9「夢から出ずる影(前編)①」
催涙雨。七夕に降る雨のことを、織姫と彦星が流す涙になぞらえてそう言うのだ。一般的には、天の川の増水により年に一度きりの逢瀬を果たせなかった悲しみの涙だという。
ちょうど梅雨の時期と重なる七月上旬は雨でない日の方が珍しいというのに。
発達した梅雨前線により全国的に雨となった週明けの七月七日、平日にも関わらず赤星ひかりは自宅にいた。
月初めの学期末試験が明けた自宅学習期間、結果表が返ってくるまでのいわゆるテスト休み真っ最中。普段は弁当作りに勤しんでいる時間にもすやすやと寝息を立てていたひかりが休日用アラームに起こされた頃には、平常通り中学校へ登校していった妹どころか、いつもはひかりの作った弁当を持って働きに出る母も既に家を後にしていた。
カーテンの向こう側からはしとしとと雨の音が聞こえていた。起き抜けで回らない頭のままベッドの上で午前中を怠惰に過ごすのかというと、そうでもなく。半袖では少し肌寒い今日に、恋しい布団の温もりを手放して、愛しの彼との約束に間に合うよう準備をこなさなければならない。
玄関チャイムが鳴るまでの残り数刻に、やらなければいけないことがそこそこある。ひかりは手始めに大きく伸びをひとつして、本日最初の一歩を静かに地につけた。
ピンポーンとドアホンが鳴り響いた正午ぴったりに、ひかりはまさに昼食の支度を終えたところであった。直後に炊飯器から炊き上がりの通知音が奏でられる中、来訪者をドアホンの画面で確認しながら通話ボタンを押し、「はーい」と声をかけると、パタパタと急足で玄関へと向かう。
扉の前で、ふぅ、と一息入れてから、ひかりは満面の笑みで来客を迎え入れる。
開かれた扉の向こうで待ち構えていた青年──暁亮 はひかりをその瞳に捉えると、嬉しそうに微笑んだ。
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電気圧力鍋で作ったビーフシチューは、いつも通り短い時間での調理とは思えないほどによく煮込み込まれていた。柔らかな牛すじ肉にスプーンがすんなりと入っていく様は何度見ても高揚するものだった。ほくほくとしたジャガイモも溶けることなく見事に形を保ってくれていた。野菜から出た水分と肉の旨味とが混ぜ合わさった濃厚なシチューが、調理器具と市販のルーで簡単に出来てしまうのだから現代に産まれたことに多大なる感謝を捧げることしかできない。
付け合わせのバターライスも炊飯器のみでこしらえた一品だ。ジャーを開く前から漂っていたバターの香りが配膳の最中にもビシビシと食欲を刺激していた。余計なベタつきもなく、ほのかに香るハーブがこってりとしたバターの風味を飽きないものにする手助けを上手くしてくれている。トロトロのビーフシチューともよく合っていた。
まさに、文明の利器とレシピ投稿者様々である。
料理は科学とはよく言ったものだが、目には見えない栄養素の反応よりも、手順を真似るだけで一定のものを再現してくれる調理家電に触れた時こそ、ひかりにとっては最も科学を感じる瞬間だった。
毎日、土鍋で炊いた美味しいお米が食べられるのも、時間を圧縮して素早く調理が出来るのも、生活を豊かにする科学技術の恩恵にあやかっているからに他ならない。
そしてその手柄を全部独り占めできてしまうのだから、うまい話だ。
「今日の料理もすごく美味しい。ひかりの作ってくれる料理が、一番好きだな」
ひかりと亮は向かい合ってテーブルを囲んでいた。いつもは敷かない洒落たテーブルクロスの上に、本日の昼食たちとカトラリーとが並ぶ。
ガラス製の涼しげな皿に盛りつけられたみずみずしい生野菜のサラダ、横長のカレー皿によそわれたビーフシチューに、同じ皿の中に添えられたバターライスはゼリーカップで形を付けてみたりと特別凝ったことをしてみた。
食卓を彩るそのすべての品についてひとしきり感想を伝えた亮は、優しく目を細めて穏やかな笑みを浮かべている。
ひかりが毎日弁当を作り続けてこられた理由がこれなのだ。彼のため。ひかりがなんの気なしにやったことすらも、すべてを隙間なく撫でるように亮は褒め称えるのだ。何度褒められようと、この心地の良いこそばゆさが消えてくれない。ひかりはその度に、はにかんで返すのだ。
「こちらこそ、いつもおいしく食べてくれてありがとう。デザートにゼリーもあるからね、楽しみにしててね」
自宅リビングでも学校でのランチタイムと同じように、お互いの顔を見合わせて、楽しく他愛のないおしゃべりをしながら食が進められていた。
「昨日の夜ね、雪ちゃんと今日は催涙雨で残念だね、って話をしたの」
カーテンが開けられた窓の外には、朝から相変わらずの雨模様が広がっている。丁度お互いの話し声が止むと、窓の外から雨の音が聞こえてきていた。口に含んだ柔らかいニンジンを飲み込み終わると、ひかりは続ける。
「そしたら雪ちゃんったらね、『地球の天気は何万光年彼方にいる二人に関係ないよ』って。たとえ話なんだから〜って言ったら、今度は『地球に涙が届く頃にはとっくに泣き止んでるから大丈夫』って」
「天上をそのまま現実の宇宙や星座と捉えているんだね。雪菜らしい」
「そうそう。おとぎ話に理屈を持ってくるのはどうかと思うけど、勝手に残念がるよりは健全だな〜って」
雪菜との話の後、ネット検索をかけてみればより多様なものが見られた。
催涙雨。その涙の意味は国や地域、時間帯によって変化をしていく。今まで二人が会えなかった日を想って泣く涙や、再びの別れの時を悲しんで流す涙となっていく。
「そっか。ひかりはどっちに思うことにしたの」
「せっかくだから、『地球には関係ない』って思うことにした」
二人は無事に会えて、涙を流す暇もなく、笑い合って逢瀬を楽しんでいるはずだから。
★
生活を豊かにする技術を詰め込まれた産物たちはあまりにも日常に溶け込みすぎていて、身の回りを囲まれているはずなのに、目を向けようとしなければ無自覚に視界の端から端へと消えていく当たり前の風景になる。
しかし、目に映る当たり前をあえて注視しようとした日には、その膨大な処理作業に辟易としてしまうことだろう。
他ならぬ自分を守るために、人間は見えなくてもいいものはあえて見ないようにしてるのだ。そうやって見過ごしてきていた。
だが、目の前を横切ったあまりにも突飛な〝非日常〟を視過ごすことは、今の雪菜には到底不可能だった。
「人の腕に植物が生えていた?」
雪菜は週明け登校直後の雨音を教室の外に連れ出して、週末に目撃した異常事態についての報告を上げていた。
「絶対幻覚じゃないと思うんだ。二度見したし。大地には見えてなかったし」
「君を信じていない訳ではないよ。それで、その女子学生とやらは一体何なんだい?」
「多分、此の花学園ってところの生徒。ここからだと電車で一時間もかからない」
此の花──梅の花の名を冠した中高一貫の私立女子学校。ウェブサイトでは梅の花を模した校章と共に、膝丈スカートの制服に身を包んだ少女たちの画像が大きく表示されていた。黒色のジャンパースカートの制服には金色の飾りボタンが四つ装飾され、白いブラウスの襟首からは真っ赤なクロスタイが覗いている。
件の女子生徒の着ていた特徴的な制服から、情報通の幼馴染に頼んで学校名を割り出すことができた。
雨音に見せるためにプリントアウトしてきた学校までの交通案内のページを広げて見せる。
雪菜の予想に反して、雨音から返ってきたものはため息であった。
「その学園の生徒が、君の何だと言うんだい」
「えっ、と。知らない人……?」
「違う学校の、関係も無い知らない人に構う必要があるのかな」
眉も動かさずいつも通りの顔つきで、諭すように告げられた。雨音が言うことももっともだ。すれ違った女子学生は雪菜とは縁もゆかりも無い他人。本来であれば存在すらも認知せずに別の道を行く、顔も知らなかったはずの人。……だが、視てしまった。雪菜の目だからこそ捉えられた異常を。見てしまった、身に起きている異変に気付いていない素振りを。見ぬ振りはもうできない。
「本当に関係がないか、確かめる」
この町で、腕に葉っぱを生やした人間など今まで視たことがない。それが現れたことが何かの前兆ではないとは誰も言い切れまい。
そしてそれが、今雪菜たちが相対している不可思議と全く関係がないとも。
雪菜の言い分に雨音は少し考えた後、少々不服そうに「分かった」と一応納得してくれた様子だった。
「ひとまずはもう一度視てみるつもり。最初に見た川沿いの道を張ってみる。通学路なら絶対使うだろうから」
「君の想定するような地元住民だったらそうだろうね。気分によって歩く道を変えているかも分からないけれど。外した時の徒労はどうする」
「今更そんなの気にするの」
「君には今のところ何の接点もない子なんだろう。危機意識もないのに、雨降る屋外での長時間待機、それを外したら連日だなんて。果たして君は此処での見回りと同じように頑張れるのかな」
やってみなければわからない、と言えたら良かったのだが、雪菜は本日の空模様を窓越しにちらりと覗いた。それだけで長時間待ちぼうけの想像が十分に士気を削り取るのに、口から出まかせは言えない。
じゃあ最寄駅を、せめて屋根のあるところなら、と考えてしまっている時点で雨音の指摘からは逃れられていない。空振りするか分からないのも、いつ出てくるか分からない球を神経を研ぎ澄ませて待つのも精神衛生に非常に悪い。
ならば逆に。決められた時間に絶対に来ると分かっている所に構えていればいい。
「こっちから出向く! 向こうは私立だから、土曜授業を狙っていけば休まなくてもいいし。次の土曜日じゃ遅いかも、だけど……」
尻すぼみになる言葉からは不安が滲んでいた。
人体から生える見えない葉。一般的に考えても、植物は地中に根を生やして水に溶けた養分を啜り上げるのだ。だとすれば、人の目に見えないものが、人に取り憑いて何を啜るか。
── 悪魔は人の魂を食らうらしいから、摘み食いでもされそうな気がしないかい?
作られた生霊を視て、雨音の言った言葉が頭の中で反芻されていた。別件であると願いたい。しかしそうすると、また別の脅威が町に来ているかもしれない。
確かめなければ。
「それならいいと思う。不明瞭不確定なことだ。片手間にやればいいさ」
「……今度の土曜日、雨音もついてきてくれる?」
雪菜からの問いかけに、けろりとした様子の相方が「勿論」と短く答えると、ホームルーム開始五分前の予鈴が鳴り響いた。
★
同日、放課後。掃除も終わり、帰り支度をする雪菜のもとにクラスメイトから声がかけられた。
「おーい赤星ぃー。後輩が呼んでるぞーい」
声のする教室入り口へと視線を移すと、見慣れた栗色のツーサイドアップ。写真同好会の後輩、橘風花がそこにはいた。
雪菜はクラスメイトに軽く礼を言うとそのまま廊下へと出る。
「こんにちは、先輩。えっと、お時間大丈夫ですか?」
「こんにちは、風花ちゃん。別に急いでないから平気。どうしたの?」
風花は少しもじもじとした様子で視線を落とした。
「あのう、それでしたら、部室でお話聞いてもらってもいいですか。ちょっとココじゃ話づらい、かもしれないので……」
「わかった。ちょっと待ってて」
内容を察した雪菜がそそくさと自席に戻っていく。窓際の一つ手前の列、自分の荷物を手に取った雪菜は、その一つ奥の机に座る雨音に事情を軽く説明してから連れてきた。
「おまたせっ! 雨音も一緒で大丈夫かな?」
「えっ…あ、はい! 大丈夫です。……」
雨音が相変わらずの無表情で風花を一瞥すれば、すぐに風花の方からぎこちなく視線を外されていた。
以前から風花は雨音に対して少し苦手意識を持っているようではあったが、〝教室で話しづらい〟ことを話すのであれば、おそらく雨音にも直接一次情報を聞かせるべきだと雪菜は判断していた。
そして何より、雨音の視える風景の方が、雪菜よりも風花の視るものと近いはずなのだ。又聞きした情報よりも有用なことが聞き取れると見越した。
部室で話すと言うことであれば、四階の見回りも同時並行で出来るので一石二鳥だ。
職員室まで顧問から部室の鍵を拝借しにいけば、他の利用者がいないことも確認が取れた。
七月に入り、より濃度を増した瘴気の影響で四階から生徒の声は聞こえなくなってきていた。静かな廊下には窓の外から雨のザアザアと鳴る音が響いている。
部室の中は少し蒸していたが、瘴気を阻むためには扉を、雨を遮るためには窓を締めざるをえなかった。
期末テストも既に終わっている今、他の生徒が訪れてこないことを願いつつ扉に鍵をかける。雪菜と雨音は、風花とは対面に座り、まるで面接の様相から話し合いが始まった。
「それでは風花ちゃん、どうぞ」
「えぇと。ちょっと気になるものを視ちゃってですね、これは先輩に報告したほうがいいと思って……」
「気になるもの?」
「あの……体に葉っぱが生えてる人を──」
その言葉を聞いた途端に、雪菜は机の上に出された風花の両手を取った。突然のことに風花は驚いて口をパクパクといわせている。
「やっぱり! やっぱり視たよね!? めっちゃ生えてたよね?! 風花ちゃんも視てくれてて良かった〜」
雪菜が雨音の方を得意顔で見ると、雨音もまた「疑っていた訳じゃない」といつもの澄まし顔で応える。
「先輩も視たんですか?」
手を握られたままの風花が聞くと、雪菜は首肯しながら上機嫌に答える。
「うんうん! 私が見たのは一昨日の土曜に近所でだったんだけど、風花ちゃんは?」
「私は昨日……買い物しに繁華街に行った時に、視ました」
「繁華街かー、それに日曜だしなぁ。その人、どんな感じの人だった?」
「……すみません。何分人も多かったですし。正直なところ、どの位の年齢の人なのかも分からなかったです……ただ女の人だったとは思います!」
「わかった! 教えてくれてありがとう」
いくら繁華街と言えども、少なくとも周りの人間の反応を見ればただの奇抜なファッションとは区別がつく。その上で風花は雪菜に報告を上げに来てくれたのだ。
風花は少ない情報量に謙遜していたが、雪菜だって道ですれ違っただけの奇抜な他人を隅々まで観察しようとは思わない。おまけに人混みの中。注視してしまうものが一点あれば、他の特徴なんてないがしろになってしまう。
同一人物かは不明だが、複数人で目視できた事実が、その存在を補強する。
「あのね、私が見た人が此の花学園ってところの制服を着ていたんだ。だから、今度の土曜に雨音とその学校へ行ってみようとしてるとこなんだけど。風花ちゃんも、もし都合が合ったら」
「ごめんなさい。今週の土曜は行くところがあって」
「そっか。じゃあ何か分かったら伝えるね」
「ありがとうございます」
風花が部室を後にしてから、二人は日課になってしまった四階の巡回を行っていた。
本日は雨のせいか、一段とどんよりとした空気を放つ四階には近寄り難いのだろう。怪しい挙動の生徒は見られなかった。
「雪菜。さっきの話、何だか……いや。やっぱり何でもないよ」
見回りの途中、雨音が発した言葉が、少しだけ雪菜の気がかりとなっていた。
★
降り止まない雨の中、家路に着いた雪菜は見覚えのある人影を二つ、その目に捉えていた。自宅マンションの一階入り口にその姿を見て、すぐに歩みを止めた。傘を広げた相手から視認はされなかったために、そのまま立ち去るのを待っていた。
もう少し帰るのが早ければ、鉢合わせになっているところだった。そういえば昨日の夜に家に招くと聞いていた。まさしく七夕の逢瀬、しかもラストシーンを邪魔でもしようものなら、と考えて胸を撫で下ろす。
マンションの中へ姉の姿が消えて行くのと同時に、雪菜は再び歩みを進める。集合ポストの前で郵便物を確認していたひかりに「ただいま」と一言かけた。
「おかえりなさい。亮くんさっき帰ったよ」
「うん。見てたから知ってる」
「え〜挨拶していけばよかったのに」
「やだよ。気まずいもん」
姉の彼氏とは知らない仲ではものの、お互いに特別気を許した仲ではない。雪菜は彼を先輩と呼び、実際に部活の先輩後輩であったこともあるが、それもほんの一月程度の話だ。
恋人のひかりと接している時の亮は非常に穏やかで、こちらには目もくれず、目の前で流れるようにいちゃつかれるものだから、二人揃っている時に絡みたくはないのだ。
そんな亮が雪菜に対しては違う側面を見せていることを、おそらくひかりは知らない。
「で、家来て何してたの」
普段は階段使いの雪菜がひかりの隣でエレベーターを待っている間に、手持ち無沙汰に話題を広げる。
「うーんとね。お昼食べて、借りてきた映画観たの。あとね、冷蔵庫に亮くんが買ってきてくれたプリンがあるよ」
「挨拶しておくんだったな……」
一言で済んだのに、後悔先に立たずというものだ。どうせ、ひかりのために買ってきたもののついでだ。改めてお礼のメールを打つほどでもない。次に会った時にでも礼を言っておこうと記憶しておいた。
「あとねー、ベランダのミントに虫がついてないか見てくれたの」
「雨なのに?」
「せっかく家に来たからって。私も虫は見たくないし甘えちゃった」
ひかりが向こうの家に行くことは幼少期から多々あったが、亮がこちらの家に来る機会はそうそうない。
植えているだけでもある程度の虫除けになるミントではあるが、虫によってはその葉を好んで食いにくるのだ。
元を辿ればミントのプランター自体が亮がひかりに貢いだもののひとつであったはずだ。仮に虫が出ても、アフターケアの点数を稼ぎにやってくるに違いない。それにしても──
「虫、か……」
人の腕から生えていた葉には、異形の虫が集り出すのかもしれない。
目には視えない外敵に晒されるかもしれない、梅の花の学校の制服の少女に雪菜は憐れみの思いを馳せていた。
土曜日まであと五日。それまでに彼女の身に何もなければいいが。
ひかりと共に到着したエレベーターに乗り込むと、今度は惚気話が始まって頭を抱えることとなった。
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