13「虚蝉 夏の記憶③」
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時刻は午後六時頃、制服に着替えた雪菜は暖色に染まりつつある西の空を見上げていた。
「どうして制服なの?」と家を出るときにひかりから追求されかけたが、なんとか伝家の宝刀で乗り切った。
学校に行くからには、制服を着ていた方が都合がいい。下校時間後にまばらに帰っていく運動部に紛れて入っても警備員に呼び止められることはないだろう。
身軽な外出用ショルダーバッグには歩く度に振動が伝わり、銀色のキーホルダーがゆらゆらと鞄に体当たりしながら揺れる。
日没までの猶予はまだある。少しだけ、という気持ちで雪菜は三神神社の方へと足を伸ばしていた。
ただ願掛けのお参りにいくつもりだった。雨音に遭遇して時間に遅れる危険性を考えたなら止めるべき行動であったが、最後に一目見られたら、なんて温い期待を雪菜が抱いているのも事実だった。
明るい夕焼け空の下、歩みを進めると見覚えのある人影が映り込む。三神神社の敷地内に生家をもつ、三神翼だ。いかにも部活帰りというような長弓を持った翼もこちらに気がついたらしく、遠くから声をかけながら石造りの鳥居の正面を通り過ぎて駆け寄ってきた。
なびくハーフアップの髪は細く美しく、着る者を選びそうな明るい茶色のセーラー服がよく似合っていた。誰の目も奪うような花のかんばせの少女は雪菜の前に立ち、「久しぶり!」としばらくぶりの挨拶を交わす。
「今帰り? じゃないか、家は逆方向よね」
「ちょっと出用があって。翼さんこそ、練習帰りですか?」
翼は肯定しながら、雪菜の視線が手に持つ長い弓や筒状の矢のケースに向いていることに気づくと、「さすがに毎日は持って帰えらないわよ」と付け足した。
西の空を染めるオレンジ色が夜を吸い込んで、更に強烈な朱色へと変わっていっていた。しかし時間から見ても日没までの猶予はまだある。
「もしかして急いでたりする? ごめんね、引き止めて」
「大丈夫です。一応お参りさせてもらうつもりで寄ったんで」
「へぇー。こんな時間に神頼みしたいことでもあるんだ」
三神神社の参拝道は夜遅くまで開いているが、日の暮れてからの時間に参りにくるのは夜の散歩が趣味の見慣れた人が多い。少なくとも雪菜がこの時間に参拝だけのために立ち寄るのは翼にとって違和感を覚えるようなことだ。
「ええ、まぁ……上手くいくように、願掛けです。あーっと、そういえばここ勝守とか売ってたりします?」
話題を逸らすように話題を変えたつもりの雪菜であったが、すぐに「しまった」と思い直す。無駄なことを話してしまった、深入りされて質問攻めをくらう前に逃げ出してしまおうか。などと思考を巡らせ、翼の次の言葉を待った。
「一応あるけど……そういうのなら恋愛成就とかの方がいいんじゃないの?」
「全然違います」
「なーんだ。夏休み直前のこんな時間に勝負ごとといったらやっぱりそっちだと思うじゃない」
運動部狙いかと見積もっていたらしい翼は口を尖らせて少しいじけたような素振りをしてみせる。さすがのマドンナはどんな表情でも絵になる端麗さは崩れない。
「なら、あんたに売ってるお守りなんて要らないじゃない。アレがあればさ」
翼は自分の胸の前に拳を作ると、そのままトンと軽く叩いた。その動作こそ、雪菜に染み付いた「アレ」なのだ。
「神社の娘がそういうこと言っていいんですか」
「いーのいーの、こういうのは思い込みが大事なのよ。プラシーボ効果ってやつ。例えばほら」
翼はスクールバッグの外側のポケットから小さな巾着袋を出すと、中身を雪菜に覗かせた。円状に束ねられた紐が見て取れた。紐の先端と思しき紅白の二つの弦輪から「これ弦ですか?」と雪菜が問うと、翼は肯首した。
「そ。矢が的中した時に矢を仕掛けるところで切れた弦。『中(あた)り弦』とか『安産弦』っていって、安産のお守りになるの。せっかくの縁起物だし、『良い結果が産めるよう』にってことで持ってるの」
「受け取り方次第ってことですかね」
「あんたのおまじないと一緒よ、一種の験担ぎ。もちろん、一番大事なのは自分を信じてあげることだけれど、どうしても自信がつかないときは、おまじないを増やしたっていいんじゃない?」
「他の、おまじない……」
雪菜は自分の胸に手を当てる。手の中にぶつかる感覚は、小さな円形だった。体温で温くなった金属が心臓の上に押し当たる。今まで何度も助けてもらっている、金色の指輪が。
どんなに強い闇でも祓えるような万能の力がないことは知っている。しかしこの光は、この身をずっと瘴気から守ってきてくれた。
「……決心がつきました」
「そう? ならよかった。がんばってね」
柔らかく微笑んだ翼の背後の空には、もう夕日が沈みかけていた。翼へ軽く会釈をしてから雪菜の足は軽快に走り出す。
大丈夫と心の中で何度も自分に言い聞かせるその右手には、服越しに金色の指輪が握られていた。
これで最後にはしない。なら、改めての別れの挨拶も必要ないから。
★
雪菜が再び学校についた頃には、西に沈みかけている夕日が最後の輝きで空や雲を茜色に染め上げた。日が完全に落ちてしまえば、東の天上から夜の青が降りてくる。
敷地内へと入る前に、背後から近づく足音に振り返ると、そこには『春香』が立っていた。一度帰宅したと思われる半袖のパーカーに膝上のスカートをはいた私服姿の彼女が、既に幼馴染の春香ではないことを雪菜は理解していた。
「『なんだよ、つまらないな』」
雪菜の険しい視線から既に正体が割れたことを察したのか、「春香」は不服そうな声色で話しかける。
朝と同じく、雪菜が逃げ出さないように監視にきた様子だが、雪菜にとっては好都合だった。
「『約束はここからだ。今回は黙ってついてきてもらうぞ』」
「……いいよ。でも春香は今すぐここに置いていってもらう」
「『俺相手に交渉か』」
「いいや? 最初から〝四階で引き換える〟とは聞いてないし、私もその条件には了承してないからね。だから、今ここで私と交換だ」
雪菜は特に取り乱した様子もなく淡々と要求を提示した。
どうすれば春香を安全に解放できるかを朝からずっと考えていた。四階で手放された場合の対応策は指輪を託すことを考えていたが、学校外で遭遇できたのは考え得る中で一番いい状況だ。咄嗟の対応にしては、雪菜も驚くほどに言葉がするりと出てきた。
相手の虚をつくならば、相手の言葉尻を捕らえることがもっとも痛いはずだった。
表情を変えない「春香」は小さな舌打ちとともに、笑い声を含ませて返事をした。
「『いいだろう。もう後に引けなくなったなぁ?』」
答えるとすぐに道端に寄り、建物の壁に背を預けた「春香」が瞳を閉じると、その体は力が抜けたようにだらんと両の腕を投げ出した。春香の脚を伝うように黒色の闇が地面に溶けていく。すると、少年のような高い色の声が地面から響くように聞こえてきた。
『いずれ目覚める、早く四階まで来い』
そのうちバランスを崩しそうな体勢で寝息を立てる春香を置いて、雪菜は学校の敷地内へと足を踏み入れた。
夜七時前の学校は昼間の学校とは雰囲気がまるで違っていた。日中は日光が射し込む昇降口も電気の光だけではととても暗い。
辺りは静かで、蛍光灯からジリジリと発せられる微かな音すらも耳に入ってくる。
雪菜は下駄箱で昼間に持って帰らなかった上履きに履き替え、要求に沿って単純に四階を目指した。
一階から三階まで、順当に階段を上り続ける。ここまでは平素と変わらず、瘴気すら落ちていない普通の校舎だ。そして、邪悪な気配漂う四階へ。踊り場から覗く景色には既に瘴気が立ち込めていた。
雪菜はゆっくりと深呼吸をすると、胸の指輪を強く握り、瞳を閉じる。どうか、勇気をください。と胸の奥の奥へと祈りを捧げた。
目を開き、立ち込める黒煙を脚で切り裂きながら、一段一段と上る歩みは拒絶されることなく魔の階へと誘われる。
階上へ出るといつもの様相とかけ離れたものが雪菜の目に映り込んだ。
合わせ鏡の向こう側を見ているかのような、無限。物理的な土地面積の不可能を足蹴にした、長い長い終わりの見えない廊下が両脇に広がっていた。
もはや廊下を歩かなくてもいいと告げられたように思い、雪菜は教室の表札も見ずに一番近い横引き戸から手をかけた。戸はただガタガタと音を立てるだけで開きもしない。
近い出入り口へと手をかけながら横に移動していく。本来であれば校舎の敷地からすらも出ているはずの地点で、戸がようやく開いた。
金属のレールの上を走り出し、壁にぶつかりスパーンと大きな音を立てる。開かれた入り口から見える景色は机と椅子が行儀よく並ぶ電気の落ちた一般教室だった。
カーテンの束ねられた窓の向こうには夜の闇が広がっていた。ただ、驚くべきは音でも教室でもない。そこに人がいることなのだ。
教室のど真ん中、三列目の四番目。腕を枕にするように長い髪の毛の少女が机に突っ伏していた。その右隣の机にはハードカバーの書籍が少女を見守るかのように横たわる。
戸の立てた激しい音で目を覚ましたのだろう、息を深く吸う音すらも、しんと静まり返った教室では扉の前に届いてきた。
小さくうなった少女がゆっくりと顔を上げると、まだ寝足りないのかあくびを漏らす。
雪菜にはそれが誰か、暗い教室の中であろうと目に入った瞬間に判っていた。見慣れたその少女は、雪菜の後輩。春の夜に手を引いた橘風花であった。
★
「風花ちゃん?」
なぜこんな時間にこんな場所に彼女がいるのだろうか。
場所はまだ分かる。四階に他の階の教室が繋がっていようがもはや驚くには値しない。なぜ、下校時刻が過ぎたこんな時間にまだ学校に残っていたのだろうか。否、残らされていたと考えるべきか。
警戒心を強めながら教室に踏み入った雪菜が扉付近の蛍光灯を点けてみると、寝起きの風花がこちらに気づいて視線を送る。
「……せんぱい? どうしたんですか、ここ、一年の教室ですよー……」
「風花ちゃん、もう夜の七時だよ」
足元へ目を向けると、廊下を漂っていた瘴気が出入り口を介してゆっくりと教室の方まで広がっていた。雪菜は戸をピシャリと閉めると、未だ覚醒しきれていない様子の風花に歩み寄る。
「えぇ? ……あっホントだ……」
風花は正面の黒板の上の時計を見ると状況を理解し始めたようだった。そのまま大きく伸びをして、ぼんやりと正面を眺める風花の額には圧迫された赤い跡がくっきりと残っていた。
「大丈夫? 早く帰った方がいいよ」
「そうですねー…………先輩は私を迎えにきてくれたんですか?」
「うぅん、ごめんね違うんだ。まさかこんな時間にいるとは思ってなかったから」
ゆるやかに変化する表情や反応からうかがえるところでは、本物の風花であると雪菜は判断していた。
状況から察するに本を読んでいたら寝落ちたといったところだろうか。都合の良すぎる考えを、真夏の教室でそんなことはありえないだろうとすぐに打ち消す。
「そうですかぁ、そうですよね。先輩は帰らないんですか?」
「……私は、これから用事があるから……」
「こんな時間に、ですか?」
風花の問いに雪菜は首を縦に振ることで静かに答える。
「だから一緒には帰れないけど、君が帰れるように手伝うよ」
風花が荷物をまとめ終え、出入り口の前へとやってくると戸を開ける前に雪菜は助言を言い聞かせた。
「今が三階でも、場合によっては瘴気が入ってくるから身構えておいてね」
「……はい」
風花も瘴気についての説明になると真剣な面持ちへと変わる。今までの怪奇現象について事前に説明をしていた甲斐もあってか、一言で事態を掴めた様子だ。
出入り口を開けると、案の定消灯済みの暗い廊下からうっすらと瘴気が入り込んできた。すかさず教室の外に出て、教室の名前で現在位置を確認する。風花の申告通りの一年生の教室、すなわち正しく三階の廊下であった。閉じた後の扉が別の教室の扉に繋がらないともなれば、雪菜は新しい法則をもった異空間の可能性をまず頭に置いた。
左右の安全を目を凝らして確認する。瘴気は先ほど視てきた四階と比較しては薄すぎるほどで、周囲に異形の類もみられない。
何度か同じ扉を使い開閉と出入りを繰り返しても、いつものような移動は発生しなかった。隣の教室の扉でも移動現象は起きないことを確認できた。
風花を背後につけてひとまず階段を目指し暗い廊下を進み始める。階段を介して階の移動ができないことが今までの定石であったが、今回も同じ法則になっているとは限らない。窓の外の闇が瘴気の由来のものなのか、そのまま元の外界の景色なのか、陽の落ちた後では見当もつかなくなっていた。
進路に妨害もなく、階段までは無事にたどり着いた。しかし問題はそこからだった。
階段自体は元の学校と同じ場所にある。が、二階へと通じる下りの階段はまるで最初からなかったかのようにこつ然とその姿を消し、目の前にあったのは四階へと通ずる上りの階段のみ。
見上げた様相は先ほどと変わらずに、重たく滑り落ちてくる瘴気が、暗闇の中でもそれと分かるほどに禍々しい気配を放つ。
「先輩……? これって……」
不安そうに背後の風花が雪菜の腕にすがりつく。「すんなり帰れそうもない」という事実だけは認識できた様子だった。
元々の下り階段の空間へと手を伸ばしても壁を突き抜けることはなく、たとえ幻の類であったとしても指輪が反応しないのであれば突破は困難そうだ。
朝に雨音が遭遇した〝拒絶された〟現象の逆。あからさまなやり方に、もはや別の階段を確認しに行くまでもない。
雪菜は四階の方、瘴気の溢れだす上り階段を睨みつけて声を張り上げた。
「おい! 用があるのは私だけのはずだろ!」
自分の声が反響して耳に届く。上からの返答はない。
「破らせるつもりか?!」
悪魔と交わした約束の上では、四階に行くのは〝雪菜一人〟でなければならない。一度正しくその通りに踏み入ったからといって、それが完全に果たされたものとして処理されるかは悪魔の気分次第だ。
雪菜の中に怯える風花を置き去るという選択肢はない。しかし四階へと共に上がれないともなれば、どこにも行くことができない。
遂行の妨害禁止は約束には含んでいなかった。悪魔が簡単に引き下がったことにも、風花が教室に留まらされたことにも合点がいく。
雪菜が約束を破った場合、悪魔も約束を破ることができる。あの黒々とした影が、無防備に意識を手放した春香の中へと再び舞い戻るのだ。
「先輩!」
風花の声で雪菜は我に返る。腕を離れ、風花は雪菜の目の前にいた。風花の眼差しがまっすぐと雪菜の瞳を貫く。
「用事って誰とのなんですか。今、どういう状況なんですか。全部教えてください」
「……ごめん、他言しない約束なんだ」
悪魔との約束を他人に伝えることは条項に触れる。不安を抱えた風花には申し訳ない限りではあるが、その風花も一時的に悪魔に操られていた可能性がある。口にした途端に、今朝の春香のようになるのではと考えただけで雪菜の唇は固く閉ざされた。
風花は顔を逸らした雪菜へ何と声をかけるべきか頭の中で整理をしているようで、しばらく時間をかけてから口を開いた。
「四階に、私を連れて行けないんですね」
ピタリと言い当てられ、思わず肯定と言わんばかりに顔を上げてしまった雪菜に風花が笑いかけた。
「じゃあ、一人ずつ上りましょう。それぞれが勝手に」
「え?」
「一緒には行かなければいいんです。先輩がいると分かれば私、怖くないですから」
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