野を奪われる。雨音が見えなくなる。

 

 壁の終わりを目で追うと、真横の建物の二階窓付近まで達していた。周り込むにはどうしたらいいかと考えていた途中、影の先端と目が合った。

 壁の先が伸びて、先方見た大蛇へと形を変えてゆく。

 頭上の蛇を見上げていた雪菜は不思議と動けずにいた。その姿は、蛇に睨まれた蛙のごとし。呼吸が浅くなり、身じろぎひとつ出来ない。喉が絞まっていく。

 蛇の大口が、まさに雪菜を飲み込もうとして広げられていた。

 

──コレはなんだっけ……?

 

 雪菜の、何か根本的な、本能的な何かが身体への神経伝達を止めてしまっているようだった。その思考すらもこの危機とはどこか違う場所にいた。ザワザワとした嫌な予感が、胸にこびりついている。

 

──どこかで見たことがあったような……

 

 迫り来る影に飲み込まれ、視界が闇に染まっていた。

 

 

 

第九話「夢から出ずる影(前編)」おわり

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